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最終話:老いた詩人の最後に見い出した言葉への応援コメント
卑怯と思われるかもしれないが、私自身の言葉で感想を書くのは控えようと思います。代わりに、T.S.エリオットの有名な詩論の一節をば。
~詩とは情緒の解放でなく情緒からの逃避であり、個性の表現でなく個性からの逃避である。だがこうしたものから逃避したいとはどういうことか、それは言うに及ばず、個性や情緒を持つ者にしか分かりはしない~
※追記※
逃避でなく、脱却――いやはや、流石ですね。実をいうと私も「逃避」の訳は好きでないのですよ。ただ一般的に流布しているのが逃避となっていたので、こちらを採用した次第(ちなみに私淑しているとある知識人の先生は「滅却」としておられました)。
望まずして世界から零れ落ちた者達が再び繋がりを取り戻す、世界と自身との合一、まさに然り。その望みが無ければ詩など不要ですもの。私は未だに詩は苦手ですが、それは多分、現代日本人が自己表現の詩ばかりを書いているからのような気がします。詩は断じて、自己表現の手段などではないのです。職人が先代の技を忠実に引き継ごうと努力しても差異が生まれてしまうように、むしろ世界との接続を試みるその過程において、どうしても一致できない部分のことを個性と呼ぶのでは、と現在は考えております……ま、これもただの愚痴なんですけどね(苦笑)
作者からの返信
浅学にて、T.S.エリオットの名前は知っていても、その著作、思想に触れた事が無かったので、先ずは其の機会を頂き感謝致します。
恥を上塗りする様で情けないのですが、引用された文章を読ませて頂いたものの、どうにも意図が摑めず、暫く唸っておりました。悩む内、これは恐らく訳文に問題があるのでは、と思い至りました。哲学や思想を扱った著書は、大体に於いて訳が宜しくない。
まず、”逃避”がいけない。これの為に本来の意図と若干ずれたものとなってしまい、それが理解の妨げになっていたと感じます。ここは”脱却”が適切であると思います。そうすると意味がスッと入って来る。そこから文章を整理し直すと、恐らく次の様に、
~詩とは情緒の吐露でなく情緒からの脱却であり、個性の発露でなく個性からの脱却である。だがこうしたものから脱却したいとはどういうことか、それは言うに及ばず、(真に)個性や情緒を持つ者にしか分かりはしない~
こんな事を述べるのは本末転倒なのですが、そもそも詩など書かずに済むのなら、それに越した事は無いのだと思うのです。
見た物を見たままに、感じた事を感じたままに言葉に出来るのであれば、それが一番良いに決まってます(いずれ書いてみたいテーマではありますね)。
自身の抱えるどうしようもない他者、或いは世界とのずれ、物足りなさを埋める為に、詩と云う物は恐らく存在しているのでしょう。望まずして世界から零れ落ちた者達が再び繋がりを取り戻す為の魔法の言葉。それが詩と云う物ではないかと。
その為に取り得る手段として、自身を世界に会う様に変ずるか、若しくは、自身に合うよう世界を作り替えるか。
前者の例として、彼の宮沢賢治の”私という現象は……”があるでしょうし、後者の例としてランボーのイリュミナシオン(作中のさながら世界を腑分けする様な凄まじい描写に怖気さえ覚えます)がある。
詩人はこの二通りの表現のどちらか、或いは併用しつつ世界との融合を果たそうと目論む人種なのではないか、と勝手に解釈しています。その試みが、或る種高揚感に満ちたものであったり、カタルシスを覚えるものになったりするのは、恐らくそれがあるからなのではないでしょうか。世界と自身との合一、そこに至るまでの自我と世界の昇華、そこにこそ詩の持つ意義、謎を解く鍵があるのではないか、と。
長くなりましたね、今更の様な気がしますけど、私、こういった事に考えを巡らすのが大好きなのです。
ともあれ、自分の書いた物を良く読み込んで頂いた上で、独自の視点からコメントを頂けることに何時も感謝しています。お読み頂き誠に有難う御座いました。
最終話:老いた詩人の最後に見い出した言葉への応援コメント
物事を伝える手段として率直で簡潔な言葉を望んでいたが、それだけでは、言い表せないものがあることに気付いて詩人となり、言葉を探し求めるうちに年老いた。
自分にだけではなく、言葉は海のように広く開かれており、様々な人が様々な言葉を紡いでいる。自分の紡いだ言葉も、その中で増幅したり、変化したりしながら誰かに伝わって行く。
言葉は自分の中から、外に出してこそ価値がある。一人ではうまく表せなかったことも、海を渡るうちに表現として完成していくということでしょうか。
読解力が無くて申し訳ないです。
作者からの返信
