第14話「更衣室の作法と理性のほつれ」
昼前のチャイムが鳴る少し前、廊下に柔軟剤の甘い匂いが広がった。今日は体育。
俺は女子更衣室の前で足が止まる。どうしても、一歩が出ない。心の中がまだ男だと主張するように。
「迅」
背中から澪の声。タオルを胸に抱えている。
「こっち。角、空いてる。私が壁するから」
「壁って。ベルリンかよ」
「しないと絶対、鼻の下伸ばしてガン見するでしょ。特に蓮華ちゃんとか」
「ウチは気にしないけど」
蓮華は豊満な双球を揺らしながら、近づいてくる。下着姿を初めて見るが、でけぇ……。
「かと言って、見学オンリーにさせる訳にもいかないでしょ」
「ウチなら大丈夫だよ。それこそ着せてあげても」
「だから、ダメなの!! 絶対」
めちゃくちゃ着替えさせて欲しい……という、俺の願望をよそに更衣室の隅へ。澪はタオルをぱっと広げ、俺と周囲の視線のあいだに白い布の壁をつくった。
布越しに胸元の熱が跳ね返ってきて、余計に心拍が上がる。
「……ごめん。ありがと」
「ううん。——ほら、上からいこう。下は最後」
ブラのホックに指がもつれる。新品のゴムの匂い、汗の予感。背中の留め具がうまく噛まない。
その時、澪の肩が小さく震えた。
「っ……あ、私も着替えなきゃ……この壁のままだと動けない……」
詰んだ。俺は半笑いになる。
「……なぁ、透子さんならいいだろ?」
タオルの端から覗くと、ちょうど白波透子が出入口で整列の列を整理していた。姿勢が真っ直ぐすぎて、そこだけ空気が澄んで見える。
「白波さん」澪が呼ぶ。「ごめん、お願い。入れ替わりで“壁”してくれる?」
「“壁”……つまり目隠し役、ですね。了解しました。確かに、迅さんには必要ですもんね」
「そうそう」
透子が目線を落とし、俺の前に立つ。正面ではなく、半身で背を向ける。
「視線は向けません。プライバシーは確保します」
「ありがと……」
「理由は聞きませんが、迅さんですので仕方ないかなと。よく女の人を舐め回すようにジロジロ見ていますし……(私のことは、あんまり見ないのに)」
言い方ぁ! と思いながら、俺はブラのホックをもう一度。
指が滑って、肩紐がするりと降りかける。
肌の上を冷たい空気が撫でて、鳥肌が細かく立った。
その瞬間、透子が、ほんの刹那だけ横目で——いや、反射だと思う——こちらを見た。
まばたきが止まり、耳がじわりと赤くなる。
「え……そんな、胸……あるんですか。私より大きいのずるいです」
時間が止まった。
俺は反射で胸もとをシャツで抱え込み、透子は顔を真っ赤にして両手をぶんぶん振る。
「ご、ごめんなさい! 見てません、今のは反射で……違う、ええと、その——語彙を間違えました!」
「語彙って何だよ語彙って!」
「意図は観察ではなく、確認……いや、確認でもなくて……太もも、ムチムチでしたね」
「どっちでもアウトだって! って、どこ見てるの」
澪がタオルの向こうで肩を震わせて笑いを噛み殺す。
「迅、早く。ほら、紐ここ通して」
「は、はいっ」
ホックが、かち、と気持ちよく噛んだ。
上を着終えてから、ゆっくりスカートを抜いて短パンに。太ももを撫でる化繊の感触に、自分の脚が自分じゃないみたいで、少し眩暈がする。
透子は背を向けたまま、視界の外で小さく息を整えた。
「……ごめんなさい、迅さん。無礼でした。言葉の選び方を誤りました」
「いや……俺もごめん。驚かせた」
「驚いたのは私です」
「正直だな!」
思わず三人で笑った。
笑いの熱が空気を押して、湿度がすこし軽くなる。
《LIFE:90》
視界の端で、白が一回だけやわらかく点滅して、すぐ平らに戻る。
◇
体育館。ドリブルの弾みと笛の音。
短い袖からのぞく腕がやけに白い。跳んだとき、胸が遅れて付いてくる——その重さの扱いを身体がまだ知らない。
「迅、膝! 膝で受けて!」
澪がすぐ横で声を飛ばし、さりげなく進路に入ってブロックしてくれる。
ありがたいのに、悔しい。俺は頷き、呼吸を整える。
ふと、二階の観覧席の影に視線が引かれた。
黒紫のツインテールが、柵の支柱の陰から一瞬のぞく。
御影雛。
こちらを見ている——気がした途端、すっと影が引っ込んだ。
胸に引っかき傷のようなざわめきが残る。
◇
授業後。汗で前髪が額に貼りつく。
更衣室を出ると、靴箱の列に人だかりができていた。
「わ、なにこれ可愛い」
「誰宛? 名前ないけど」
俺の下駄箱の前で、澪が小箱を持ち上げる。
淡い紫のリボン。中には小さなキーホルダーが二つ。
色違いの星。——俺のは黒、もうひとつは濃い紫。
底に小さくメモが差してある。
『偶然、色がおそろいでしたね。——M』
偶然。
偶然、ね。
《LIFE:90》
白が、今度はほんのわずかに縁だけ毛羽立つ。すぐに平らに戻る。
遠くで、雨がまた降り出した音がする。
更衣室のタイルの冷たさと、鍵の金属の手触りが、指先に同時に残っていた。
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