花天月地【第94話 絲】
七海ポルカ
第1話
「お前の命令を取り消して
先程
これ以上私は徐庶に時間を費やす気は無い。
大体、お前は療養中ではないのか?」
「療養中ですよ。
なので私も今は徐庶に無関心です。他に任せている。
私が牢にぶち込んだ徐庶を貴方が独断で外に出し、今回の騒動になったこともちっとも根に持ってない。貴方は今回の遠征軍の総大将だ。そう出来る権限がある」
「ではなんだ」
「貴方の許に身を寄せている【
司馬懿は片眉を釣り上げる。
「調べたのではありませんよ。以前から修練場でお見かけしたので、その時から美しい方だなと興味を持っていた。貴方の関係者であることはその後に知ったので、悪く取らないでいただきたい。その他のことは宮中の噂で聞いた程度のことです」
「人の噂などに興味があるのか郭嘉。意外だな」
郭嘉は笑っている。
「以前は全くありませんでしたが、病から復帰してからは何もかもに興味がありますよ。私は。この世の何もかもが楽しいので。
彼女は豪族の娘でもないし立派な後見人もいない人だ。
貴方は名門の司馬家の男。
「身の回りの世話をさせている」
「では召使いの女ですか。妾にするつもりなのでは?」
司馬懿は椅子に座らず机に寄りかかった。
一瞬険のある表情を見せたが、すぐに司馬懿は笑ったようだ。
「お前は昼夜女の家を渡り歩いていると聞いているが。存外夢見がちなのか。
妾などにわざわざしなくとも、身の回りの世話をさせている女を私がどう扱おうと勝手だ。何故お前がそんなことを気にする」
笑われた郭嘉がキョトンとする。
「何故って、貴方があくまでも彼女を召使いの女としか見ず、大した情も無いのなら、いっそ
司馬懿が改めて郭嘉を見遣る。
見つめるというよりは不可思議な生物を観察するように、怪訝な顔で座っている郭嘉の上から下までを眺めた。
「お前は馬鹿なのか」
「何故です?」
「お前は曹魏の重鎮だろう」
司馬懿の言わんとしていることを察して「ああ」と郭嘉は微笑んだ。
「私の家のことなら何もお構いなく。郭家とは疎遠ですし、私はとっくに家を出ています。
本家は次男が継ぐことが決まっていますしね。
私は郭家の名誉だとか自分の血筋を残すとか、そういうことには興味が全くないのですよ。
なので愛する女性がただ一人、私の妻になって下さったらそれで十分。
結婚に口を出してくる親類など皆無ですし、例え後見人の無い方でも肩身の狭い思いなど決してさせません。夫婦二人で仲良く暮らして行ければそれでいい」
「いつから
司馬懿は半眼になる。
「
「その通りではないか。女が関わると途端にアホになるのをやめろ郭嘉」
「確かに女性というものは直接会った方が何倍も魅力的ですけど。
触れずとも察することはある程度出来ますよ。
貴方の身の回りの世話など、出来る女性はこの世に限られていますからね。
どうです、その通りでしょう?
噂に立っているのは彼女と言うより貴方が理由だ。
貴方は
それは愛する女性の弟だからだと思っていましたが。
今回のことで貴方は
しかも徐庶のせいにも出来たのに、擁護もせず話も聞かなかった。
これは貴方が例え公明正大な人間だとしてもやり過ぎです。
賈詡は厳罰を求めているし、
貴方が庇わなかったら敵の脱走を補助し、逃亡を助けた罪で、陸議は処刑される可能性もある。
よって、私は貴方がさほど
貴方が彼女に惚れきっているなら、私は身を引いてあげようと思っていましたが、さほどに思っていないのなら途端に話は別ですよ。美しく器量の良い陸佳珠殿を私に下さい。
生涯大切にしますし、私は理解のある男なので、貴方が彼女の側仕えを気に入っているのなら結婚しても仕事は続けて構いません。
貴方の女官で、私の妻。
華やかな背景は美しい彼女にいかにも相応しいと思いませんか?」
「お前の妻にするだと?」
「貴方が彼女をどうも想っていないのなら、私が彼女を貰いますよ。
