第15話「違う私になっても」
放課後のチャイムが、黒板の白をそっと解くみたいに遠ざかっていった。
雨上がりの教室は、床に薄く光が残っている。窓の桟からは、さっきまでの雨粒が順番に落ちて、校庭の水たまりに円をつくっていた。
今日は放課後、昇降口前の掲示を一緒に見ていた流れで、そのまま雛が澪の教室までついてきた。
「上の階って、静かですね」と言いながら、何となく残った——そんな偶然。
掃除当番の声が廊下で消えて、教室は二人きりになる。
小日向澪は、机の角に腰を預けて、プリントの端を軽く指で叩いた。癖だ。落ち着いてみせるための、リズム。
「……雛ちゃん。練習でもいいからさ、“好き”って言ってみなよ。うまく言えなくても、私しかいないし」
御影雛は、椅子の背に両手を乗せたまま、少しだけ首を傾げた。雨で黒紫のツインが重く、毛先にだけ光が溜まっている。
「練習……ですか?」
「うん。告白“練習”。誰にって言わなくていい。声に出すって、それだけで楽になること、あるから」
雛は一度、喉の奥を開けるみたいに息を整えた。
唇に触れた指先が、ほんの少しだけ湿っている。雨の名残か、汗か、分からない。
「……す、——」
出しかけて、息がひっかかる。
雛は小さく笑って、眉尻を下げた。
「ぜんぜん、上手くないですね。やり直します」
「いくらでも。やり直していいやつだから」
椅子を挟んだ距離。
雛は目を閉じて、今度はゆっくり息を吸う。胸が、それに合わせて小さく持ち上がった。
「——好き、です」
教室の空気が、そこだけ柔らかく沈む。
きれいな発音。けれど、語尾の奥で、もう一度だけ同じ言葉がのたうっていた。飲み込まれた“もう一回”。
「うん。いまの、良かったよ」
澪は笑う。
「次は、“理由”なしで言ってみて。『だから』とか『でも』とか、付けないで」
「……好き、です」
同じ音のはずなのに、二回目のほうが苦しい。
雛は、椅子の背に置いた指をぎゅっと握り込み、爪の先で木の角を確かめた。
「……先輩」
「なに」
「これ、練習のつもりだったんですけど——練習じゃなくなってます」
雛は笑った。笑い慣れた“正しい笑い方”じゃない。
端が少し崩れて、息の音が混ざる笑い。
「私、いま、変です。おかしい、です。
好きでもない相手……いえ、嫌いだった相手のことを——どんどん、好きになっていってます」
澪のまばたきが、一拍だけ遅れる。
窓の外、雲が裂けて薄陽が差しこむ。机の天板に、歪んだ長方形の光が生まれた。
「嫌い、だった?」
「はい。あの人が笑うと、私が笑われる気がして。
向こうから話しかけられると、誰かの視線が背中を刺すみたいで。……だから、先に切って、逃げて、何も聞かないことにして。気づいたら、仲のよかった子とも疎遠になってました」
雛は言葉を選ぶ間隔で何度か瞬きをして、それから自分のこめかみに手を当てた。
指先がほんの少し震えている。
「それなのに。
ここ最近は朝起きると、嫌いなはずのその人の癖や声の形ばかり覚えていて、“好き”の形に勝手に並び替えられてます。
——私が男だったら、殴ってるぐらい嫌いな相手だったのに」
言ってから、息を吐く。
吐いた息の最後に、かすかな笑いが混ざった。笑ってないのに、体が笑いの仕草をしてしまうときの、小さなノイズ。
「自分で選んでない“正解”が、勝手に口から出るんです。
“先輩、やさしいですね”とか、“ありがとうございます”とか。音だけは正しくて、私の温度がない」
「雛ちゃん」
「怖いのは、私の“嫌い”が上書きされて、何も残らなくなること。
もっと怖いのは、何も残らなくなってから、私が笑っていること、です」
雛は目線を落として、制服の裾をつまんだ。
ぎゅっと握って、すぐ離す。
布地に残った皺を、指の腹でそっとならす。
「——違う自分になっても、今までの関係で、いてくれますか?」
澪は、返事を急がなかった。
机の角から指を離し、雛の正面に立つ。
距離は、半歩。触れない。触れないけれど、息の温度が重なるところ。
「雛ちゃん。
私は、雛ちゃんが“正しく”笑ってるときも、“下手に”泣くときも、知ってる。
『ありがとうございます』がうまく言えなくて、語尾がわずかに上ずるときがあるのも、知ってる」
雛の喉が小さく跳ねる。
