第19話「輪郭の夜と水色の瞳」

 呼び鈴が二度、小さく鳴った。

 玄関のドアスコープの向こうで、雛が傘をたたんでいる。肩先の雨粒が光って、喉もとが浅く上下するたびに、濡れた空気がこちらへ滑り込んでくる気がした。


「……御影?」

「先輩。入って、いいですか」


 鍵を回す音が、思ったよりも大きく響く。

 雛はコンビニ袋を差し出し、靴を揃える所作が妙に丁寧だった。息を整える間合いが短い。走って来たのだ、とわかる。


「明日って言ってただろ」

「——ゆっくりが、怖くて。ごめんなさい、迷惑なら帰ります」


 噛みしめた言葉の端が、ためらいを残す。

 「帰れ」は言えない。言った瞬間に、何かが決定してしまう気がした。


     ◇


 台所に並ぶ。安い鍋。粉末の味噌汁。湯気。

 レンジの“ピッ”の音に合わせて、雛が小さく肩を揺らす。味噌汁をひと口含むと、頬の強張りがほどけた。


「おいしい、です」

「粉末だよ」

「それでも、おいしい、です」


 匙の縁で、器の面を一度だけカツンと叩く音。

 彼女の手先が微かに震え、すぐ止まる。会話の隙間に、台風前みたいな静けさが沈殿していく。


「輪郭からでも、確かめたくて。——それで、来ました」


 雛は胸の前でスケッチブックを抱いている。彩葉に渡された、未完成の横顔。紙のざらつきが、彼女の指で小さく擦れる。


 決めた順序が、二人の逃げ道を細く残す。

 それでも——今日ここまで来た速度は、明日まで待つための速度じゃない。


     ◇


 バスルーム。白い湯気。カーテン。


「先に入って。タオル、そこ」

「い、一緒はダメですか?……」

「いやいや、犯罪になるから」

「犯罪って、先輩女の子ですよね?」

「カーテンあるし。声は聞こえるから、ね?」


 雛の耳が少し赤くなる。シャワーの水音。薄いカーテン越しに、影が肩まで上がり、また沈む。輪郭だけが水墨のように揺れ、こちらの時間と彼女の時間が、ほんの少しずれる。


「先輩」

「なに」

「……怖いの、少しだけ消えました」

「よかった」


 湯の落ちる音と一緒に、昼の張りつめた言葉が流される。

 逃げてはいない。けれど、戻ってもいない。中間の水位で、呼吸を合わせている。


     ◇


 畳の上に布団を二枚。間に手のひら一枚ぶんの隙間。

 蛍光灯を落とし、スタンドの橙だけを残す。雨は糸のように細くなり、窓に線を描いては消える。


「先輩」

「うん」

「手……触っても、いいですか」

「いいよ」


 触れる。

 冷やした茶碗の外側を手で包む時に似た温度。彼女の指の脈が、こちらの脈に重なり、ほどけていく。雛は指を絡めず、手のひらをぴたりと合わせたまま、静かに息を整えた。


「これが“輪郭”だと思うんです」

「うん。そんな気はするかな」


 視線が自然に近づく。

 睫毛に橙が割れて、息が重なった瞬間——胸の奥で、小さく鈴が鳴った気がした。世界の音が一段、静かになる。


 雛の目が、迷って、決める。

 頬が、ほんの少しだけこちらに傾く。


 そっと、何かが触れた。


 ピコン、と白がひとつ痛んだ。

 背骨の内側を水が流れ、まぶたの裏に水面の気配が広がる。

 温度が逆転する——その微かな反転だけで、境界は越えられる。


 雛の手の温もりが遠くなる。


「……先輩。少しでも、楽になってほしいです」

「だい、じょうぶ。ちょっと、落ち着こうか雛ちゃん——」


 言い終える前に、暗がりがやわらかく裏返る。

 畳の匂いが薄れ、青白い光が、境界を洗った。


     ◇


 水の底で、誰かが笑う。

 黒髪に、一本ずつ、水色が生まれていく。

 息を吸う代わりに水が肺に入るのに、苦しくない。


 ——ねぇ。今度こそ、食べちゃっていい?


 夢の声が、現実の温度で胸腔に落ちた。

 心臓が一拍ずれて、すぐ合う。

 “内側の椅子”へ座る手がひとつ増え、俺の手を下から支えるみたいに重なる。


《LIFE:90→60》

《LIFE:60(共鳴)》


 数値はそれ以上、落ちない。

 ただ、白の縁に水の色が滲み、呼吸が二人ぶんに増える。


(雛との約束——)

