大好きな音
宇立 飲湖
大好きな音
肌に吸い付くような冷たさ。床に伸ばした私の脚が芯から冷えていく。息を吐きながらその脚に額をつけた時、扉の開く音がした。
「ごめん怜良ちゃん、遅れちゃった。」
顔を上げると、既に体操服に着替えている羽奈が荷物を置いていた。
「全然大丈夫。生徒会って大変なんだね。」
「そんなことないよ、先生に捕まるとちょっと長引くけど…」
困ったように笑いながら、羽奈は髪を1つに結い始める。艶のある美しい黒髪が揺れていた。なんて絵になる人間なんだろう。
脚を開いて身体を前に倒す。足の付け根がジンジンと痛んで苦しいが、身体をさらに倒していった。
私は高一の時からチア部に所属している。友達に誘われて流されるまま入部したが、誘った本人はすぐに辞めていき、私はそのままダラダラと二年になるまで続けてきてしまった。
気付けば羽奈は私の後ろに回って、私の身体をじわじわと前に倒してくれる。
「膝をこのままキープ出来るともっと柔らかくなるよー」
両手で足の付け根を押さえて倒される。
「本気で脚裂けそう…」
「あはは、ファイトだよー」
笑いながら押し付けてくるとは、羽奈はなんて狂気に溢れた人間なんだと冗談交じりに思う。
羽奈は私と違って身体も柔らかく、チア部屈指のエース気質である。家でもかなり練習をしているらしく、新しいダンスは次の日に既に覚えているほどだ。怠け者の私とは天と地ほどの差で、少しだけ劣等感を覚えてしまう。
「怜良ちゃん、柔らかくなったよね。」
羽奈が力を緩めれば、バネのようにそのまま私の身体も戻る。
「そう?あ、でも羽奈がお風呂上がりにストレッチするといいって言ってたから時々やってるよ。」
あくまでも時々だが、私にしては続いているほうだ。
「あれかー。やっぱり効果あるよね!もうちょっとで胸も床につきそうだったよ。」
「自分でもここまで来られたことにびっくりしてる。」
「怜良ちゃんはチア、1年生の頃から凄い頑張ってるよね。」
頑張ってなんかないよ、と言いながらぎこちない笑みを浮かべる。同学年でも実力差は歴然。私が羽奈よりも努力していないことは明らかなのに。どうして見え透いたお世辞を言うのだろう。さも当然だというように、スラスラと。
いけない、すぐに卑屈になるのは私の悪い癖だ。もっと、文面だけを受け取れるような素直さが欲しい。
羽奈も自分のストレッチを始める。本当に、なんでも絵になる子だ。
「だけど、オフの日まで練習してる私たちって偉くない?」
なんて悪戯っぽく笑うものだから、釣られて微笑み返して言う。
「みんな流石にここまでやらないもんね。」
「私も怜良ちゃんに誘われてなかったら、こんな寒い日にわざわざやってないもん。怜良ちゃんってやっぱり真面目だなー」
微かな隙間風が頬を撫でる。どう返事をしたらいいか分からなくて、時計の秒針の音だけが響いた。
帰りのチャイムの後に声を掛けてきた海香の誘いを、謝りながら断る。部活があるから、一緒に帰るのは無理だ。
「今日もチア部練習あんの?やばー、私なら絶対無理」
少し色の濃いリップと、その瞼を遠慮がちに彩るラメ。私なんかより海香の方が、チア部には似合っている気がするのだが。この海香こそ、私をチア部に誘った張本人であった。
「何気に怜良チア部ずっとやってるよねー、まじですごいと思うわ。なんで二年もやれんの?楽しい?」
「うーん、なんでだろう。なんとなく?」
何それ意味分かんない、と海香は笑う。その後も上辺だけの、雰囲気を味わうための会話をする。ひと段落着いた頃、海香はスクールバッグを持つと、じゃあねーと帰っていった。人を寄せ付ける夏の太陽みたいな彼女の事だから、あのまま誰かに声を掛けて一緒に帰るのだろう。輝く彼女の背中を見送ったあと、私はしばし動けずにいた。
練習終わり。帰りのバスから眺める景色の色彩は、静まり返っている。疲れきった私の顔がそこに映っていた。今日はチアの大会が近いため、先生に怒られる事が多かったと思う。皆は先生の機嫌が悪かった、なんてこぼしていたけれど。先生は多分、私達のことをよく考えて話をしてくれている。先生の言葉は厳しいけれど、チアを続けて1年経った私たちは演技が成功した時の達成感を知っている。私達に後悔をさせない為、全力を尽くせる環境を整えてくれようとしているんだろう。
イヤフォンをつけて、今日の通し練習の録画を見直す。映りこむ私は、何とかリズムについて行くことはできているのだが、迫力が足りない。腕を回す部分で腕が曲がっている。頭を下げる振りの勢いが足りていない。他の部員と揃えるべき部分がズレている。こうして見てみると、身体の柔かさや技の技能に関しては個人で練習出来ているが、タイミングやクオリティ揃えるのには自主練習では足りない。でも、最近は練習に羽奈を付き合わせすぎているような気がするし、もう少し自主練習に留めよう。他に誘えるような人もいない。羽奈の様な上手い部員と合わせることが1番効率はいいのだけれど、こればかりは仕方無いだろう。せめて、足は引っ張れない。
「怜良ちゃん怜良ちゃん、顧問の先生が呼んでるけど……何かあった?」
「ほんと?私何もしてないと思うんだけどな。呼び出しとか怖い。」