しっかり読み込まれておられて、これで読解力が無いと言われると、私の立場ガガガ……。基本、自分がこの様な考察まがいの事を書く時は、予定だ何だを一切無視してぶっつけ本番で駆け抜けるのが常なので、分かりにくい言い回しになってしまうのです……。その中で、ここまで作者の意図を読み解いて頂けるのには、本当に感謝の言葉しかありません。
時と場所を問わず、その時代、所に生きる人達の抱く無意識の想いと云う物が、はっきりと形にはならなくとも確かにある物だと思っています。自分の紡ぐ言葉が、本人は自分一人で生み出したと思っていたとしても、単にそれ迄限界まで醸成されて来たその思いが、偶々自分と云う位置で言葉と云う形で生まれ落ちたのではないか、と云う、そんな思い付きから生まれたお話でした。
最後までお読み頂き有難う御座いました。真摯に自分の書いた物と向き合って頂き、心よりお礼申し上げます。
第3話:広場の真ん中で予言者は語るへの応援コメント
星々の世界に救いを求めた若者、そして世界の果てで人々の言葉に耳を傾けた幼子と、これまでの世界と微かな繋がりがあるのが好きです。
本来目に見えぬ世界の本質を探る手段であった科学。なぜかそれ自体が真実の本体であるようにすり替えられていく現実って確かにありますよね。
金の子牛を崇めるがごとく。
実体のあるものや再現可能な現象ばかりを唯一無二の真実であり権威だと思い込んでしまうのは、人間の悲しい性質なのかもしれません。
でも私は、見えない世界を信じています。その辺の石や草が喋っているのが聞こえるので、予言者のおじさんの声も聞こえるかも^^
作者からの返信
そもそも、神様や妖精、或いは妖怪と云った物は、目に見えないけれど、そこに在ると云う物達を人間に少しでも理解できる様にキャラ付けしたものですからね(また問題発言)。擬人化ですよ、鳥獣戯画ですよ。
自分から引き寄せようとしたのに否定しようとするのは本末転倒なのではないでしょうか。
在るモノは在る。それに突きますねえ。
編集済
第3話:広場の真ん中で予言者は語るへの応援コメント
ここまで景気良く書かれた不景気な話もそうお目にかからんだろう、と思ったり。穏やかな文章の流れは本当に序盤だけ、以降の問いかけはひたすらに重く、厳しい。その構成がすでに、在りし日の調和とその崩壊を言わずに語っているとも取れるかも、しれませんね。
仰ることはわからんではないし、寧ろ概ね同意さえしますけども、僕はもうそういうことを言うのは面倒臭くなってしまいましてねぇ(言ったら気狂い扱いされるだけですし)。結局どれだけ大上段に構えても聞く耳は持っちゃくれないので、大人しく自ら信仰生活を送る、信仰という言葉が仰々しきに過ぎるならば、伝統に根差した生活をしてみせるよりないと思ってます……それも困難ならば、それこそ文士は筆を執ってそのような生活を描き出すくらいは、してみてもいいのやも、しれませんや。
作者からの返信
コメント有難う御座います。ご指摘の通り、書いてる自分自身が”こんなイカレた事書いて大丈夫かな?”と首を傾げる内容でした。しかし、昔から特別な事は何も言ってない筈なのに周囲から、宇宙人だの、異次元の人だのと言われ続けて来た自分に、最早怖い物は無い! と勢い込んで書き上げてしまいましたよ、ええ。いや、好きなんです、こういうスレスレの処を限界まで突き詰めて考えるのが。大抵の人が引き返してしまうであろうその先に敢えて突き進む悪癖が、いい歳した今になっても収まらないのに自分でも難儀しています。
自分も出来ればそんな事から離れて穏やかに過ごせれば、と常々考えるのですが、気付けば自分から地雷原に飛び込むような真似をしてしまう。幸いにもこの手の話を読む読者の方は限られるので、そこまで波風立てる事無く収まるのが自分にとって幸いですけれども。
何れ全てが収まった穏やかな内に深い味のある物を書けたら、と密かに思い続けながら今後もこんな物を書き続けるのでしょう。我ながら業の深い事で。
第3話:広場の真ん中で予言者は語るへの応援コメント
>その目に求める物は決して写らない。其処に在るのに見えていない。見えない物は存在しない。故に求める物は永久に見付からない。
存在しないのではなく、見えていないだけ。そうなのだと思います。
ただ、それを客観的に証明することが出来ない。「科学的証明」が出来ない。
でも、存在を感じることはあります。科学的に説明が付かない事は、多々ありますし、身に起きた不思議な出来事の一つや二つ、どなたも覚えがあるのではないでしょうか。
一方、「科学的証明」が出来ないのに「神も仏も在る物か」と口にするのは神や仏の存在を信じているからだという矛盾。なるほどと思いました。
予言者とはいつの世も、信じてもらえないのかもしれませんね。
作者からの返信
コメント有難う御座います!