 掴もうとした言葉から、力が抜ける。

 「迅ちゃん、甘くておいしいよ」という囁きが、喉の内側を撫でて通り過ぎた。


 鈴が、からん、と一度だけ鳴る。

 視界はやわらかく、裏返った。


     ◇


 雨上がりの朝が、窓のガラスをすべって畳に細い線を描く。

 鳥の声。遠くのエンジン音。湯飲みの底に残る茶渋の輪だけが、夜の名残りみたいに静かだ。


 雛が身を起こす。寝癖が軽く跳ね、胸から滑り落ちたスケッチブックを慌てて抱き直す。隣の布団——迅が、肩まで布団を被って静かに息をしている。


 光を、吸った。


 黒のなかから、水色が一本、二本。

 朝の光にだけ見える細い筋が、髪の端から滲む。

 瞳が開く。いつものダークブルーの表面に、薄い氷膜のような水の層が重なった。


「……先輩? あれ、私……。なんで、ここに?」


 呼びかけに、彼女——“彼女”は、ゆっくりと横顔をこちらへ向けた。

 睫毛が長い。笑う前に、瞳が笑う。口角の上がる角度が、迅じゃない。夢の底で見た、あの曲線。


「おはよう、雛ちゃん。ねぇ、わかる?」

 声は同じ高さなのに、音階が違う。

「君の“怖い”が、まだ私の中で温かいの。」


 雛は反射的に布団を握りしめる。

 現実感の手触りが、指先で自分を繋ぎとめる。


「……どなた、ですか」

「リリィ、って呼んでほしいな。君の好きな“迅ちゃん”は、今朝からはお休み」


 彼女は喉もとに指先を当て、名札が浮かぶみたいに微笑む。

 布団の継ぎ目を滑るように越えて、パーソナルスペースを紙切れみたいに軽く踏み越えてくる。


「あなたのおかげで——溶け合えたよ。ありがとう」

「……溶け、合えた」

「うん。君が“輪郭”をくれたから。境界がやわらかくなったの。だから、飲み込めた。やさしく、ぜんぶ」


 言ってから、リリィは片目をいたずらっぽくつむる。

 雛の喉が渇く。体温が一度上がって、すぐ落ちる。


「先輩は、どこに」

「食べちゃった。甘くてね、ハチミツと練乳みたいで美味しかったよ♡

 って、そんな顔しないでよ。静かにしてる。眠ってる——って言った方がやさしい?」


 触れない。

 触れないまま、指先の熱だけを雛の手の甲に置く。

 息の通り道が、そこで細くなる。


「心配しないで。いまは、私が守る。君の“確かめたい”も、君の“怖い”も、ぜんぶ。ね?」


 雛は言葉を探し、最後に自分の名前を名乗るみたいに小さく言った。


「君じゃなくて……雛、です」

「知ってるよ、御影雛。最短の子。きれいに走るのが上手い子。——ね、今日も走る? それとも、私に追いかけられてみる?」


《LIFE:60》

 視界の端の白は、かすかに水の色を帯びて脈を打つ。雛には見えない光。けれど、胸の鼓動が、その色を予感として受け取る。


「……澪先輩に、連絡を——」

「だめ」


 リリィの人差し指が、雛の唇の手前で止まる。

 触れてはいない。けれど、指先が空気を押さえ、“ここから先は甘い罰”と告げる。


「今はまだ、君と私だけ。世界に、そう書いてある。読める?」


 雛は頷けない。頷いたら何かが決定してしまう。代わりに、スケッチブックを胸に抱きしめる。昨夜、彩葉が残した輪郭の白が、紙越しに冷たい。


 リリィはその白を覗き込んで、ふっと笑う。


「未完成、好き。続きはここで描こう。言葉でも、形でも。ね、雛ちゃん」


 遠くで始業のチャイム。

 この部屋だけ、時間が水の中に沈んでいる。


「——迅、先輩」


 雛は結局、彼の名前を呼んだ。

 リリィはゆっくり瞬きを落とし、水色がほんの一瞬だけ暗く沈んで戻る。


「その呼び方、かわいい。でも今朝は、リリィで、お願いね。雛ちゃん♡」


 鈴の余韻が、耳の奥でからん、と鳴る。

 助け船は来ない。選ぶのは自分だけだ。


(——私が選んだ。輪郭から、確かめるって)


 雛はスケッチブックをそっと床へ置く。

 両の掌を重ねる。

 リリィが、その上に自分の掌を重ねる。触れた。はっきりと。


「学校、行く?」

「行きます。順番を守るって、約束したから」

「えらい」


 軽く押し返された圧で、雛の“地面”が少し固くなる。

 言葉で作った地面。

 その向こう側で、誰かの気配がまだ眠っている。


《LIFE:60》が朝の光の中で淡く瞬く。

 白には戻らない。赤にもならない。水の色で、静かに呼吸している。


 玄関の鍵がカチリと鳴り、二人は目を合わせた。


「行こうか、雛ちゃん」

「はい。……リリィさん」


 ドアを開けると、雨上がりの空気がいっきに流れ込む。

 世界はいつもどおり明るい。けれど足もとだけ、薄い水の層が光って見えた。

 輪郭は、もう引かれた。

 次は、歩幅の問題だ。

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