第18話「デッサンと真実」

 放課後の光は少し薄くなり、昇降口へ向かう途中で澪は雛の背を見つける。

 声をかける前に、胸の奥の言葉を順番に並べ直した。

 間違えば壊れる。正しすぎても、きっと同じだ。


「雛ちゃん。少し、いい?」

「……はい」


 人の途絶えた階段踊り場。

 風で掲示の紙がかさりと揺れ、二人分の影が壁に縫い留められる。

 空気がまだ濡れている。雨上がりの校舎は、どこか内臓みたいな匂いがした。


「今日のは“練習”じゃない。私の本音を言うね」

「——はい」


 雛の返事は正しい角度で落ちる。だから澪は、最初の一打を迷わなかった。


「雛ちゃんの『好き』は、たぶん“本物のまえ”にある。

 嫌いを見ないで飛び越えた“最短ルートの恋”。それは——偽物、かもしれない」


 雛の喉がひとつ鳴る。否定でも肯定でもなく、息づかいだけが変わる。


「偽物、ですか」

「うん。『嫌い』を一緒に連れて歩くって、昨日、雛ちゃんが言ったよね。あれは私、嬉しかった。……でもね、誰かの言葉や“正解”に寄った“好き”は、触れた瞬間に壊れる。私が守りたいのは、壊れにくい方」


 雛は視線を落とし、階段の白線を靴先でなぞった。

 沈黙の間に、放送部のマイクチェックの音が微かに流れ、

 蛍光灯の反射が、二人の間の空気をひややかに照らした。


「先輩。もし本当に偽物だったら……私、どうしたらいいですか」

「確かめる。ゆっくり。自分の言葉で」

「ゆっくり、は……怖いです」

「怖いままで、やろう」


 雛の指が制服の裾を掴み、すぐ離す。

 呼吸が少しだけ浅くなり、言葉の影が長く伸びる。


「……ありがとうございます」

 雛は深く礼をして、踵を返す。逃げではない歩幅。澪は背を見送りながら、手のひらに汗をにじませた。


(言った。これでいい。これで、次は——見守る番)


 角を曲がる瞬間、雛の横を白い影がすっと通った。

 上級生の彩葉だ。澪と目が合うと、彼女は糸のような微笑を一針だけ残して、雛の方へ歩を向けた。


     ◇


「御影さん」

 呼ばれて雛は振り返る。柔らかな声色。けれど芯は固い。


「先輩……彩葉先輩」

「さっきの、聞こえちゃった。全部じゃないけど、だいたい。時間ある? 美術室、少しだけ」


 断る理由の整い方を探すあいだに、彩葉は先に歩き出す。

 雛は一拍遅れてついていき、薄暗いアトリエの匂いに包まれた。


 窓際の大きなイーゼル。木炭と擦筆。

 机の端に古びた婚姻届の練習用見本——学校の家庭分野で配られた残部らしい——が紙束に紛れている。

 彩葉が何気なく伏せたその仕草が、静かな毒のように残る。


「そこ、座って。肩の力は抜いて。——そう。少しだけ顔を上げて」


 木炭が紙を走る。黒がざらざらと呼吸する。

 その音が、言葉の代わりになる。


「光を描くには、影がいるの。

 あなた、いま影ばかり見てる顔だね」


「……偽物、だって言われました」

「言われたのね。自分ではどう思う?」


 雛は答えの前で喉が詰まり、唇を噛む。

 彩葉は線を重ねながら、穏やかに続けた。


「私ね、卒業したら結婚するの。親が決めた人。今どき珍しいよね?

