四足歩行の彼女と
ほけきょー
四足歩行の女
はじめて彼女を見たのは、駅前の横断歩道だった。
青信号が点滅し始めると、周りの人たちが小走りになる。その中で、彼女はひとり、両手両膝で地面をとらえ、猫のように軽く、獣のように速く渡っていった。視線が彼女の背中に釘づけになる。誰かが小さく笑い、誰かが露骨に首をひねる。僕は、ただ目が離せなかった。
彼女はキチガイだ。
翌週、会社の帰りに商店街でまた彼女を見つけた。黒い手袋、すり減った膝あて。落とした小銭を拾おうとしていた老人の前に、彼女は四つん這いのままするりと滑り込み、指先で器用に拾って手渡した。老人は驚きながらも笑い、彼女も笑った。
その笑顔に背中を押されて、僕は声をかけた。
「その……速いですね」
「褒め言葉として受け取っていい?」
「もちろん」
顔を上げた彼女の瞳は、近くで見ると驚くほど澄んでいた。地面の粒子まで見分けられそうな、深い光。
「地面の方が落ち着くの。目線が低いと、街の音がひとつずつ聞こえるんだよ」
そう言って、彼女はゆっくり立ち上がる代わりに、膝立ちの姿勢で体を休めた。
名前は凪(なぎ)
生まれつき関節が人より柔らかくて、立っているより四足で動く方が楽なのだと教えてくれた。理由を語る声はさらりとしていて、精神異常者の影はなかった。
「それにね、四足でいると、みんなの靴がよく見える。人となりって、案外足元に出るんだよ」
「僕のは?」
「真面目なスニーカー。紐、毎回ちゃんと結び直してるでしょ」
「バレた?」
その日、僕らは近くの公園へ行った。ベンチに座ると、凪は芝生に手を置き、背中をゆっくり丸めたり伸ばしたりして呼吸を整える。僕もまねしてしゃがみ込み、地面に指を触れた。土は少しひんやりして、夕陽の色を淡く含んでいた。
「ね、ここに来ると匂いまでやさしくなる」
「匂い?」
「花の砂糖菓子みたいな。……あ、それは比喩ね」
僕たちは会うたび、公園や港のデッキや、低い目線が似合う場所を見つけて回った。凪は四足で風を切り、僕はその横を歩幅を合わせて歩く。人が振り返っても、僕はもう気にならなくなっていた。歩き方より、並んでいることの方がずっと大切だとわかったからだ。
ある晩、凪は言った。
「私ね、昔は無理してでも立って歩いてた。普通に見られたくて。でも、痛くて、遅くて、笑えなくなるの。四足だと自由でいられる。逃げてるって言われたこともあるけど、私にとっては戻ってきた感じ」
「戻ってきた?」
「地面に。重力に。世界に。」
僕はうなずいて、鞄から小さな包みを取り出した。
「これ、受け取ってほしい」
包みの中身は、革で作った手の甲のパッド。友人の工房に頼み、凪の手の形に近い型で作ってもらった。路面の熱や冷たさから指を守れるように、厚さと柔らかさを何度も試した。
凪は目を丸くし、指で縫い目をなぞった。
「……触るだけでわかる。これ、私の“歩く”を信じてくれてるやつだ」
「うん。君の速さも、遅さも、全部」
試しに凪は装着し、ゆっくり芝生の上を進んだ。手のひらが土に沈む感覚を確かめながら、二度三度と呼吸を合わせる。
「いい。痛くない」
顔を上げた凪の頬が、月の光で少し白く見えた。
そんな時間が続けばいいと願っていたある日、事件が起きた。雨上がりの夕方、駅へ向かう狭い坂道。ブレーキの甘い自転車が、こちらに突っ込んできた。
気づいた凪が、地面に掌を吸い付かせて一気に前に跳ねた。四肢がしなる。僕の腕を掴んで、路肩へ引き寄せる。自転車は僕のわき腹をかすめて、濡れたアスファルトを長く滑った。
「大丈夫?」
凪の指が震えていた。僕はうなずいたが、胸の鼓動は収まらない。恐怖が遅れて追いついてくる。
「怖かった……」
つい零れた弱音に、凪は一度だけ深くうなずく。
「怖いのは当たり前。立ってても、四足でも」
その言い方があまりにまっすぐで、僕は同じ深さでうなずき返した。
翌週、僕は彼女に頼んだ。
「教えてくれない? 四足歩行のやり方を」
凪は目を輝かせた。
「いいよ。膝を床に落とすんじゃなくて、置くの。手は押すんじゃなくて、寄りかかる。背中は長く、呼吸は短くしない」
僕はぎこちなく真似し、すぐに笑われた。肘が外へ逃げる、顎が上がる、目線が忙しい。凪は僕の肩甲骨の間に手を置き、「ここに空気」と小さく言う。
数メートル進んでみると、世界が変わった。
飽きるほど見慣れた公園の道が、知らない庭の通路になる。マンホールの縁や、誰かが落とした小さなボタン、枯葉の裏側の水滴までが、急に存在を主張しだす。低い世界は、情報がやさしく具体的だった。
「ね、低いとね、世界はすぐ触れる」
凪の声が、僕の耳のすぐそばで笑った。
その帰り道、凪はふいに立ち止まり、二本の指で僕の靴紐をとん、と弾いた。
「ねえ、知ってる? あなたが紐を結び直すとき、いつも一回息を止めるの」
「初耳だ」
「私も、あなたに会うときだけ、少し息を止めるよ」
頬が熱くなる。彼女は照れ隠しみたいに手の甲で前髪を押さえ、そして言った。
「好き。あなたの目線が、私の高さまで降りてきてくれるから」
その告白は、地面に置いた掌と同じくらい確かな重みで、僕の胸に乗った。
「僕も、君が好きだよ。君が四足でも、二足でも、どっちでも」
「じゃあ、どっちで歩く?」
「今日は、君に合わせる」
「明日は?」
「明日も」
その夜、僕らは並んで家まで歩いた。四足で。歩幅は違うのに、なぜか足音は揃った。通り過ぎる人がまた振り返る。でも、僕たちはもう見返さない。僕たちは自由だ。
角を曲がるたび、街の高さが少しずつ変わって見える。信号の光は低い位置から見るとやさしく、マンションの明かりは遠い星の群れみたいに散っていた。
家の前で別れるとき、凪は手袋を外して、素手のまま僕の手の甲に触れた。指先は少し硬く、そして温かかった。
「また歩こう。低い世界で」
「うん。高い世界でも」
僕らの歩き方は、たぶんこれからも変則的だ。坂道では彼女が先に、階段では僕が先に。雨の日は並んで、晴れた日は追いかけっこ。
でも恋というものが“同じ速さで進むこと”だとしたら、僕らはもう、とっくに辿り着いているのかもしれない。
四足歩行の彼女が教えてくれたのは、世界の低さではなく、愛の高さの合わせ方だった。
四足歩行の彼女と ほけきょー @naoki314
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