首を縦に振って、同意してくれる羽奈と一緒に顧問の元へ向かう。最近は大会の練習として、私一人でほとんど毎日部室の鍵を借りていた。流石に迷惑だったからだろうか。部員の中で、私だけが演技が下手だと思う。他の部員のような輝きも、自信に満ち溢れた表現も無い。
頭痛がする様な寒さの廊下では、目眩がしてくる。職員室の戸を叩けば、短い返事が返ってきた。扉が開いて、目の前に現れた顧問を前にすれば無意識に息を呑んでしまうというものだ。
「藤森怜良さん、待ってたわよ。あなたを呼んだのは他でもないの。」
「はい。」
顧問はこちらに顔を向けて、うっすらと微笑んだ。
「演技中盤に、ダイアグナルで始まるリプルがあるわね。リプルの先頭の動きだけを変えて、ソロパートとする事は部活中に話した通りだけど。そのパートを、藤森さんに任せたいと思っているのよ。」
確かに、通しの練習の中でその部分だけは全員がリプルをしていた。まだ振り付けが決まっていないのかと思っていたが、まさかソロパートの部員が決まっていないとは。当然羽奈や先輩たちに既に声がかかっていると思っていた。
「ありがとうございます……。」
「振り付けは動画として送るわ。あなたは真面目だから、練習を怠るようなことは無いと信頼しているの。勿論、ソロパートは演技中の華よ。それに4エイトという中々の尺。出来ないようならば、すぐに入れ替えをする。しっかり気を引き締めなさい。」
「はい。」
顧問である彼女なりの優しさを、その一言から感じた。背筋が伸びるような気持ちと、温まった心が隣り合わせで。私の隣にいた羽奈と話し始めた顧問の瞳を、見つめていた。
送られてきた動画を見ながら、鏡の前で振り入れをする。何度か動けば動けるのだが、技術の向上をするにはまだ練習が足りない。足の伸び、腕の角度、指先の細やかさ、笑顔だけでない含みを持たせるような表現方法。分かっている、でも出来ない。
何度も練習して、通して確認をして、また見直して練習する。私が間違えれば、その瞬間、演技は見ていられないものになる。大会だけでない。うちの学校では大会前に全校生徒を呼んで、演技を見てもらうのだ。身体にのしかかる重みも、視界を黒く遮るようなプレッシャーも、いつからか目を背けたくなっていた自分自身も。気にしないように我慢して、踊る。音に合わせる。リズムに合わせる。皆に合わせる。
気が付けば、ただ私は床に座り込んでいた。
手首にチクチクと触れるポンポンが、私を現実に引き戻す。舞台に出てしまえば全校生徒の目に晒される。息が詰まる。鼓膜に響くほど、心臓が脈打つ。
私の呼吸のペースをさらに乱すように、音楽が体育館中に響く。舞台に駆け出して、部活で練習を重ねたその位置に。何度経験しても発表とは慣れないもので、纏った笑顔を視線で千切りにされるようだといつも思う。
身体が振り付けを覚えている。それでも気を抜かずに全力以上を出す。そうでもしなけば、到底皆には追いつけやしない。皆の、演技全体のクオリティを保つ。
ふと、前に出ていく羽奈の背中が見える。というかフォーメーション的には、いつでも見える場所に羽奈はいた。しかし私は、今初めて羽奈を羽奈として認識したと思う。それはきっと観客も同じことで、今まで舞台上に出た人間は一糸乱れぬ揃った動きをしていた。そこに唯一、胸を張って堂々と、誰から見ても美しいと言わしめる羽奈という人間が現れたのだから。存在感、という言葉が彼女自体の固有名詞になり得るとすら思えた。彼女は私達のことすら照らすように、暖かい輝きを湛えていて。
___いけない。自分の動きに集中しなくては。
観客が盛り上がってきた。あと少しで私のソロパートになってしまう。あれほど悪い想像を重ねたが、幸いにもと言うべきか今となってはその想像すら思い出せないほどの焦りに苛まれていた。
無意識に大きく肺に空気を取り込んで、体形移動をする。私だけがこの動きをしている。滑らかに、でも跳ねるように明るく。
後ろに脚を伸ばした瞬間、反対の脚がもつれた。背中にじんと冷たい汗がつたう。こんな時に限って悪い想像が洪水のように押し寄せる。
「怜良ー!頑張れ!かわいいよー!」
海香の声だ。少し笑いながら、叫んでくる。推測だが他の女子の声もした。複数人で私を応援する。いつもなら馬鹿にされているのかもしれない、なんて無駄なことを考えてしまうけれど。今だけは、うわべの言葉でも嬉しかった。私を見てくれている人がいる。このパートはサビ前の大切なところ。でもそれ以上に、私だけが輝く最大の見せ場。
せめてここだけでも注目を浴びたい。他の誰でもない私だけの演技を魅せて、私の存在を知らしめてやる。羽奈ほど上手くできなくてもいい。ここでは私が1番目立って、私だけが主役なんだから!
不思議なくらいに演技が楽しい。ほとんど全ての視線も手拍子も私に注がれていると感じられることが、私を満たしていくようで。溢れる笑顔と幸福感。自然と振り付けも大きくなって、いつもよりも動きが良くなっていることが見なくてもわかる。これがチアの楽しさなのだと、初めて私は気付いてしまった。
大好きな音 宇立 飲湖 @ponserebu
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