第17話「屋上の正直」

 放課後のチャイムが落ち着いて、校舎の熱がゆっくり抜けていく頃。

 西側の屋上は、風だけがよく喋った。フェンスの結束バンドがかすかに鳴り、乾ききらないコンクリの匂いがした。


「……来た」


 澪がドアを押し、肩で息を整える。髪ゴムを結び直して、俺の前に立つ。目元の笑い皺はあるのに、笑ってはいない。


「遅れて悪い。職員室で長引いて」

「大丈夫。怒ってないよ」

「怒っててもいいのに」

「今日は、怒る話じゃないから」


 軽く冗談を置いて空気を緩める。効き目は半分。風が二人の間を通り抜けていって、澪のスカートの裾が小さく揺れた。


「——座る?」

「うん」


 非常階段の踊り場に腰を並べる。金属の手すりに肘を置く癖は、男の頃からあまり変わってないらしい。澪が横目でそれを確認して、息を整えた。


「急がなくていいよ。……でも、聞かせて」

「全部は無理でも、必要な分は話す」


 喉が渇いていた。自販機の缶ココアの甘さが恋しいが、ここにはない。

 代わりに、目に見えないものがいつも通りそこにある。


《LIFE:90》


 数字は平ら。だけど輪郭が、日差しの白に薄く滲む。言葉に触れる前の、予感のノイズ。


「——俺、前にも言ったかもしれないが元は男だ。急に女になった。理由は、簡単には言えない。でも“運が悪かった”とか“願ったわけじゃない”のは信じてほしい」


 澪は、瞬きの回数を一度だけ増やしてから、頷く。


「知ってた、ような……知らなかった、ような。体の動かし方と、笑うタイミングが前と同じで、でも……目が時々、びっくりしてるから」


「ばれてたか」

「バレてたというより、可愛い子や綺麗な人を見る目がジロジロしてる男子みたいだったから。女子高生の皮を被ったおじさん、みたいな。体育の着替えとか見せないようにしてたのは女の勘なんだけど」


「言葉のバットで殴れた気分なんだが……」


 風が強まって、フェンスの向こうで落ち葉が一枚、空に浮いた。

 澪は短く笑って、それから小さく息を吸う。


「でも……やっぱり怖かった。『そうかもしれない』って思いながらも、確かめるのが怖かった。私が“勘違いしてた”って言われるのが一番怖いんだと思う」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。

 ——この人は、逃げないで“怖い”をちゃんと口にする。


「もう一個、ある。これが一番まずい。俺には“見える”ものがある。——命のカウント、みたいなやつ。俺にだけ見える。触れたり、間違ったキスをしたりすると、減る。冗談じゃなく、減った」


 澪の喉が、目に見えるくらいに動く。


「……この前の、あれ」

「あれ。事故だった。でも、減った。十年。数字で言えば簡単だけど、簡単じゃない」


 澪は目を閉じ、拳を膝の上で握って、ほどく。


「痛かった。胸が、じゃなくて。私のせいで減ったのが、痛かった」

「お前のせいにはしない。俺も止められたし、止めた。次はもっと上手くやる。距離とか、状況とか」


「うん。私も、止める。……止める人でいたい」


 その言葉を置くときの声は、妙に落ち着いていた。

 言葉を取りにいく人の声。


「で、もう一つ。ウザい神がいる」

「う、ざい神?」

「正式名称は長くて覚えてない。恋とか魅了とか、そういう系統の権能持ち。こいつが絡んでる。“本物”を見つければ戻れる。でも、偽物に深く触れると——危ない。そういうルールがある。俺の勘違いじゃない。そして、本物は俺が元男ってことを知ってるらしい」


 ふっと、澪が笑う。鼻で短く。呆れとも安堵ともつかない温度。


「……なるほどね。世界が揃って“迅を女の子として扱う”わけだ。私だけがたまに置いていかれて、でも置いていかれたくなくて」


「だから先に言う。お前を置いていかない。隠し事を全部なくすのは無理だけど、言えることはすぐ言う。言わないと腐るらしいし」


「誰の受け売り?」

「蓮華先生」

「先生って」


 ふたりで少しだけ笑う。

 笑いの直後、風がやんで、屋上が急に静かになった。


「質問していい?」

「どうぞ」

「“本物”って、何?」


 澪は正面から問う。言葉の角度を測らない、まっすぐな矢。


「俺も分からない。けど、“俺が救われるための正解”じゃないと思う。お前や、雛や、みんなが壊れない形。誰かを踏みつけないやつ。距離とタイミングを間違えないやつ。たぶん、そういうの全部」