 医者の息子で、条件は最高。愛情は、最低限。

 顔や性格も嫌いじゃないけど、恋とは別。絵に例えると、下描きのまま額縁に入れられる感じかな」


 雛のまぶたが震える。

 彩葉はにこりともしないまま、筆圧だけで感情を滑らせる。


「だから、もしあなたが“本物の方へ行ける”なら、背中を押したい。

 ——建前は、そう。体裁も、そう」


 木炭の先が一度止まり、紙の上で小さな円を描いた。

 それは瞳のハイライトになる白地の輪郭。


「本当は?」

 雛が問う。

 彩葉は少しだけ笑って、肩を竦めた。


「本当はずっと絵だけが恋人だと思っていて、それ以外がどうでもよくて。

 でも、初めて好きって感情が芽生えてもそれが偽物ってわかってしまって。

 他人の幸福に手を貸すふりをして、世界の外側から自分の恋を延命させたいだけ。

 絵の中でしか触れられない人を、現実で触れてくれる代行者を探してるの。綺麗じゃないでしょ。

 でもね、誰かを思うのに、綺麗さ誠実さは必須じゃないの。寝取っても良いと思うの」


 雛は返せずに、指先でスカートの縫い目をなぞる。

 その隙に、彩葉がふっと言葉のトーンを変える。


「御影さん、“触れる”こと、怖い?」

「……はい。怖いです。でも、確かめたい」

「それなら自分で描く。描いて、“形”を作る。人は形に救われる生き物よ。輪郭があれば、感情は逃げない」


 木炭の軌跡が頬のラインを回り、顎で止まる。

 そのとき、彩葉の手首が小さく震えた。

 袖の下からのぞくサポーターの端が、かすかにずれた。

 彼女は痛みを押し隠すように微笑み、さらに線を重ねる。

 その笑みの奥で、絵を描くたびに“自分が削れていく”ことを、彼女だけが知っていた。


「輪郭、ですか」

「うん。たとえば、手を繋ぐ。抱きしめる。——キス、より先に進んで既成事実を作るの。

 形で繋ぐと、心は逃げ道を失う。嘘も、本物に化けることがある」


 雛は息を止めた。

 胸の裏で、何かが擦れ、火花が散る。

 それが恋なのか、恐怖なのか、自分でも区別がつかない。


「……それは、卑怯じゃないですか」

「卑怯よ。だから“選ぶ”ことになる。

 世界はね、正しい人が幸せになる場所じゃないの。いつだって貧富の差があって優劣が必ずある。不平等の塊で、どうしようもなく汚い。

 だから、“選んだ人”が結果的に幸せになる場所なの」


 彩葉は木炭を置き、指先で雛の顎の角度をほんのわずか上げた。

 触れてはいない。けれど空気だけが、確かに揺れた。


「ねえ御影さん。

 あなたの『好き』が偽物か本物か。言葉で決めるの、やめてみない?

