第13話「雨の降りはじめに、笑う人」

——演技の奥で、まだ壊れない


 六月の雨は、まだ音の出し方を探しているみたいだった。

 昇降口の天井板を均一に叩く前に、いったん空気の膜でやわらいで、ぽつ、ぽつ、と間を置く。濡れたゴムの匂いが溜まって、床の白線の上だけが薄く光っている。


 月曜の朝。

 俺は靴紐を結び直してから顔を上げた。ちょうどその時、傘の骨が揺れて、雫が二滴、足もとで跳ねた。


「——おはようございます」


 声がした方向に、人の輪が自然にできていく。

 一年生の列、その真ん中。黒紫のグラデが雨で少しだけ暗んで、結び目が左右非対称のツインテール。御影雛が、そこにいた。


 笑っている。

 いつも通り、に見える。けれど——目尻の角度が“教科書どおり”にきれいすぎる、と一瞬思った。

 唇の端が、少しだけ、乾いて白い。


「御影ちゃん! 大丈夫だった?」

「おはよう〜」

「傘かわいい!」


 世界は、戻る手順をすべて知っているみたいに、自然に彼女を囲んだ。

 雛は一人ひとりに視線を配り、同じ温度の返事を重ねる。

 まつげの先の雫が、まだ落ちきれず震えていた。


「はい。ご心配をおかけしました」

「ありがとうございます」

「先輩も、素敵です」


 音の高さ、語尾の丸め方、礼の角度。

 どれも正しい。正しすぎる。

 ——その“正しさ”の中に、痛みのような息継ぎが一瞬だけ混じった。


 俺が立ち上がるより先に、廊下から駆けてきた影が一つ。

 ダークブラウンの髪、制服の袖口をきちんと折った小日向澪が、滑るのをこらえながら足を止めた。


「——雛ちゃん!」


 呼び方から“間”が抜けた。

 澪の目が笑って近づいて、でも二歩手前で立ちすくむ。雛が振り返って、完璧な笑顔で会釈したからだ。


「おはようございます、先輩。お会いできて嬉しいです」


 その“嬉しい”の語尾が、ほんの僅かに震えた。

 息を吸う音が、言葉の後に重なって聞こえる。

 それは“泣くのを我慢する人”の呼吸に似ていた。


「……よかった。心配したよ。具合は? 無理してない?」

「はい。大丈夫です。——先輩も、お元気そうで」


 丁寧。やさしい。

 なのに、心音だけがどこにも置かれていない感じ。

 俺は二人の方へ歩く。雛がこちらを見た。

 その視線は、迷いなく俺の顔に合って、にこっと笑う。


「おはようございます、迅先輩」


 “迅先輩”。

 男の時には、さん付けだけだったのに。

 女の俺に対して、後輩の口から自然に出るその呼称に、もう誰も引っかからない。世界がそう決めたから。

 俺だけが、胸の奥で小さく咳払いする。


「……おはよう。えっと、月曜から来られるってメッセ、見たよ」

「はい。先輩に心配してもらえて嬉しかったです」


 その“です”の手前で、彼女の唇が一瞬だけ噛み合った。

 指先も、制服の裾をぎゅっと握りしめている。

 ——言葉を逃さないように、押さえ込むみたいに。


「澪みたいに、電柱に頭ぶつけた?」

「いえ、別に」


 “先輩に心配してもらえて嬉しかったです”。

 文面的には好意的だが、雛ちゃんが結構可愛いのもあってデレデレして下心丸出しで接して以降。こんな対応はされたことが無い。おかしい——と妙に冷静な思考が割り込む。


 雛は半歩だけ近づいた。

 触れない距離。だけど、指先が制服の布に触れそうで触れないところまで来て、ふっと止まる。

 その止まり方があまりに滑らかで、俺は息を飲む。


「それより先輩。……今日のリップ、可愛いですね」

「えっ? いや、してないよ俺」

「——そう、ですよね。失礼しました。おいしそうな唇だなと思いまして」


 言い直す時の“——そう、ですよね”の間。

 そこにだけ、かすかに震えがある。

 そして、それを上書きするように笑顔が浮かんだ。

 涙を塗り潰すみたいな笑い方。


 澪が横で小さく眉を寄せて、すぐ笑顔に戻す。


「雛ちゃん、また放課後に、ちょっとだけ話——」

「はい。ありがとうございます。嬉しいです」


 まだ言い終えないうちに、返事が落ちる。

 早口ではなく、“終わらせよう”とする速さだった。


 澪の口が、言葉の残りを飲み込む。

 雛は軽く会釈して、一年の廊下へと傘を畳んで去った。


 湿った空気の中に、香水でも洗剤でもない、薄い紙の匂いが残る。

 雨は、さっきより音を覚え始めていた。


《LIFE:90》

 視界の端で、白が一枚、ささくれそうになって、すぐ平らに戻る。


(——気のせい。たぶん)



