夢遊り姫

飯田太朗

夢遊る

 覚えている景色がある。

 ホテルの廊下だ。暗い。自販機の重低音だけが聞こえる。ふかふかの床は立っているとどうにも不安定で、そのことが余計に微睡まどろみを誘う。

 僕はそんな中に立っていた。何で立っていたかは覚えていないけど、ただ、呆然と、立ち尽くしていた。

 ――少し先に女子部屋がある。

 ――二年一組の女子の部屋だ。

 そんなことが頭に浮かんだ。あれ? 女子部屋? 女子の部屋? ってことは男女分かれてるんだ。何で? そもそも何で僕はホテルになんているんだっけ? 

 そして、思い出す。

 修学旅行だ。

 僕は修学旅行に来てるんだ。

 そこで意識がハッキリする。口元に何かが垂れている気がして啜る。よだれ、大丈夫かな。

 そして下半身の心配もする。前にこの状態になった時は漏らしていた。姉に相当心配されたし、母からは揶揄われた。僕は股間の辺りの温度を気にする。大丈夫、濡れてない。漏らしてはいないようだ。

 目を擦る。頭を振る。寝ていた。寝ていたんだ。

 夢遊病。

 それが、僕の最大にして最悪の、悩み事だった。寝ている最中に行動をしてしまう。一番多い行動が放尿だ。トイレに行く夢を見て本当にトイレに行こうとするらしい。他にもひたすらに暴言を吐いたり、ベッドを殴ったり蹴ったり。朝起きたら手を怪我していたなんてこともある。

 修学旅行。心配だったんだ。症状が出てしまわないか。そして恐れていたことが起こった、というわけだ。

 僕は慌てて部屋に戻ろうとした。えーっと、三〇九号室。それが僕の宿泊していた部屋だ。僕は引き返そうとする。その時。

 ドアの開く、音。

 咄嗟に自販機の傍に身を隠す。見つかったらまずい……のだろうか? 少なくとも先生に見つかったら面倒になりそうだな。そう思いながら息を潜める。

 続いて聞こえてきたのは軽い足音。

 ――女子? 

 本能的にそう思った。

 そして再び本能的に……そう、ほとんど衝動的に、僕は自販機の陰から音のした方を覗いた。バレないように。でもハッキリ見えるように。

 視界に入ったもの。

 フラフラと歩く……ドレス? いや、パジャマドレスってやつか? 白の、薄い、レースみたいな素材の……。

 しかしその人物の顔はよく、見えなかった。

 女の子であることは確かだった。

 長い髪。相当長い。背中まではある。

 健康そうな脚だ。

 その子はどうも、男子部屋の一番端、階段を挟んで男子こちら側の部屋から出てきたようだった。そのまま、フラフラ歩いて女子部屋のエリアへ。

 何? 見ちゃまずいもの見た? え? 男子の部屋から女子? 

 色々考えた。しかし浮かんでくる考えはどれも卑猥で、僕は体が熱くなるのを感じた。

 が、次に湧いてきたのは好奇心だった。

 どのクラスの女子が、どのクラスの男子の部屋に行っていたのだろう。そう思った。

 こっそり、廊下を歩く。

 女子がどの部屋に帰っていったか。それは見えなかった。卑猥な妄想で頭がいっぱいだったからだ。でもどの部屋から出てきたか、それは分かった。三〇一号室だ。七組の男子が宿泊している部屋。ってことは、必然七組の男子と……。

 部屋番号は分かった。自分の部屋に戻ったら、部屋割とクラス名簿を元にどいつの部屋か調べよう。

 でも他に、何か手がかりはないか……。

 そう思って、三〇一の部屋にこっそり近づいた、その時だった。

「痛っ」

 どうも僕は裸足だった。そりゃそうか。寝ている状態から歩いてきたんだ。ベッドの中で靴は履かない。そんな裸足の足が何かを踏んだ。硬い、おそらく金属製のそれは僕の足の裏を突き刺した。僕は足を退けた。