 体の重さで決めるの」


「重さ」

「抱いたとき、抱かれたとき、どちらが“息が楽”か。

 誰の中でなら、自分の“嫌い”を連れて行けるのか。

 それが答え。少なくとも私は、その方法しか知らない」


 窓の外、雲間から薄い陽が漏れ、雛の頬の斜面に白を置く。

 彩葉はそこへ最小の線を一本だけ落とした。

 それは、涙のようで、光のようで、どちらでもよかった。


「彩葉先輩は……怖くないんですか。好きでもない人と結婚して」

「絵が恋人だった昔と違って、今は正直怖いかな。だから、あなたに言ってる。——代わりに幸せになって、って建前でね」


 言い終えて、彩葉はイーゼルから紙を外す。

 描かれているのは、雛の横顔——輪郭線は最小限、目元だけが深く、口元は未完。

 空白が、未来みたいに残されている。


「これ、あげる。今日の顔。

 未完成は、踏み出す人の特権」


 雛は受け取って、胸の前でそっと抱いた。

 紙のざらつきの向こうで、自分の鼓動が確かに鳴っている。

 それは絵よりも鮮やかで、言葉よりも危うい。


「……私、行きます」

「どこへ」

「迅先輩のところ。ゆっくりが怖いなら、形からでも。私、自分で確かめたい」


 彩葉は短く頷いた。

 窓風がカーテンを揺らし、白が部屋を一度洗う。


「止めないの?」

「止めるのは、幸せから遠ざけたいとき。私は今、綺麗じゃない方を選ぶ」

「ありがとうございます」


 雛がドアに手をかけたとき、彩葉がふっと付け足す。


「——ねえ。形だけで済ませないこと。

 終わったら、言葉で抱きしめ直しなさい。あなた自身を」


 雛は振り向かずに、はっきりと「はい」と言った。


     ◇


 渡り廊下の夕方は、音がよく響く。

 俺は自販機の前で小銭を迷い、結局、何も買わずにポケットへ戻した。

 喉の渇きは、別の場所で始まっている。


《LIFE:90》


 白い数字は静かだ。静かだが、像の周囲で微細なノイズが雪の粒みたいにちらつく。

 胸の内壁を、細い針が撫でていく感覚。理由はまだ、名前にならない。


『おーい。温度、上げすぎんなよ』

 尊の声が、蛍光灯と同じくらい自然に響く。


「上げてない」

『お前が上げてなくても、誰かが上げるときがある。恋の熱は連帯責任だ。』

「はぁ?」

『神の観測、ってのは因果共有だ。誰かが“確かめたい”と思った瞬間、お前のLIFEも反応する。愛は一方通行じゃない。システム的に、な』


 くだらない理屈に、鼻で笑いかけてやめる。

 スマホが震えた。画面に一行だけ。


『先輩、少しだけ会えますか』——雛。


 指が止まる。

 廊下の先、曲がり角の陰で、空気がわずかに濃くなった気がした。気のせいだ。きっと。


『いいよ。理科準備室の前で』

 送信する。


 《LIFE:90》がほんの一瞬だけ、数字の縁を淡く脈打たせる。減ってはいない。ただ、予感だけが形を持つ。


『迅』

 尊が名を呼ぶ。


『ゆっくり、は怖いから尊い。早い、は楽だから危うい。言葉で、先に地面を作っとけ。神でも止めらんねぇ境界がある。』

「……できるだけな」


 角の向こうから、駆ける靴音。

 息を整える気配。迷って、踏み切る気配。

 俺は背筋を伸ばし、手すりから手を離した。冷たい金属の感触が消える。代わりに、掌に体温が戻る準備をする。


     ◇


 理科準備室の前。

 雛は走ってきたままの呼吸を二回だけ浅く整え、俺を見た。

 昨日までの“正解”の笑顔を、今日は置いてきた顔。

 胸の前で彩葉から受け取ったスケッチブックをぎゅっと抱えている。


「先輩。私——」

 言葉が喉で生まれて、まだ名付かない。


 背後の窓を、遠雷の光がかすめる。季節外れの、乾いた閃光。

 その薄明かりの中で、雛の指先が小さく震え、やがて止まる。


「“ゆっくり”が怖いので、輪郭から、確かめに来ました」

 彩葉の影が、言葉の端に淡く残る。

 俺は息を吸い、逃げ腰の言葉をひとつ捨てた。


「……まず言葉から。私の言葉で。形は、その次でもいい」

 雛は一瞬だけ目を閉じ、開く。

 瞳の底に、昨夜の“嫌いも連れていく”がまだ灯っている。


「先輩。私、迅先輩が——」


 その続きを、鐘のようなチャイムが切った。

 放課後の終わりを告げる音。雛は驚いて笑って、すぐ真顔に戻る。


「——好きです。偽物でも、本物でも、好きです。

 形で確かめたくなってる自分が、嫌いです。でも、その嫌いを連れてきました」


 廊下の風が、二人の間をやさしく通り抜ける。

 俺の掌が、確かに少し温かくなる。


《LIFE:90》

 白は保たれた。

 尊が小さく口笛を吹く。


『上手くやれ。言葉で地面、形で橋、な』

「わかってる」


 俺は頷き、雛に半歩近づく。

 まだ触れない。触れないけれど、逃げない距離。


「ありがとう。来てくれて。……順番を、守ろう」

「はい。守ります。だから——」


 雛は胸の前で拳を一つ握り、ほどいた。

 目は泣いていない。けれど、強く濡れている。


「明日、もう一回、言わせてください。言葉で。それから、形で」


「約束する」

 俺が言うと、雛は小さく笑った。

 正しい笑い方ではない笑い。今日の顔にだけ似合う笑い。


 窓の外で雷が遠ざかり、校舎に夜が降り始める。

 廊下の片隅で、彩葉から受け取った紙が、雛の腕に抱かれているのが見えた。

 未完成の輪郭はまだ白く、でも確かに、ここにある。


——この夜、いくつかの速度が揃った。


 “ゆっくり”と“早く”。“言葉”と“形”。“怖さ”と“確かめたい”。

 どれも間違いじゃない。間違いにしないのが、明日の番だ。

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