魅惑の紫

 通学路に響き渡る楽しそうな甲高い声。夏の暑さを忘れたように一気に冷え込んだ名ばかりの秋のせいで、山の色は緑のままで赤く色づいたものは一つとしてない。

 冬のような凍える寒さがやって来たにも関わらず、薄い上着をその身に纏い、重く大きなランドセルを背中に背負った子供たちは勉強から解放された今各自、家路に着いている最中だ。

「なぁー! これ見て!」

「ちょっと待ってよ」

 沼を覆うようにして造られた、車一台分しかない細いアスファルトの道。勢いよく走っていた少年が、何かを見つけたようで沼側に生えている木とその隣にある電信柱の前でその勢いを止め、走ってこちらに来ている少女に教えるように絵本の世界から飛び出してきたような美しいものを指差した。

「見たことない蝶!」

 目をキラキラと輝かせている少年に対し少女は示す指の方を目にすることはなく、ただひたすらに乱れた呼吸を整えようと膝に両手をついて胸いっぱいに酸素を吸ったり、吐いたりを繰り返す。

 そんな少女の様子など気にも留めず少年はキラキラと輝く、何も知らないその瞳で一匹の蝶を見つめていた。

 段々と肩の動きが小さくなってきた頃、少女はやっと少年の指さすほうへと視線を持ち上げた。

「あっホントだ、きれーだね。あっ、でも…」

 木と電信柱の間。二人の身長より少し高い位置で微動だにしない蝶。

 その蝶の周りをよく見ると、円網型の白い糸がかかっており、蝶は巣に引っかかっていることが見てとれた。

 中心から放射線状に伸びる糸に模様をつけるようにして張られている螺旋状の糸。逃げることなどできない、張り巡らされた白い糸に囚われた蝶はまるでお伽話のお姫様のようだ。

 少女は落ち着いた呼吸の中、その小さな体で背負っているランドセルの肩ベルトの部分をギュッと握りしめた。

「こーやって取ってあげたら済む話!」

 少女の酷く悲しそうなその表情に少年はその小さな背をうんと伸ばし、蝶へと手を伸ばした。

 プルプルと震え定まらない高さの中、少年は肉感のある柔らかな手で美しい蝶の羽を摘んだ。

 ゆっくりと羽を傷つけないように少年は先ほどの勢いと、打って変わって勢いを殺し、コンクリートの隙間から生えた背丈のある雑草に乗せた。

「ありがとう」

 少年の目を見て一礼すると少女は触覚を動かしだした蝶をじっとその大きな瞳で見つめだす。

「感謝すんなって。当たり前のことしただけなんだからさ」

 同じような背丈の二人。少年は特別いいことをしたような誇らしげな表情をするわけでもなく少女の隣に立ち、同じように美しい蝶を見つめる。

「そういうとこカッコいいよね」

 独り言のように小さな声で呟いた少女は大きな目を細くして少年に向かって、わざとらしくその可愛らしい笑みを見せた。

「ばっ、か…お前、そんなこと言っても何も出ねーぞ!」

「アハハ。期待してないですぅ」

「お前な…」

 顔を真っ赤にしながらも少年はどこか嬉しそうに、少女が見せた笑みと全く同じ笑みをその赤くなった顔に浮かべた。

 季節柄にもなく雪が降りそうな寒さ。どこからか突如として吹いてきた、一際大きな北風があたり一面にその寒さを知らしめるように大きな唸り声のような音を立て過ぎ去ってゆく。

 それと同時に葉に乗っていた美しい蝶はその美しい羽を目一杯広げ、真っ白な太陽ひとつない空へと飛び立っていった。

「行っちゃった…」

「キレーな紫だったな」

「うん」

 名残惜しそうに二人は蝶が飛び立っていった空を見上げている。

 雲に覆われた白い空。そこに一匹の紫色をした美しい、魅惑の色の蝶はその白い空へと己の存在を知ってもらいたいというように、何もない白の中へと入ってゆく。

「ねぇ宿題一緒にやったげるよ」

 空を見上げながら少女が突然と口にした。

「マジ!? いいの? よっしゃ!」

 少年は嬉しそうに少女のほうを見て、満面の笑みを浮かべガッツポーズを決めた。

「いいことしたかいあるな!」

 やったーと叫びながら少年は住宅街へと向かって走り出す。途中、少女のほうを振り返って早くと言わんばかりにその場で足踏みをして右手でおいでおいでと右手で招く。

「…よかったね」

 少女の目には一匹の節足動物が映っている。その節足動物は節のある足で張り巡らされた白い糸の真ん中、あの美しい蝶がいた場所で少女たちを見つめるよう、その小さな体が風にさらされても糸から離れることなく、ジッと微動だにせず二人のほうを向いていた。

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オンガエシ 宵月乃 雪白 @061

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