何時もの自分の悪い癖、持ち味とも言いますか……、謎の屁理屈を駆使して強引に論ずる形がモロに出た、最早お話とも言えない物に、この様な丁寧な感想を頂けて嬉しさに舞い上がってしまいました。
思い付いた当初は、またしても勝利を収めてしまった、敗北を知りたい……フッ、などと嘯いていた物の、書き進めるに従って、これ誰にも理解されないんじゃないかと不安になり、書き終わる頃にはすっかり気落ちしていた処だっただけに、嬉しさもひとしおでした。
便利さを極めた現代社会。それなのに何処か行き詰まりを感じさせる風潮の様なものを常々感じておりました。その様な空気を払拭すべく、いっちょやるか、と一念発起して書き始めた話ではあったのですが……、結果はご覧の通り。まだまだ精進、精進で御座います……。
第2話:途切れた世界の向こうからへの応援コメント
独りぼっちの孤独な嘆きが集まって、一人の小さな女の子に救われる場所なんですね。
カナデ自身も孤独を抱える者の一人ですね。
誰にも受け取られずに終わるはずだった言葉が、カナデに受け止められたことで、仄かな光を放つのでしょうか。
前作の若者の孤独もここで救われたかもしれないと、ふと思いました。
作者からの返信
受け取られない言葉、消えて行く孤独な言葉というモチーフが好きで、過去にもこれを題材にした話を書いた事がある位です。
今回世界の果てから流れて来る、切れ切れの疾うに忘れられてしまった言葉というイメージが浮かんで来て、当初考えていたのは、それ等流れ来た”言葉”を文字通り物理的に拾い集める話になる筈でした。
それが、女の子に”カナデ”と言う名前を付けた途端に、ラヂオを小脇に流れてくる言葉に受け答えする、という話に変わって行きました。
境遇的にはカナデも孤独ではありますが、カナデ自身は自分が一人ぼっちであるとはちっとも思っていない所があり、それが言葉にとっての受け皿足り得た理由だったのではないか、と作者的には思っています。
第一話の若者に目を向けて頂き、そのさり気無い視線に我が事の様に嬉しくなりました。ささやかなお礼ですが、作者から少しばかり贈り物を。
最後に流れて来た言葉に注目してみて下さい。かの若者にも僅かばかりの救いがあった、そう思いたいとの思いをここに込めてみました。
第2話:途切れた世界の向こうからへの応援コメント
不思議なお話でした。
世界の終わる場所。ラヂオからの一方的な言葉を受け取り、応えるカナデが存在するだけで、世界がほんのりと温かくなる。声の主も孤独なカナデも、救われた気がします。
素敵なお話を読ませて頂きありがとうございました。
作者からの返信
此方こそ、読んで頂き恐縮です。
あからさまな救いではなく、救いになるかならないかのギリギリのラインで収めようと、例によってボンヤリ考えながら書いた物であるだけに、それが伝わり嬉しさ一杯です。
有難う御座いました。
編集済
第1話:星々の世界への応援コメント
真の英雄的行為とは誰にも称賛されず、誰の目にも留められず、むしろ白い眼を向けられ、理解を得られないまま誹りを受け、時には攻撃や足を引っ張る行為にすら甘んじながら、それでも己の想いを貫き通すことなのかもしれませんね。
この若者は「忘れ去られる」という、ある意味で究極の悲劇を受け入れて、たった一つの願いを叶えた…美しいけれど悲しいです。
『むらをすくったかえる』という絵本があるのですが、骨太なテーマに共通したものを感じました。
もしもお手に取られる機会が訪れましたらば、ぜひ。
作者からの返信