そして妻になる女性の弟だからと、私が賈詡に陸議の助命嘆願をします。
私が
――今一度お尋ねしますが、陸佳珠殿を愛しておられますか」
司馬懿は郭嘉を見据えた。
大抵の者は、司馬懿の
「
存在を疑われるような女を私の許に置けば、
今まではどうであれ、これからは身の潔白は立てる」
「つまり……」
「陸佳珠をいずれ正妻にするつもりだ」
郭嘉は声を出して笑った。驚きは無かったようだ。
「貴方はやはり変わっていますね。
私など一度死んだような身ゆえ、跡継ぎのことなど全く考えていませんが。
貴方は名門司馬家でありながら、名も無きような女性をご自分の正妻にしようとなさっている。家の柵がそれほどお嫌いですか」
「……。」
「それとも孤独な女性に強く惹かれる面をお持ちなのかな」
郭嘉はひとしきり笑うと、柔らかい表情になった。
「貴方にそれほど想われる女性は幸せだ。
分かりました。そこまで明確な答えを頂いたからには、横恋慕などという野暮な真似はやめて私は完全に佳珠殿からは身を引きましょう」
「……。」
「――――その代わり、
その視線さえ見越して待ち構えていたようだったので、こいつが回りくどい話で曖昧にしつつ、本題にしたかったのはこっちの方だとすぐに分かった。
「なんの代わりだ」
「貴方は家同士の
後見人の利とはもっと相対的なものですよ。
例え曹丕殿下にとって都合が良くても、親族のいない陸姓の姉弟が貴方の深い寵愛を受けていると噂になれば、その姉弟の思惑が疑われます。後見人が魏に公にいるのであれば、そういった不満は分かち合うことが出来ますが。
貴方はこれからも魏で出世なさる。そうなった時に、あまりに周囲からして後見人や人質などという触れどころがないと、逆に警戒心を強めて――貴方にはさすがに手を出さないかも知れませんが、姉弟の命が狙われます」
そこらの暗殺者などに陸議の命など奪えるかと言おうとしたが、司馬懿は押し黙る。
「ですから姉君への寵愛は寵愛。弟君は他所へやれば、後見人のない姉君を庇護する貴方の情愛は、美談になります。どこの誰かも分からない姉弟に、魏王の側近が籠絡されているなどという疑いを持たれなくて済む」
「お前にはすでに有能な副官が付いているだろう」
「ええ。ですがみんな頭は有能ですが剣の腕はいまいちで、実のところ戦う力は私の方が上で護衛にはあまりなってない。その点陸議は未熟ですが、剣の腕はなかなかだと賈詡から聞いていますよ。
自らの副官の弱点を口にした郭嘉だが、そもそも郭嘉は自分で全ての副官を選んでいる。
彼は信用ならない人間を側に置くのを非常に嫌うので、有能さと信頼出来るかどうかを秤に掛けて、動き回りたい戦場には敢えて連れて行くことが出来ないような腕前の副官を今回揃えて来た。
凄腕であれば、どこへ行くにも伴わなければならないからだ。
郭嘉の副官が皆、文官なのにはそういう背景がある。
司馬懿も曹丕の側近だが、自分が自由に動けることは重要視している。
考え方としては、実は二人は非常に似ていた。
「陸議をどこへ連れて行こうとしているのだ? お前は」
おや、という顔を郭嘉が見せた。
「私が快癒次第、次は
――江陵。
思わず
長江……。
陸議は幼い頃から
今は全てのことを受け入れ、魏で生きて行く覚悟を決めているように見えるが、呉の者にとって母なる大河は、もっと本能的な部分に訴える存在だという。
今回の相手は、呉の共通の敵である蜀だった。
見知らぬ涼州だった。
江陵は違う。
あの地に赴き、本能の深い部分を強く揺さぶられる陸議を側で眺めてやるのは一興である。
司馬懿は魏に陸議を連れて来た時からそれを楽しみにしていたので、こいつに下らない理由でその機会をくれてやるのは嫌だった。
仏頂面でなんとか断る理由がないかと腕を組んで考え込む。
郭嘉が気付いた。
「いや……司馬懿殿。なんか私を殴る気ですか?
