第22話「鈴は鳴らない」

 夕暮れの神社は、音をしまい込んでいた。

 鳥居の赤は雨上がりの水に溶け、鈴は風を待ちながら黙っている。

 石段を上がる足裏に、湿った冷たさが一段ずつ貼り付いた。


 澪は境内を見渡し、息を整えた。

 誰もいない。

 待ち合わせの時間は、とっくに過ぎている。


(来ないの?)


 胸の奥を、ゆっくり冷たい手が撫でた。

 ポケットの中のスマホは黙ったまま。

 表示のない画面に映る自分の顔が、他人みたいに固い。


《LIFE:60(静)》


 石畳の端に、雛が現れた。

 スケッチブックを胸に抱いて、走ってきた息を二回で無理に平らにする。


「……先輩は?」

「いない。——来ないかもね」


 言葉はそれだけで足りた。

 雛が一歩だけ澪に近づき、同じ景色を見て、同じ沈黙に入る。


 鈴は鳴らない。

 風は、木の葉の裏だけを撫でて通り過ぎた。


「私の、せいでしょうか」

 雛が言う。声は乾いていた。

「輪郭から確かめるって決めて、でも、怖くて……。だから、逃げるみたいに“触れた”。そのせいで、先輩、——」


「違う」

 澪は遮った。

 自分に向けて言ったのか、雛に向けて言ったのか、わからない強さだった。

「違うよ。逃げたのは、あの子。リリィ。……来ないって、選んだ」


 雛は唇を噛んで、頷けなかった。

 砂利が靴の下で小さく鳴る。

 スケッチブックの角が、白い指でさらに白くなった。


「“選んだ”のは、私だと思います。

 順番を守るって言って、守れなくて。

 彩葉先輩に——“形で繋げば嘘も本物に化ける”って言われて、そうかもしれないって……」


 名前が置かれた瞬間、境内の空気がわずかに揺れた。

 石灯籠の影が細く伸びる。

 澪は目だけを動かして、鳥居のほうを見た。


「……ねえ、御影さん」

 声と一緒に、足音が鳥居をくぐる。

 細いヒール。白いシャツに、絵の具の痕が薄く残っている。


 彩葉が来た。

 顔の角度は、写真を検討するときのそれ。

 笑っていないのに、口元の形だけは整っている。


「来ると思ってた。二人とも」


 澪は構えた。

 雛は一歩だけ退き、スケッチブックをさらに抱え込んだ。


「先輩、迅先輩は——」

「いないの、ね。ここには」


 彩葉は鈴を見上げた。

 風を待つものの顔をして、少しだけ首を傾げる。

 そして、こちらを振り返った。


「……約束、破られたんだ」


「“破った”のは誰?」

 澪は射抜くように問う。

 声の温度は低い。だが、芯は燃えている。

「迅? リリィ? ——それとも」


 彩葉は答えない。

 右手の指先を、左の手のひらに当てて、微かに押す。

 指が、わずかに震えた。

 その震えは、寒さではなく、感覚が戻りすぎた人間の震えだった。


 雛は、それを見逃さなかった。


「……その手、治ったんですか? サポーター外れてますよね」


 彩葉の睫毛が一瞬だけ長く降りる。

 次に上がったとき、その瞳は透明だった。

 嘘を置くときの目ではない。

 何かを隠したまま、正しく立とうとする人の目。


「御影さん」

 彩葉はまず雛に向いた。

「あなたに言った“輪郭の話”。覚えてる?」


 雛は頷いた。喉が鳴る。

「……覚えてます」


「良かった。あれはね、間違ってない。

 形で繋ぐと、心は嘘をつけなくなるし、正しい方が幸せになる世界じゃない。

 ——ただ、順番を間違えると、誰かが消える」


 雛の腕から、スケッチブックが少しずり落ちた。

 澪が素早く支える。

 紙のざらつきが指に移る。


「誰が消えるんですか……?」

 澪は目を離さない。

「迅? それとも、あなた?」


 彩葉は息を吸って、短く笑った。

 綺麗ではない笑いだった。自嘲にも届かない、中途半端な音。


「ねえ、小日向さん。

 “正しい方が幸せになる世界じゃない”って。さっき私、言ったよね」


「言いましたね」