とても丁寧なコメントを有難う御座います。
英雄的行為と云うと、どうしても大層な理由を求めてしまいますが、その動機は実は誰でもが抱くありふれた物なのかも知れません。
寧ろ、ありふれているが為に却って気にも留められない、場合によっては誹られ嗤われる類の。
そう云った物から目を逸らしがちな、自分も含めた人の在り方と云う物に、ちょっと踏み込んでみたく今回のシリーズを書き始めました。
第1話:星々の世界への応援コメント
若者の自己犠牲によって、彼が守りたかった世界は救われました。
>人々の記憶から彼の名前だけが消え失せていた。
これが、悲しいですね。
>出来得るなら、この喜びを皆と共に分かち合いたかった
そうできない事が分かっていて選んだ道とはいえ、そう思ってしまいます。
世の中は、誰にも知られずにその身を挺してくれた誰かに、支えられているのかもしれません。
切なく美しいお話でした。読ませて頂きありがとうございます。
作者からの返信
どんな英雄的な行為であっても、その根底には幼い頃に抱いた幸せな記憶が関わっている……。
そんな事をぼんやりと考えている内に出来たお話です。
全体的にボヤッと仄めかす様な感じで通しました。
その行為が記憶に残ろうと残るまいと、その時その人が抱いた思いは、その人だけしか分からない……。
でも、その思いが確かに今の世を支えている。
そんな思いを込めてみました。
編集済
最終話:老いた詩人の最後に見い出した言葉への応援コメント
私は中島敦の『名人伝』が大好きなのですが、こちらの詩人さんにも通底するテーマを感じました。
ある物事を極めんと人が死に物狂いで何かに執着した時、ある時ふとそこから解放される瞬間があって、その時こそ自らの理想に最も近づくのだということ。
とんちんかんな解釈でしたらすみません。
全ての言葉が海のようにこれまで存在したすべての人々を繋いでおり、自分の扱ってきた言葉はその中のほんのひと掬いに過ぎないが、確かに海を構成する一要素となって、いずれあるべき姿を誰かに見せるのだろうということ。
でも、その誰かが理想とする言葉は、きっとまた別のものであるのでしょう。
広がり続ける宇宙のごとき壮大な言葉の旅を楽しませていただきました。
完結おめでとうございます!
作者からの返信
心の籠ったコメント有難う御座います!
どんな解釈でも構わないんです。むしろ、読んだ方がそれぞれ自身の解釈を抱いてくれると云う事、それが作者にとって何より嬉しい事なのではと、そう思うんです。突き詰めれば、それこそがこの話の骨子とも言える事だと思いますので。
とまあ、尤もらしい事を言っちゃいますが、始めはそんな事全然考えていなくて、ただ寓話的な話を並べて行くだけのつもりでした。それが、或る時ふと、それぞれの話が繋がる様な感じで行ったら面白いかも、と、思い立っちゃって、それからあれよあれよと云う感じに今の形に仕上がったと、割と場当たり的な過程を経て出来たお話でした。
自分の中にある思いを言葉にするって、これでなかなか難しい所がありまして、思う様に言葉に出来なくて歯痒い思いをしている人たちも多い様に感じます。カクヨムの中でもきっとそんな思いをしている人も多い事でしょう。そんな人達、自分自身も含めて何かしらそれを続けるだけの理由になる物を書けないかな、とそんな応援歌的な所もあるのではないかと、これも後付けですが、そんな事を思ったりしています。
思わぬ温かい応援のコメントに支えられて無事物語を終える事が出来たと思います。最後まで読んで頂き有難う御座いました。