こちらとしては貴方を助けるつもりで出した、とてもいい提案のつもりだったから何もそんなに睨んで来なくても……」
司馬懿は優秀な男なので、自分の個人的な部分をあれこれ詮索され、助けてやろうなどと言われるのは不本意なのは分かっていたが、あまりに反応があからさまだったので、郭嘉はキョトンとしてしまった。
「自分で言うのもなんですが、私は魏でも屈指の有能な軍師なので、陸議君を副官にしたら彼の有能さを無駄にしない様々な面白い局面を経験させ、非常に良い成長を促せると思っていますが」
「そんなことはお前なんぞにいちいち言われずとも分かっている。だからこそ腹立たしいんだろうが」
「なるほど」
隠さず言われて、郭嘉は目を瞬かせる。司馬懿なりにあの副官の成長を楽しみにしていたらしいことが分かった。
「ちなみにどのあたりを悩んでおられるのですか」
「試しに聞いてみるが。私は戦場にて、
司馬懿の言っていることがあまり要領を得なかったので、郭嘉は普通に答える。
「どうするつもりだって最初に言ったように、そうならそうで弟君は貴方の副官のまま、姉君の方を私の妻に頂いて大切にしますが……」
司馬懿は返事が気に入らなかったらしい。
「お前とて、私と同じではないか。これからのことを考えれば魏の中で、自らの娘をお前の許に送り込んで正妻とし、曹操、曹丕殿下両名の信任を得る軍師であるお前を娘婿としたい豪族など腐るほどいるはずだ」
「そう言っていただけるのは有り難いですが、私は出世に無関心です。ですが女性に対してはこだわりが強い。出世はどうでもいいですが、妻は愛し合える女性になって欲しいな。
二人で仲良く暮らしていくのが夢なので」
郭嘉がそう言うと、司馬懿の表情に感情が滲み出た。
お前は有能な軍師のくせにどんな下らない領域の夢を持っているんだこの野郎という、苦虫を噛み潰すような顔である。
「同じことを話した時、
意外な展開になって来た。
郭嘉は腕を組む。
確かにこの
郭嘉の予想では今の話など、それはいかにも都合のいい話だな、お前はやはり話が分かると誉められあっさり片の付く話だと思ってやって来たのだ。
それが曹丕以外の物事に淡泊な感情しか表さない司馬懿が、何かを執拗に悩み始めた。
郭嘉は気付く。
「そうか……そもそも貴方は、陸議を評価したから姉君を側仕えにしたのか」
女嫌いなのではないか、などと宮中で噂される司馬仲達である。
だからこそ彼の許に出入りする女性がいた時に、特別注目されたのだ。
これが他の男なら、後見人のいない娘などが一人二人増えても、本来司馬懿は問題にもされない家柄と立場なのである。
「貴方は
指摘を受けても、
郭嘉は声を出して笑った。
「なんだ。それならそうと、最初から言ってくれればいいのに。
私は姉君の寵愛故に、その弟君が軍において大きな失態をした時に、貴方がどのように処罰を与えればいいのか悩んでいると思って助け船を出したつもりなのですよ。
賈詡に言われて陸議を牢に入れたのはいいが、ここに来て貴方は処遇に悩んでいる。
賈詡が陸議に厳罰を求めたのは、貴方が陸佳珠に懸想をして、陸伯言に甘いと感じたからです。
だけど貴方が
以前、司馬懿は郭嘉に「女に分け与える時間を無駄だと思ったことが無いか」と尋ねたことがある。
今考えても郭嘉には、どういう答えを求めて聞いたのか、全く分からない問いだった。
しかしここに来て分かったことがある。
(この人は本当に女に興味が無いんだ)
郭嘉にはそれ自体、驚きである。
(
よく分からなかった司馬懿と陸議の関係性が、ようやく少し掴めた気がする。
郭嘉は司馬懿を、面白い人だなと感じた。
付け入る隙を見せないと思わせて、時折とんでもない人としての隙を見せることがあるのだ。
大きな器に、時々子供のように純粋な雑味が入る。
月見酒に舞い落ちる、花びらのように。
(
とてつもなく大きいけれど、
でもあの人はいつまで経っても
主従というより同僚に見えると言った、自分の見立ては正しかった。
郭嘉は笑い出すと、立ち上がって優しい表情で机に寄りかかる司馬懿を見た。
「司馬懿殿。
貴方が彼を買っていることはよく理解しました。あそこはまだ色んな火種が埋もれていますが、戦死などせぬよう私がちゃんと面倒を見ます。
しかし彼はいまだに無名の新人なので、端から側に伴えば、宮中に出入りする貴方の側で、間者か何かだと疑われます。
最終的には貴方の副官とすればよろしいが、外へ出して人脈を広げさせるのも大切ですよ。
私の側で副官を一時務めれば、五月蠅い