「じゃあ——“偽物”って、何?」

「最短ルート。答えだけを取りにいくやつ。相手の傷を見ないやつ。……この前の俺みたいなやつ」


 澪がゆっくり息を吐く。視線を落として、つま先でコンクリの白線をなぞる。


「私、雛ちゃんと話す。ちゃんと。

 『それ、雛ちゃんの言葉?』って聞く。……言ったら、壊れるかもしれないけど、言わないで壊れるよりは雛ちゃんのためだと思う」


 胸の奥がヒュッと冷える。

 その選択がどれだけ危なっかしいか、俺は知っている。


「言い方だけ、気をつけろ。“偽物”って単語は刃物だ。たぶん、あいつの中で熱になる」

「わかってる。言葉は、選ぶ。……でも、逃げない」


 頷いた瞬間——


《LIFE:90》


 白がわずかに息をする。

 減ってはいない。ただ、胸の内側で小さな針が“右”に傾く。

 それは“減らす”ためじゃなく、“守る”方向への変化だった。


「迅」


 澪が俺の名前を呼ぶ。呼び方は、いつもと同じ。

 でも音の奥に、いくつかの決意が挟まっていた。


「私、あなたを“迅”として見てる。男とか女とか、過去とか、そういうのとは別に。

 だから、今日の話を聞いて——怖くなったけど、離れたくはならなかった」


 喉が鳴る。助かる言葉って、体の真ん中に直接触ってくる。


「……ありがとう」


「それと、お願い。

 もう一回、キスしたくなったときは、私の前で言って。言葉にして。

 そのとき私が“ダメ”って言ったら止めて。私が“いい”って言ったら、それでもルールをもう一度確認して」


「手続き、いる?」

「いる」


 あまりに“澪”らしい答えに、笑いが零れる。

 たぶん、こういう手続きが俺たちを救う。


「じゃ、今日はここまで。……降りる?」


「待って。もう一つだけ」


 澪がフェンス越しに西の空を見る。雲の隙間から細い光が落ちて、街を斜めに撫でる。


「雛ちゃんが、もし——私の言葉で熱を上げちゃったら、そのときは私が責任を取る。あなたの前で、止める。抱きしめる方で止める」


「抱きしめる?」

「抱きしめる。触れない距離で守ると、かえって高熱になること、最近わかったから」


 それは、昨日の保健室で俺が感じた真理と、きれいにつながっていた。

 触れ方次第で、人は落ち着く。壊さない触れ方は、確かにある。


「……任せる。信じる」


「ありがと」


 立ち上がると、澪は制服の膝をパンと払ってから、俺の前で片手を出した。握手。

 この人は時々、手続きを現実にする。


「じゃ、行ってくる」


「どこへ」

「一年の廊下。

 ——“明日、時間ちょうだい”って、雛ちゃんに言ってくる」


 胸の奥がざわつく。怖さと心強さが同時に立つ感覚。

 その両方を飲み込むように、深呼吸を一つ。


「待ってる。……何かあったら、すぐ呼べ」

「呼ぶ。たぶん三回くらい呼ぶ」

「多いな」

「足りないより、いいよ」


 ドアが閉まり、屋上に風だけが戻る。

 残された俺は、フェンスに額を軽く当てる。冷たさが頭を澄ませる。


《LIFE:90》


 白い数字はそのまま。

 けれど、胸の中心で針が確かに動いた。

 減らすためではなく、守るための方向へ。


 ポケットのスマホが震える。通知——

 「紬:ねえ、夏休み会いに行くから空けといてよ!」


 小さく息を止め、返信は後に回した。

 今は、澪に道を空ける番だ。


 夕陽の色が一段、濃くなる。

 屋上の影が長く伸びて、俺の足元で交わった。



 澪は階段を下り、踊り場を曲がるたびに速度を整えた。

 急ぎすぎてはいけない。言葉は走ると転ぶ。


 一年の廊下。ちょうど教室から雛が出てくる。黒紫のツインが、午後の光を少しだけ拾った。


「雛ちゃん」


 呼べば、振り向く。完璧な笑顔——の、手前で止まる。

 ほんの一拍の素顔が、そこにいた。


「先輩」

「明日、時間ちょうだい。放課後、少しだけ」


 雛は、目の奥で何かを計算して、それから短く頷く。


「はい。……お願いします」


 “お願いします”。

 その敬語に紛れ込んだ震えを、澪は取りこぼさない。


 じゃあ、と手を振ってすれ違う瞬間。

 澪の指先が、制服の袖の縫い目をぎゅっとつかんでから離れた。自分の緊張を身体に置いていく手つき。


(大丈夫。言葉は選べる。選んで、渡せる)


 心の中で繰り返し、息を整える。

 明日、あの教室で。

 “正解”じゃなく“本音”で、練習じゃなく本番で。


 夕暮れのチャイムが、階下から遅れて届いた。

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