偽りの楽園
文乃秋
第1話
2094年
レンの部屋は、白く冷たい光に包まれていた。壁も床も家具も、すべてが完璧すぎて、息をするたびに虚無が胸に沈む。
オルガノンのヘッドギアを頭に乗せると、世界は一瞬で変わる。恋愛のときめき、達成感、至福の温もり――どれも現実では得られないはずの感覚が、体中を満たす。
だが、ヘッドギアを外すと、冷たい空気だけが残る。胸の奥の空虚が、昨日と同じ重さで押しつぶしてくる。
家族の声も、友人の通知音も、遠くの幻影にしか聞こえない。
「これが幸福だと思っていたのに……」レンは小さく呟いた。
⸻
夕暮れ前、家のすぐ近くで、地響きが走った。
振り返ると、オルガノン第4工場が炎と煙に包まれていた。火花が夜空に舞い、砕け散る機械の残骸が地面に落ちる。
逃げ惑う人々の声、ガラスの割れる音、空気を震わせる爆風――それがすべてレンの視界に押し寄せた。
ニュースよりも早く、目の前の現実が胸を貫く。
掲示板で国家反逆組織『アナログズ』の声明文を読む。
【人間はもう、機械に夢を与えられているだけの動物じゃない。俺たちは本物を奪い返す。】
文字が胸に突き刺さる。熱い感覚が、レンの冷えきった心を揺さぶった。
「自分は今まで、何をしていたんだ……」
⸻
夜、レンは静かに部屋を抜け出した。
寝室のドアの向こうに広がる、見慣れた家の匂いと音。呼吸のリズム、壁の冷たさ、家族の寝息――すべてを背に、レンは一歩ずつ床に足を置く。
息を殺し、微かな床板のきしみも聞き逃さないように。指先が微かに震え、汗が額を伝う。心臓の鼓動が耳の奥で跳ねる。
「もう、戻らない」
これまでの自分――オルガノンに依存し、虚ろに生きていた日々――を断ち切る決意が、身体の隅々まで染み渡る。
足元のアスファルトの冷たさ、夜風の湿った匂い、街灯の光――すべてが初めて「自分の現実」として鮮やかに感じられた。
⸻
アナログズのアジト。薄暗い倉庫の中、メンバーたちは汗をかき、笑い、呼吸していた。
リーダーのコトリが差し出す手を握る。
「ここじゃ、幸福は自分で掴むんだ。オルガノンに貰うんじゃねぇ。」
レンの胸に高揚感が込み上げる。生きている――それが、これまでとは全く違う、血の通った感覚だ。
⸻
母親は薄暗いリビングで、手を握りしめていた。
テレビ画面には、指名手配犯として赤枠で囲まれた息子の顔。
胸の奥に冷たい痛みが走る。
「私のせいか……オルガノンばかりに頼らせて、ちゃんと手を焼けなかった……」
母の唇が震え、言葉は途切れたまま。
一方、レンは夜明け前の高台で街を見下ろす。
冷たい空気、土の匂い、遠くで聞こえる車のエンジン音――すべてが生きている。
手足の感覚が鮮明に広がり、心臓が高鳴る。
「偽物の楽園は、もういらない。これが、本当の俺だ。」
偽りの楽園 文乃秋 @fuminoaki
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