 そこに、あったもの。

 星のピンがあしらわれた、女の子の髪を止めるやつ……えーっと、あれだ。くちばしクリップ! それが、あった。

 星。

 見覚えが、あった。それは間違いなく学校の近くの百均で売っていたものだったが、それ以上にある記憶を呼び覚まさせるものだった。

 そう、先ほど僕の足の裏に走った痛みは、その百均で見かけた記憶よりも苦味のある思い出を、記憶の彼方から引っ張ってきたのだ。

 それは一年生の頃。

 水泳の授業。その後。

「暑いね、花純」

「ほんとだね、縁ちゃん」

 そう、パタパタと顔を煽ぐ女の子。

 僕の片想いの人。

 麻生花純さんが、濡れた髪を止める時に使っていた。

 星のついたくちばしクリップ。

 麻生さんの、ものだ。



 あの時男子部屋から出てきた女子生徒は麻生さんなのか。

 それがずっと……この一年半の間ずっと、気になっていた。

 冬荻祭が終わった、二年生の十月。

 僕たちは九州は長崎に修学旅行に出かけた。長崎はどこもかしこも坂だらけで、自転車なんて到底乗れないような、そんな土地だった。移動は基本的に車。でもだからだろうか。高台にあるホテルから見る夜景は絶景だった。足元には市内の街灯り。その先には海が広がっていて、海面に落ちる月の灯りがぼんやりとした光の道を作っている、そんな景色だ。

 そんな美しい景色が見えるホテルの、夜中。

 パジャマドレスを着た女の子が、暗い廊下を横切っていった。

 後に星のクリップを残して。

 そのクリップを、僕はずっと持っていた。

 踏んではしまったが、床が絨毯で柔らかかったから壊れていなかった。少し曲がりはしたかもしれないけど……でも、使用する分には何の問題もないくらいには、原型をとどめていた。

 あの女の子は麻生花純さんなのか。

 今はもう、三月。僕はもう一年以上この問題を引きずっている。

 七組の宮重って男子のお姉ちゃんが、ジェネレーション・ホームカミングっていう、時宗院高校創立百周年記念の大規模同窓会で亡くなったらしい。他にも何人か死者が出たとかで……本当、びっくりしたんだけどそれよりもっとびっくりしたのは、その一件の解決に麻生さんが関与していたことだ。

 ――そして、あいつも。

 先崎秀平。

 僕から麻生さんを奪った奴。

 あいつも事件の解決に関与したらしい。

 聞くところによると、あの二人は付き合っているそうだ。

 僕の方が……絶対に絶対に、一年生の春から麻生さんが気になっていた僕の方が、絶対に先に麻生さんを好きになったというのに……。

 先崎って奴は最低だ。

 誰彼構わず女の子に声をかけている。いわゆる陽キャのナンパ男ってやつで、女の子を取っ替え引っ替え、遊んでるって聞く。

 大体僕は陽キャが嫌いだ。何であんなにヘラヘラしていられるんだ。人生やるべき問題が山ほどあるのに、そんなのまるで気にならないみたいに……そういえば、修学旅行の日も陽キャたちは「女子の部屋で遊ぼう」なんて言っていた。先崎とかって奴もそんなことを企んでいたのかもしれない。その企みの中に麻生さんが……いや、麻生さんがいるのはまだまともな方だ。だって付き合っているんだから。でも最悪なのは、あいつが麻生さん以外の女の子とそういう……。

 そんな奴と何で麻生さんが……麻生さんなんて、すごく真面目そうでしっかりとした、「超」とか「ヤバい」とか「マジ」とか、そういう若者言葉さえ使わなさそうなくらいカチッとした、そんな女の子のはずなのに、何であんな不良と、不真面目な奴と、ナンパ男と、付き合っているのだろう。

 もしかして、遊ばれているのだろうか。

 そんな危惧を僕はする。

 そして遊ばれているのなら。

 僕のものに……僕の彼女に、僕の女に、なってほしい。

 卒業式。

 僕は人混みの中に麻生さんを探す。一年生の頃に同じクラスだった仲だ。めちゃくちゃ仲良いってわけでもないけど面識はある。麻生さんに会えるのはこれが最後かもしれない。だったら、恥なんてかなぐり捨てて……。

 僕は麻生さんを探す。

 訊きたいことがある。

 先崎って奴とは本気なのか。本当に好きなのか。大事にしてもらえているのか、そして……。

 修学旅行の晩の女の子は、麻生さんなのか。

 

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