第21話「夜の自由実験」
夜の街は、風がやわらかかった。
潮の匂いを薄く含んだ空気が、髪の先を撫でていく。
灯りがひとつ点くたびに、胸の奥で小さな火が生まれる。
世界の音が、少しずつ近くなる。
(……これが、“生きてる”ってこと?)
リリィは指をひらいて、光をすくった。
信号の赤、看板の青、厨房の白。
どれも微かに震えながら、皮膚の裏に染みてくる。
くすぐったい。あたたかい。——いや、これは「まだ生きていたい」感覚だった。
居酒屋の扉があいて、大学生のグループが笑いながらあふれ出る。
視線が集まる。その熱が、肌の表面を撫でていく。
欲望というより、“誰かに見られる”という安心。
「ねぇ、どこ行くの」
「飯、行こうよ。ね?」
リリィは小首を傾げ、唇をやわらかく曲げた。
「……うん。食べたい。お腹が空いたの」
⸻
ファミレスは、昼みたいに明るかった。
メニューの写真が、現実の匂いをしていた。
「好きに頼みな。奢るからさ」
リリィはページをなぞる。
ハンバーグ、パスタ、グラタン、オムライス、ポテト、パフェ、またパフェ。
皿が運ばれるたび、テーブルの上が“世界の色”で埋まっていく。
一口。
味がした。
舌が動いて、熱が喉を落ちていく。
世界が、身体の中へ入ってくる。
「……これが、味……? あったかい。やさしい。
——ねぇ、世界って、こんなに優しいんだね」
笑い声、湯気、氷の音。
どれも綺麗で、どれも減って、また満ちていく。
皿が三枚、五枚、十枚。
男たちの笑いの色が、少しずつ変わっていく。
「おいおい、どんだけ——」
「まだ頼むの?」
「会計ヤバいって」
リリィはフォークを止めない。
胸の中に、熱が生まれる。
それは“おいしさ”でも“空腹”でもない。
ただの、存在の焦りだった。
「ごめんね。でも、食べないと……私、消えちゃうの」
冗談みたいに言ったのに、空気は笑わなかった。
ひとりが苛立ち、リリィの手首を掴む。
その指は、現実の温度をしていた。
リリィはゆっくり顔を上げた。
瞳の底の青が深く揺れた。
「触らないで。……あなたの“優しさ”まで、食べちゃいそうだから」
声が、空気を切った。
店内の灯りが一瞬だけ暗くなり、グラスの水面が震える。
何かが、世界の奥で小さく鳴った。
——カチリ。
胸の奥で音がする。
世界がひとつ分、遠のいて、誰かの息だけが残った。
黒縁の子だけが、手をほどきながら、小さく言った。
「……ごめん」
リリィは頷いた。
その瞬間、胸の痛みが少しだけ軽くなった気がした。
⸻
「……もう、そのへんにしてくれませんか?」
背後から、落ち着いた声がした。
黒いエプロン。蜂蜜色のとろん瞳。
髪を後ろでまとめた女の子が、静かに立っていた。
七瀬 蓮華。
視線が合った瞬間、保健室の体温がよぎる。
毛布の匂い、囁き声の重さ。
「店にもルールがあるの。それに、あなたが悪いって言ってないよ。
——けど、この子も、ここも“壊れちゃう”」
リリィは問う。
「壊れる……のは、私? それとも、ここ?」
「どっちも。ね、座って。息して。
噛んで、飲んで、それから、やめよう」
蓮華の声は、叱りでも諭しでもなかった。
ただ、支えるために置かれた“人の声”だった。
リリィはフォークを置いた。
唇に残る甘さが、いきなり遠くなる。
蓮華は男たちに視線だけを向けた。
その目に怒気はない。けれど、“現実”の温度が戻る。
「……会計は、割るよ。あなたたちのぶんは、あなたたちで。
——女の子のぶんは、ウチが引く」
「は? なんで——」
「店の都合。騒がれても困るし。
文句は、食器を戻してから言ってね」
挑発も、正義もない。
ただ、秩序を戻す声だった。
黒縁の子が「すみません」と頭を下げて皿を重ねる。
苛立っていた二人は舌打ちして立ち上がった。
蓮華はリリィの前にしゃがみ、同じ目の高さで言った。
「お腹は満たせる。……でも、心まで埋めようとすると、食べ方を間違えるよ」
リリィはゆっくりまばたきした。
「私、食べないと消えるの。だから、怖くて……」
「うん。だから、“ちゃんと”食べよう。
誰かと、分け合ってね。ひとりで飲み込むのは違うよ」
蓮華の声はやわらかくて、少しだけ震えていた。
——その震えは、きっと彼女自身の記憶から来るものだった。
“奪われた夜”を知る声の、重さ。
リリィは気づかないふりをした。
代わりに、ほんの少しだけ笑った。
「……ねぇ、あなたも、誰かを食べて生きてる?」
「違うよ。ちゃんと噛んで、ちゃんと返してるだけ。
——それを“ごはん”って呼ぶの」
レジの方から、小さな電子音が鳴った。
大学生の誰かが財布を出し、蓮華がそれを制する。
「いいよ。……この子のぶんは、ウチで出すから」
「でも、それ——」
「仕事だから」
軽く笑ってそう言う彼女の指先に、硬貨の光が反射した。
現実の重さ。
リリィはその音を、ずっと覚えていた。
蓮華は軽く会釈してキッチンへ戻る。
歩き方に急ぎはない。
去り際、鼻先をくすぐるような囁きが落ちた。
「笑ってない顔、似合わないよ。……またおいで」
リリィは少しだけ息を詰めた。
掴まれた手の甲を見つめる。赤みは、もう消えている。
氷が音を立て、夜風がドアの隙間を撫でた。
胸の中で、世界がまたひとつ鳴った。
——コトリ、と。
(……今の、なに?)
誰かの心臓の音か、自分の残響か。
わからない。でも、温かい。
⸻
外に出ると、街灯が水色を濃くした。
遠くで鈴の音が鳴った。風か、神か、まだ誰にもわからない。
リリィは空を見上げた。
「“分け合う”……か。……ねぇ、迅。あなたなら、どう食べるの?」
返事は来ない。けれど、胸の奥で、水に落ちた石の輪だけが広がる。
リリィは歩き出した。神社へ向かう坂道。
階段の手前で、ふと振り返る。
店の窓越しに、蓮華がこちらを見て、小さく手を振った。
その仕草に、胸の温度が一瞬だけ上がる。
その瞬間、リリィは理解した。
(——“混ざる”って、こういうことなのかもしれない)
自分の中で、人の形をした何かが芽生える。
それは神の力ではなく、ただの痛みの記憶だった。
鈴の音が、今度ははっきり響いた。
石段の影が伸び、夜の色が深くなる。
「放課後の約束、もう“夜”になっちゃった。
でもね、夜はまだ終わってない。
世界は、何度でも書き換えられるんだもの。」
水色の髪が、夜の光をゆっくりと吸った。
リリィは鈴の音へ向かって、静かに登っていった。
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