第6話 五戒粛清(2)
「タイム! 制服これしかないから、一旦ブレザー脱いでいい?」
「ありがとう。制服破けると替えがないから、助かるよ。」
そう言いながらアルは脱いだブレザーを廊下の端に置いた。顔を上げる頃には1人目の拳が飛んできていた。
半歩引いたアルの目前を拳がかすめた。
アルは右前腕を当てて、相手の腕を滑らせるように逸らした。
「やめろって。俺、今日マラソンやってて足にきてんだよ」
その言葉も虚しく、上級生の一人が沈黙のまま歩幅を詰めてきた。
重心を落とした姿勢から、いきなり直線的に右の拳が飛んだ。
アルは一歩も引かず、上体を右へほんの10センチ傾けた。
「なあ俺……今日ヘトヘトなんだ。明日じゃダメ?」
飛んできた拳の外側に、自分の左腕をすべらせるように当てた。
——触れた。
その瞬間、アルは手首を柔らかく回して、相手の腕を円の外へ導いた。
「食後の運動ならもう十分だしさぁ」
言葉はこぼすが、視線はずっと、相手の肩の動きに注がれていた。
すぐにもう一人が背後から詰めてきた。
気配の動きに反応し、軸足をそのままに左肩を落として重心を逃がした。
右腕は自然と後ろへ伸び、振り下ろされた手刀の角度を手首でずらしてゆく。
強くは受けない。
ただ、手首の内側を相手の腕に添え、曲線を描くように下へ流すだけだった。
打点が消え、相手の力が空へと逸れていった。
「俺、なんか悪いことしたなら謝るよ。な?」
アルが何を問いかけても答えはなかった。
再び正面から最初の男が突きを繰り出してきた。今度は肘の引きが早かった。
アルはそれを読んで、両手を縦に構える“双手”の形で迎えた。
右手で軌道を逸らし、左肘で相手の腕の動きを押さえた。
そのまま手首で軌道をずらし、突きはアルの身体の横をすり抜けた。
反撃はしなかった。
ただ、すべての動きを無力化するだけ。それが師匠からの教えだった。
「ああそう? こっちの事情はお構い無しって訳かい?」
相手の呼吸が乱れはじめた。
アルはほとんど足を動かしていなかった。
ただ、中心線を守るように立ち、腕の角度と触感だけで、全てをいなしているだけだった。
もう一度、背後から回り込む気配がした。
アルは軽く目線を逸らし、手のひらでその気配を迎えるように伸ばした。
“触れる”のではなく、“滑らせる”戦術で、肘を使って角度を変え、相手の攻撃は空を切った。
「お前ら、いい加減にしないと加勢が来てボコされるぜ。理不尽が大っ嫌いなやつ一人いるし……」
言葉とは裏腹に、静かに、ただ静かに。
アルの体は揺れることなく、止水のように静かだった。
だが、攻撃していたはずの二人の体制は、徐々に崩れていった。
アルの掌がそっと触れた瞬間、相手の動きが微かに鈍った気がした。
距離は詰めさせず、攻撃の勢いも次第に衰えていく。相手の攻撃が、少しずつ“無力化されていく”感触があった。
アルは眉ひとつ動かさず、次の動きに備えていた。また一つの攻撃を、肘と掌でゆるりと流した。
そのとき、廊下に遠方からの靴音が響いた。
二人が一旦身を引き、その方向に目を向けた。廊下の角をまがった誰かの靴音が、床を叩いた。
「おい。何やってんだ?」
背の低い少年がこちらへ駆けてきた。
制服にご丁寧にネクタイまで締め、額に汗をにじませながら現れた。
シグマだった。
「おいアル、どういうことだよ?」
その問いにアルは肩を竦め答えた。
「俺が聞きたい。そいつらに聞いてくれ」
そう言って、アルは相手にチラリと目線を送った。
「お前がなんかやったんだろう?」
そう問い詰めながらも、シグマは眉をひそめると、そのまま敵の方に一歩進んだ。
──変わったのは、空気だった。
これまで受け流しだけだったアルと違い、
シグマは最初から“殴る気で来ていた”。
構えは小さく、重心はやや前。
目線がまっすぐ相手に向いていた。
一旦相手もシグマへ構えを取り直した。
アルの表情が強張った瞬間、シグマが一気に踏み込んだ。
シグマが一歩で間合いを詰めた。同時に拳が、迷いなく真っ直ぐに伸びた。重心ごと、迷いなく相手の胴を打ち抜いた。
「ッ……!」
受け止めきれず、上級生の身体が後ろへ跳ねた。シグマの後方でアルが声をかけた。
「やりすぎんなよ。呼び出し喰らうぞ」
だが臨戦体制のシグマは歯を食いしばったまま前へ出た。
もうひとりが反撃しようとしたが、
その構えを見た瞬間に、シグマは半身から蹴り足を放った。
当てる寸前で止めた――にも関わらず、
相手は反射的に後退して壁に背を打ちつけた。
「攻撃するな、シグマ! 教えに反する!」
アルの言葉でシグマの動きが止まった。
二人の上級生は後ずさり、廊下の奥へと走っていった。
音を立てて角を曲がると、廊下に静寂が戻った。
振り返ったシグマが異議を申し立てた。
「なんで? “必要なだけ反撃して、最短でその場を収める”。この教えには反してない」
シグマの説法を聞きながら、アルが腕を回し始めた。その様子に少しシグマの声が和らいだ。
「腕、痛いのか?」
「ちょっとだけ。あー、明日たぶん全身筋肉痛確定かなぁ」
「日々の鍛錬不足だな」
容赦のない言い方が、いつものシグマらしく、アルには心地良かった。
廊下の隅に置いたブレザーに手を伸ばすアルを見て、シグマが尋ねた。
「なんだよ、あいつら?」
アルがシグマへ目線を送ると、彼は退散した二人の方向を向き、眉をひそめ、拳はぎゅっと握りしめられた。
「生徒会の連中みたいだぜ」
ブレザーを羽織りながらアルが答えた。
「マジ……?」
シグマは言葉を失い、視線をアルへと戻した。
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