「——あれ、本気なの。

 正しい人じゃない誰かが、結果的に幸せになる世界。

 だから、私は。……選んだの」


 風が背中を通り抜けて、鈴が一度だけ鳴りかけて、やめた。


 境内の輪郭が、少しだけ滲む。

 澪はそこで、やっと気づく。

 彩葉の周りの空気が、ほんの少し軽い。

 重力が半呼吸ぶん、遅れて落ちてくる感じ。


 ——“世界の側”が、彼女を許している。


(許してるんじゃない。使ってる)


 胸が冷える。

 澪は言葉を選ばずに投げた。


「嫉妬神が関係してますか?」


 雛の肩が震える。

 彩葉は否、肯、どちらにも頷かない。

 ただ、右手の指先をもう一度だけ押して、視線を外した。


「——御影さん」


 彩葉は雛にまっすぐ向き直る。

 そこに、優しさはなかった。

 残酷でもなかった。

 ただ、責任だけがあった。


「あなたは悪くない。けど、あなたが選んだ“速さ”は、誰かの遅さを踏んだ。……それは、覚えておいて」


 雛は頷けないまま、頷いた。

 喉の奥で音がほどける。

 泣かない顔のまま、涙がないまま、濡れた人間の顔になった。


「彩葉」

 澪は呼ぶ。呼び捨てにした。

「今、どこにいるの。迅は」


 彩葉は視線を空に向け、言葉の形だけ作った。

 告解の前ではない。布告の前の顔。


「——“中”。」


 それだけ言って、口を閉じた。

 境内の外、坂の下で車のブレーキ音が短く鳴る。

 生活の音が戻ってきて、神社だけが時間を遅らせた。


「放課後の約束、破ったのは誰?」

 澪はもう一度問う。

「答えなよ。ここで」


 彩葉は、澪の目を見た。

 その目は強くて、まっすぐで、許さない色だった。

 彩葉は笑った。今度は綺麗な笑いだった。

 それは諦めの笑いではなく、罰を受ける前に自分で靴を脱ぐ人の笑い。


「——私なのかな」


 雛が息を呑む。

 澪は瞬きひとつぶんだけ目を閉じ、開けた。

 頷きもしない。責めもしない。

 そのかわり、一歩近づいて、言った。


「なら、戻して」


 彩葉の指先が、かすかに痙攣した。

 右手の、絵を描くための一番大事な指。

 戻ったはずの感覚が、今は痛みだけに偏っている。


「戻せるの?」

 雛の声は震えない。

 震えない代わりに、言葉の最後が少し欠けた。


「——描けるうちに、やる」

 彩葉は言った。

 簡単に言って、簡単ではないものを差し出す声。

「ただし、“今夜”は無理。合図を待ってる人がいるから」


 澪は理解した。

 彩葉は神社に間に合わないよう、最初から来させなかった。

 リリィを、来られない場所に留め置いた。

 そして今も、どこかに視線がある。

 この会話を測っている気配。


 澪は顔を上げ、鈴を見た。

 鳴らない。

 なら、鳴らす。


 彼女は両手を伸ばし、そっと鈴緒を握る。

 強くは引かない。

 代わりに、掌で温度だけを渡す。

 鈴は、ほんのわずかに触れた音を返した。




 冷たさが一段、深くなる。

 けれど、逃げる音ではない。

 ——これは、明日の痛みの予告状だ。




「決めた」

 澪は言う。

 誰にもではなく、世界に向けて。

「あなたがどうなろうと知らない。私は迅を取り戻す。順番は、こっちで決める」


 彩葉は頷かない。

 雛は頷く。

 頷き方は、不器用で、美しかった。


 その時、境内の外の暗がりで、小さく草が揺れた。

 足音ではない。観測の音。

 見えない誰かが、記録した。


 風が、やっと鈴を撫でていく。

 鳴らないまま、確かに揺れた。

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昨日まで男だった俺、偽ヒロインだらけの学園で“キスしたら寿命が削れる”ラブコメに巻き込まれた。 辛子麻世 @piedoro

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