目の奥に水が集まって、でもまだ落ちない。
「違う誰かになっても、私は“雛ちゃん”を知ってる。
“私らしく”じゃなくて、“雛ちゃんらしく”言っていい。
練習じゃなく、本音で、下手で、いい」
雛は、笑おうとして、やめた。
笑い方が分からなくなったみたいに、唇の端が二度ほど迷って、結局まっすぐになった。
「……練習、終わりにして、いいですか」
「うん」
「先輩。
私、壊れていくのが怖いです。
でも、壊れるのを我慢してると、もっと怖いです。
勝手に誰かを好きになる私が、私の中の“私”を、食べちゃいそうで」
言葉のたびに、俯いた肩が少しずつ上に戻っていく。
雛は顔を上げた。
目尻に光が乗って、ひと粒だけ涙がこぼれそうでこぼれない。
「だから、お願いがあります。
違う私になっても、先輩は“御影雛”を呼んでください。
“正解”じゃなくても、真っ直ぐじゃなくても、私が言葉を間違えたら、そのままの私を叱ってください。
——置いていかないでください」
澪は、迷わず頷いた。
「置いてかない。
それに、雛ちゃんは“勝手に”じゃないよ。
選んでるよ、ちゃんと。
嫌いから目を逸らさずに、好きに名前をつけ直すの、すごく難しいことだもん」
ゆっくり手を伸ばす。
触れる寸前で止める。
それでも、雛は安堵したみたいに目を細めた。
「もし誰かの“正解”が雛ちゃんを連れていくなら、私が止める。
何回でも、『それ、雛ちゃんの言葉?』って聞く」
雛は、そこで小さく笑った。
今度は、うまく笑えた。
泣き笑い。頬が濡れて、目が細くなって、息が少し詰まる笑い。
「……ありがとうございます。練習、やっぱり必要でした」
「練習はいつでもしよ。百回でも千回でも。
そのかわり、たまに本番も混ぜること」
「はい。——本番」
雛は胸の前で、拳を一度だけ軽く握った。
深呼吸。
目を逸らさない。
「先輩。
私、迅先輩が好きです。
嫌いだったのに、好きになって、悔しくて、でも、好きです。
わたし、自分の“嫌い”もいっしょに連れて、好きになります」
澪は息を呑む。
少しだけ目を閉じ、短く笑って、うなずく。
「うん。聞いた。
それなら——雛ちゃんの“嫌い”も、私が覚えておく。
勝手に消えちゃわないように」
雛は「ずるいです」と小声で言って、袖で目元を拭った。
袖の端がしっとり濡れて、指先に冷たさが残る。
廊下から、誰かの笑い声。遠い。
教室の時計は、きちんきちんと歩み続けている。
雛は席へ戻る前に、もう一度だけ振り向いた。
「先輩。
違う私になっても——友達で、いてください」
「当たり前でしょ。
それ、ぜんぜん“違う”お願いじゃないよ」
雛は、今度こそ泣かなかった。
代わりに、小さく息を吐いて、胸の前で手を合わせる。
指がほどけて、いつもの“正しい姿勢”に戻る。
でも、その背筋の中に、さっきまでの震えはもうない。
“正解”に寄せる姿勢じゃなく、立つための姿勢になっていた。
窓の外、陽が少しだけ強くなる。
机の光の長方形が、角をやわらかく崩した。
雛はドアのところで振り返り、くすっと笑う。
「先輩。……練習、またお願いします」
「いつでも。今度は私が噛む番かもね」
「それはそれで、可愛いです」
「そういうのは迅に言いなさい」
「えへへ。内緒です」
人のいない廊下に、靴音がやさしく伸びていく。
雛の背は小さいけれど、遠ざかるほどに“薄くなる”のではなく、“線が太くなる”背中だった。
澪は空になった教室を見回し、机の角に指を置いた。
とん、とん、と——さっきとは違うリズムで、二回だけ叩く。
「……大丈夫。大丈夫だよ」
自分に向けた声は、驚くほど落ち着いていた。
雨上がりの匂いが、もう教室から消えつつある。
残ったのは、光と、さっきの言葉の温度だけ。
——違う自分になっても。
そう言われた瞬間から、たぶんもう、私たちは“同じ”を選び続けているし、その“温度”は、教室を出た後も澪の掌に残っていた。
ほんのわずかな熱。
けれど、それは確かに——触れたものを変えてしまう種類の熱だった。
冷まそうとすればするほど、心の奥に沈んでいく。
まるで、何かが芽吹く前の微かな脈動のように。
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