怪異無双Ep.3 記憶の残響

その日は、風がなかった。雲もない。音もなかった。


小夜が立ち寄ったのは、かつて弓道部が使っていた古い屋内道場だった。

扉の隙間からこぼれる光に誘われて覗くと、そこにいたのは五十嵐先輩。


白と紺を基調とした稽古着姿で正座し、静かに目を閉じている。

傍らには一本の細身の槍。模擬のものではない。


やがて先輩は立ち上がり、構えを取る。

その所作は戦闘というより、祈りのようだった。


『……あの構え……まさか、そのまま残っていたとは』

小夜の背後から彼女の守護霊月白守の声。だが小夜には意味が分からない。



数日後。


「小夜さん。……一緒に来ていただけませんか?」


放課後、五十嵐先輩はそう切り出した。

「他の方には内緒で。あまり事を荒立てたくありませんので」


「……私ですか?」

「ええ。小夜さんが必要なんです」


小夜が怪訝に首を傾げる背後で、五十嵐先輩の視線が一瞬だけ月白守の方へ流れる。

小夜には気付けない。



二人が訪れたのは、市街地の端にある古びた廃寺だった。

苔むした石段を上る途中、五十嵐先輩はぽつりと呟く。


「……最近、夢を見るんです。呼ばれているような夢」


「夢……?」


「ええ。誰かに“来て”と。その声が導いた先が、この場所でした」


その言葉に呼応するように、本堂の扉が軋んで開いた。


『小夜、下がれ。ここは、もう“向こう側”と繋がってる』

月白守の声が低く響く。


闇の奥からにじむように現れた黒い影。

人の形を模した仮面、うねる手、無数の“腕”が舌のように蠢く。


月白守の着流しがはためき、白と藍の狩衣が顕れる。

烏帽子、符、紙扇、儀式刀──かつての陰陽師の姿。


『……この格好も久しいな。あの夜に近づく』


五十嵐先輩は一歩踏み出し、静かに告げた。

「……ここは通さない」


背後に小夜を庇い、両手を祈るように交差させる。

見えない槍を突き立てるような型。


『……間違いねぇ。あの夜の“祈り”の構えだ』

月白守が後衛から式陣を展開する。

『……そうか。この形、忘れていたわけではない。だが、今の世で再び成るとはな』


二重の結界が発動した瞬間、怪異が突き破って襲いかかる。



「小夜さん! 私から離れないでください!」

五十嵐先輩の声に、小夜は必死にしがみついた。


零感ゆえに何が起きているかは分からない。

けれど──この人の言葉に従えば守られる。

そう信じられた。


五十嵐先輩の瞳が、決意に燃える。

「私には私の戦い方があります」


祈りの槍が放つ光と、月白守の符術が共鳴する。

境内を満たす霊力が怪異を押し返す。


次の瞬間、白刃のような光が奔り、怪異を一閃した。

『式・双重展開──主結、後衛より補強。突き抜けろ!』

(※双重展開=そうじゅうてんかい)


二人の力が重なり、結界は重厚な輪を描く。


その瞬間、月白守が鋭く詠唱を切り裂く。

『斬り裂け!!』

符が爆ぜ、儀式刀の一閃が夜を裂いた。

怪異の影は光に呑まれ、焼き切られていく。



やがて境内に静寂が戻る。

小夜はがくりと膝をつき、震える吐息をもらす。


「……終わったの?」


視えぬはずの光景。だが恐怖だけは残っていた。

小夜の瞼は重く、記憶は霞んでいく。


月白守はそっと背を支え、額に指を添えた。

『……今は、まだ早い。忘れたほうが楽なこともある』


淡い光が瞬き、小夜は静かに眠りに落ちる。


月白守はその小さな背を抱き上げ、肩に背負った。


五十嵐先輩は微笑みを浮かべる。

「……やっぱり、優しいんですね」


月白守は目を伏せ、ぽつりと呟いた。

『……護るって、こういうことかよ』


『……あんた、俺の姿が視えてたんだな』


「ええ、最初から」


並んで歩き出す二人の間に、秋の夜風が吹き抜けた。


月白守は、眠る小夜の重みを背に受けながら小さく吐き出す。

『……俺の仲間たち、強ぇな……』


―――了―――


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