貴方にとっても結果いいことです。今回は彼を私に貸して下さい。最終的には貴方にお返ししますから。それならいいでしょう?」
司馬懿は実のところ陸議のような異才を見たことが無いので、これを郭嘉のような別の異才がどう見るのかは気になっていた。
徐庶を牢から出せと要求して来たことは、非常に陸議としては珍しく、陸議が自分の意志で初めて動いたのが面白く、結果どうなるのか見てみたくなったというのが本音である。
結果として徐庶は逃げ、
この胸の奥の高揚感が収まるまでは、陸議から始めた物事に対して口を出さず注視してみたいと思っている。
これ以上何も起こらないはずだとそうは考えているのだが、陸議には何か、奴がこれで終わるはずが無いと思わせるものがある。
そんな風に思っていた矢先に、滅多にここへ顔を見せない郭嘉がやって来た。
――この男が陸議を江陵へ伴いたいという。
これも当初全く想定していなかったことだ。
郭嘉は未熟な新兵を嫌うはずなのに。
……
彼が思惑を持って動くと、思いがけない盤上の駒が、動くことがある。
今回は郭嘉が動いた。
司馬懿の中には葛藤が生まれた。
陸議を郭嘉の側に置くのは面白い。
何を感じ取って来るのかは、正直興味がある。
そもそも郭嘉は自分の気が向かねば、俺の副官をお前の側に置けなどと命じても、絶対に承諾しない男だったからだ。
それをそちらから伴ってみたいと言わせたことは、非常に大きい。
自分が持っていたい欲と、
預けてみたい欲と。
両方ある。
「一つ聞くが。陸議を江陵へ伴うことをいつ思いついた?」
出て行こうとしていた郭嘉が振り返る。
「はっきりと決めたのは、貴方が陸伯言を牢に入れた時です」
「理由は」
「彼は牢も処罰も全く恐れていなかった。貴方も陸議を牢に入れることを躊躇いませんでした。
今まで私は、彼は貴方の付属品に過ぎないと見ていましたが、そうではない。
陸議は貴方を恐れていないし、貴方も陸議を恐れてない。
つまり貴方の副官でなくとも、陸伯言は能力を発揮すると見ました。
それが分かったから、後はどの程度の才なのか彼を実際に試し、この目で見てみたいと考えたのです。
彼が徐庶を見捨てて今回は沈黙を守っていたら、
もしかしたら江陵には伴わなかったかも」
郭嘉の明快な答えは、司馬懿がもしや今回のことで郭嘉の気を引いたのではという見立てと完全に一致した。
「江陵で、何を見て来るつもりだ?」
斬り付けるように問い返して来る。
先程の不器用な問答が何だったのか、司馬懿はもう女のことは忘れ、戦の事情に没頭し始めたようだ。
自分の私邸に若く美しい女を置くより、
司馬懿は戦場に自分の見出した若き才が赴き、力を発揮することに昂揚を覚えている。
「
江陵を中心に、
手勢はさほど伴わないので、戦える副官を連れて行きますよ。
貴方はすでに身軽ではないので、以前のようにふらりと単独で江陵に行くなど、許されない立場になったでしょう。
貴方の側にいては陸議も江陵に行くことは出来ない。
ですから私が伴って、あの地の詳細を彼と共に見て来ます。
そうすれば後々彼を副官として再び側に置く時、貴方も助かることになる。
嫌そうな顔しても駄目ですよ。
そんなに自ら江陵に行きたければ、涼州遠征を冬に前倒しなどせず、冬の合間に単独で江陵に行けば良かったのでは?」
剣を握ることも躊躇っていた陸議が、戦場に立つ覚悟を決めたのだ。
のうのうと都で冬など過ごしていたら、また絶望に駆られて戦気を失うかもしれないではないかと、司馬懿は憮然とした表情をしている。
「お前はやはり油断ならん」
郭嘉がおかしそうに笑っている。
「貴方に言われたくはないですがね。
まあそういうことなので今、牢に入ってる陸議は近々私の副官として着任すると思って、良き処遇にして下さい。
甘くやれとは言わないですが、動けない状態にされては困る。
これで貴方も賈詡に陸議を処刑出来ない言い訳が立つ。
私に感謝して、いいですよ」
言いたいことを言って郭嘉は部屋を出て行き、数秒後もう一度顔を出した。
「そういえば……一度聞きたかったのですが。
陸議が徐庶をあそこまで評価する理由に貴方は心当たりが?」
司馬懿は窓の外を見遣った。知っているが、言いたくないと言った感じである。
「そうですか。貴方がそれを知っているならいいんです。私は徐庶にはあまり興味が無い。あれほど賈詡を苛つかせる才能のある男も珍しいですがね」
郭嘉は微笑むと、今度こそ一礼して部屋を出て行った。
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