あなたの声
柊 こはく
第1話 雨宿りと一本のテープ
とても大切な人の声が、した。
ずっと前に失われたはずの声が。確かに、私の耳に届いた。
「お姉ちゃん、さみしいよ……」
カセットテープの雑音混じりの音のなか、あの子の声が聞こえた瞬間、私は呆然と立ち尽くしていた。
ありえない。聞き間違いだ。そう思うも、指先が勝手に音量つまみを探していた。
心ではわかっていたのだ。
この声は、間違いなく──私の、妹。ひなたのものであると。
✦︎✧︎✦︎✧︎
ある日、私は小さな雑貨店に足を踏み入れた。
大学の帰り。最寄駅から家までの道を歩いていると先程まで晴れていた青空に雲がかかり、急な雨へと変わる。私が裏路地の先の軒先に行く頃にはびしょ濡れになっていた。
「今日は雨降らないって言ってたのにっ」
折りたたみ傘なんてものは持っておらず、曇天から降り続ける雨に思わず睨む。
「ていうか、ここどこだろう」
ふと後ろを振り向くと、 色褪せたオレンジ色の看板と、古びた木製のドア。そこが「雑貨店」らしいと気づいたのは、扉の上にうっすらと刻まれていた文字が目に入ったからだ。
《ひるがお堂》
ひと昔前の可愛らしいフォント。くすんだガラスの向こうに、古い品々がぎっしりと並んでいた。
私は錆びたドアノブをゆっくりと回し店内へと足を踏み入れた。
入った瞬間に香るどこか懐かしさを感じさせる、古紙の匂いやほんの少しお香のような甘い香りが漂っていた。
店内を見渡すと懐中時計、瓶詰めのドライフラワー。使い古された人形や埃を被ったレコード、日に焼け黄色味を帯びた本……そんな昔を感じさせるものがいくつも置いてある。
──ここだけ時が止まったような空間。
「……誰もいないのかな」
そう声に出すと、少し安心した。ここのお店が怖かったわけじゃない。ただ、この不思議なお店で私一人が取り残されたような気がしたから自分が“今、ここにいる”という実感が欲しかっただけだと思う。
「いらっしゃい」
心が落ち着くような低音の声とともにレジ奥から眼鏡をかけたお爺さんが出てきた。
「すみません。雨が降ってきて、少し雨宿りをさせてもらいたくて…」
「構わないよ。ゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます」
おじいさんは優しい目をしており、ふわりと口元を緩め微笑む姿に安心感を覚えた。
暇つぶしに店内を見ようと思いゆっくりと辺りを歩く。
ふと目線を上げると、棚の隅に積まれていた箱の中から、ひとつだけ、妙にきれいな状態のカセットテープが目に留まった。そのカセットテープには白いラベルが貼られており、子どもの字でこう書かれていた。
『お姉ちゃんへ』
……ドクン、と心臓が跳ねた。カセットテープを持つ私の手は震えていた。
そんなはずない。偶然だ。
でも、どうしても手放せなかった。
おじいさんに声をかけようと振り向いたが、姿はなかった。
「すみませーん」
何度か呼んでも、一向に返事はない。
私は財布とメモ帳を取り出し、『カセットテープの代金です。
店を出る頃には、雨はもう上がっていた。私はカセットテープを聞くために駆け足で帰路に着いた。
自室に戻ったあと、私はそのカセットテープをじっと見つめていた。
どうせ、誰かの落とし物か、子どもがお遊びで書いたものだ。
そう思おうとしても、ラベルの文字が、妹のひなたが書いていた字にそっくりでそれだけで、心がざわついた。
──お姉ちゃんへ。
私はもう長いあいだ、誰にもそう呼ばれていなかった
「……再生、できるかな」
物置から父が昔、使っていたカセットプレイヤーを引っ張り出して、差し込む。
カチャ、と小さな音がして、テープが巻き戻り始める。
そして、再生ボタンを押した──
──ザー……ザザ……カタッ、カタッ……。
雑音のなかに、微かに音が混じる。
「……お姉ちゃん。いま、どこにいるの?」
私は、息を飲んだ。
……嘘。
……こんなの、ありえない。
聞き間違いだ。似ているだけ。よくある声の録音だ。でも、その声は──何度も私の夢に出てきた。
何年経っても、忘れられなかった。九歳のままの、妹の声だった。
「ひなた……?」
無意識に妹の名前を呼んでしまった自分に戸惑いが混ざる。カセットプレイヤーからカチリと音がして、テープは止まった。
もう一度再生ボタンを押しても、音は流れない。
偶然?幻聴?
──それとも、奇跡?
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