第三章 愛の熱は、静かに臨界を越える

第16話「甘えの重量」

 翌朝、雨は上がっていた。

 昇降口に差し込む光はまだ白く、床の水たまりが薄い鏡みたいに揺れている。濡れた靴の音が校舎の腹の中でほどけ、傘骨の金属音だけが遅れて残る。


 その中で、雛が笑っていた——完璧な笑顔。

 けれど、瞳だけが曇天の色を引きずっている。澪はそれを見逃さない。髪先を指でまとめて結び直し、息を一つ。胸の奥で小さく呟く。


「……雛ちゃん、何かが違う」


 それは気のせいではなかった。

 十五話の「本音」を確かめ合った夜から、雛の笑顔は“正しい”方向へ微妙に寄っている。角度も、間合いも、教科書どおり。けれど体温だけが、どこか別の場所に置き去りにされていた。


 澪は声をかけようとして、やめた。

 追いかける言葉が“正解”の形をしてしまうのが怖かったから。

 代わりに、光の中へ消えていく雛の背中を見送る。軽い香水でも柔軟剤でもない、薄い紙の匂いだけが残った。



 昼休みの保健室は、窓の音が静かすぎて逆に耳が痒い。

 白いカーテンが息をするみたいに膨らみ、消毒液の匂いが薄く溶けている。ベッドに腰を下ろし、深く一つ息を吐いたところで——カーテンの隙間から顔がのぞいた。


 だぼっとしたカーディガン。ゆるいまとめ髪。疲れているのに笑っている目。

 蓮華だった。


「また来たの? サボり常習犯」

「違う。ちょっと倒れかけただけだ」

「同じじゃん。……ほら、こっち座って」


 丸椅子を引き寄せ、紙コップを差し出してくる。

 湯気のないブラック。甘い匂いはしないのに、落ち着く匂い。


「飲む? 寝起きに飲むと死ぬけど」

「死にはしない」

「寿命は縮むかもね」

「……その単語、やめろ」


 何でもない冗談に、変な汗が出た。

 視界の端に《LIFE:90》が静かに浮かんでいる。減ってない。赤くも青くもない、ただ在る数字。

 呼吸のリズムに合わせて微かに明滅している気がする——気がするだけだ。俺にしか見えない“気のせい”の正体。


 蓮華が前髪をそっと払う。

 指先がかすかに触れた。体温が伝わるほどでもないのに、背中のこわばりがほどけていく。肩から余計な力が落ち、視界の輪郭が柔らかくなる。


「びくっとしすぎ。……元気。そういうの」

「何が」

「脈とか、顔色とか。ふつうに見て分かるやつ」


 冗談みたいな声色で、少し本気。

 蓮華は自分のカップを傾け、目を細める。


「人ってさ、触れられること自体が、たぶん薬なんだよ。

 甘やかすって、依存させることじゃないし」


 言いながら、俺の肩に指先を軽く“とん”。

 それだけのことで、心臓が少し静かになる。身体が“安心”のフォームを思い出す。


「……どうしてそんなこと言うんだよ」

「勘。あと、保健の先生に頼まれてるの。

 『あんた空気読むの得意だから、困ってる子が来たら寝かせといて』って」


「頼まれてるって……ボランティア?」

「ううん、暇つぶし」

「軽いな」

「うちはいつも軽いよ。じゃないと、沈んじゃうから」


 笑うのに、目の奥はまっすぐだ。

 言葉の強さに比べて、声は小さい。自分に言い聞かせてきた年季の音。


「ねえ、迅。いま“隠してる顔”してる」

「は?」

「ほら、眉のとこ。ピクって。そういうの、見つけるの得意」


「隠してない」

「そう言うときが隠してるの。……まあ、いいけど」


 俺は黙ってカップを受け取り、一口。

 苦くて、喉が温かい。言葉が喉まで来て、引き返す。


「言いたくなったら、誰でもいいから言いな。

 言葉って、溜めこむと、心より先に腐るから」


 頭の奥が小さく鳴った。尊の声でも、LIFEのピコンでもない現実音。

 「……ああ」しか返せない。返してから、少し救われる。


 蓮華は立ち上がって、伸びをした。

 カーディガンの袖口が肩をかすめ、香水じゃない石鹸の匂いがさっと通る。


「午後、眠いでしょ。寝てきな。

 もし悪夢見たら、起きて水飲む。だいたい復活するから。どうしてもっていうなら、添い寝してあげてもいいけど」


「添い寝されたいがやめとく。って、医者みたいだな」

「でしょ。うち、就職したらナースか保健医になると思う」

「普通に看病されたいし、見られたいんだが」

「診察料高いよ」

「やめときます」


 白い布がふわりと戻り、風で小さく揺れる。

 指先に残った温度が現実みたいで、少し笑った。


 ——減らない。

 この温度は、命を削らない。

 誰かを壊さない優しさって、本当にあるんだ。


 《LIFE:90》は、静かに息をしている。



 放課後の渡り廊下は、雨上がりの匂いをまだ抱えていた。

 グラウンドの端で、ボールが乾いた音を一つ。校舎の影が細長く伸び、日の入りの角度だけが夏に近づく。


 階段を降りる途中、背後で足音が止まる。

 振り向けば澪。言葉を探す顔。俺は笑って、言葉を先に置いた。


「明日、屋上で。話、しよう」

「……うん」


 それだけで十分な日がある。

 そういう“延期”は、逃げじゃない。呼吸のための一拍。



 夜。

 コンビニの裏口。シャッターが半分降りた路地に、冷たい風が流れ込む。段ボールの独特の紙の匂い。遠くで猫が短く鳴く。


 制服のままコンビニのエプロンを外した蓮華が、ペットボトルを抱えて出てきた。

 疲れているのに、眉の角度はやわらかい。


「おつかれ様。本当に働いてるんだな」


 無言で水を差し出すと、蓮華は喉を鳴らしながら笑う。


「ありがと。優しいね」

「昼のお返し」

「お返しって言葉、好き」


 空を見上げる。雲が切れて、星が一つ。

 じっと見ていると、星の方がこちらを見ている気がして、ばからしくなって目を逸らす。


「ねえ、迅」

「ん」

「今日みたいな日、“誰かに撫でてもらいたい”って思う瞬間あるでしょ」

「……なくはない」

「我慢しないでいいよ。ちゃんと甘えるのも、人間の呼吸の一部だから」


 そう言って、こぶしで肩を軽く小突く。

 ほんの“とん”で、笑いが生まれる。動く前に、空気が先に軽くなる。


「よし。帰るか」

「うん」


 並んで歩く。青信号が舗装の上で滲み、電柱の影が二つ分遅れて伸びる。

 ポケットの中でスマホが震えた。澪から——「明日、少しだけ話せる?」。


 親指が止まる。

 昼の蓮華の言葉が、脳の後ろ側で反響する。“言葉は溜めると腐る”。


『いいよ。屋上で』


 短く打って送る。

 送信の“シュッ”という効果音が、思ったより軽く聞こえた。


 夜の空気は冷たいのに、胸の奥だけが少し熱い。

 《LIFE:90》は変わらない。

 ——数字はそのままでも、向きは変えられる。減らすか、積むか。選ぶのは俺だ。


 逃げない。

 明日は、ちゃんと話そう。


 自販機のライトが角で曲がり、路地は闇に戻る。

 その闇は、思っていたほど深くなかった。

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