 二時間目と三時間目の間。

 高二の教室は、雨の匂いを入れたくないのか窓が半端に閉まって、黒板の粉が湿っていた。

 澪がノートを寄せてくる。行間の狭い、鉛筆の真面目な字。


「迅、ここ、先生“出す”って。……聞いてた?」

「聞いてたけど脳に保存し忘れてた」

「じゃあ私の脳を貸す」

「ありがとう、なんかSFだな」


 会釈みたいな笑いが二人の間だけ落ちたところで、廊下の向こうから一年生のざわめきが流れてくる。

 休み時間に上級生の階で声が増えるのは、たいてい誰かを探してる時だ。

 ドアのところで、青い髪が一瞬だけ揺れた。白波透子が、職員室へ向かう封筒を持って通り過ぎる。雨に濡れていない。傘の差し方まで様になっている。


 クラスの誰かが「うちのクラス、美少女率高くない?」と笑って、別の誰かが「ありがてー」と返す。

 笑いは軽く、日常は続く。

 澪はノートを示しながら、視線だけ俺の顔を見た。


「さっきの雛ちゃん……どう、見えた?」

「どうって……元気そうだった、よな。嬉しそうだったし。それに、ようやく先輩扱いしてくれて嬉しかったな」

「“嬉しそう”——ね」


 澪の返事は、そこに針を一本置くみたいに静かだった。



 ——たぶん、最初から苦手だった。

 男の人の笑い声。

 軽く肩を叩かれる感触。

 「ねえ、そのシュート、教えて」って、簡単に言える口の形。


 中三の春。澪先輩が居なくなっても続けてる練習帰り、学校の裏の公園。まだ明るいのに、街灯が点く準備をしている時間。

 私は部室の鍵を返し忘れていて、急いで戻るところだった。

 青いジャージのポケットで輪ゴムが鳴る。髪を結び直すのに、いつもこれ一本。


「——ごめん。フォーム、きれいだったからさ」


 振り向いた先にいたのは、背の高い男子。

 高校生だと思った。後で知ったけれど、当たりだった。

 黒髪で、笑うと目尻に皺が寄る。

 手にはコンビニの袋。ペットボトルが二本、触れ合って「カコン」と鳴った。


「君、見ない顔だけど。マネ——」

「選手です」


 言い捨てるみたいに返したのは、自分でも驚くくらい早口だった。

 その人——迅先輩は、少し目を丸くして、それから苦笑した。


「そっか。悪い。……いや、フォーム、ほんとに良かった。

 もし、よかったら、今度、シュート——」

「結構です」


 口の中が、少し苦い。

 男子に声をかけられると、女子からは白い目で見られる。

 いつからか、それが当たり前になっていた。

 “ちやほやされてる”って、嘲笑のスタンプ。

 私はそんなの、少しも求めてないのに。


「そ、そう? えっと、俺、速——」

「聞きたくないです。連絡先もいりません」


 間髪を入れずに言った。

 少しだけ、相手がびっくりする顔を見るのが、最近は癖になっている。

 “先に切る”。切られたくないから。


「……悪かった。高校、どこ?」

「——中学、三年です」

「まじで!? ご——」


 謝る声が私の耳に届くより先に、公園の出口から、同級生の笑い声。

 「また男の人と喋ってる」「ああいうのって、好きだよね」

 背中が、じわっと汗ばむ。

 違う。違うのに。

 どうせ、何を言っても、笑いの形は同じになる。


「……もういいので。すみません、急いでるので」


 私は一礼だけして歩き出す。

 彼が何かを言い直そうとした気配がしたけど、もう聞かない。

 背中の方で、コンビニ袋が小さく鳴った。


 その数日後。

 駅前の自販機の横、同じ人が別の女の子と笑っていた。

 肩が触れる距離で相手のことも考えずに気安く触る。

 女の子が赤い顔で逃げるみたいに去っていったあとも、彼は鼻の下を伸ばして楽しそうに手を振った。


 ——軽い人だ。

 そう決めた。


 なのに、それから。

 澪先輩が、時々話す“幼馴染”の話に、その名前が混じるようになって。

 “迅先輩はいい人だよ”って、笑う顔。

 私の胸の奥が、ざらざらした。

 澪先輩は、優しい。ほんとうに。

 でも——男の人を見る目は、ない。


 それでも、私は澪先輩が好きだ。

 好きだから、守りたくて、尾行もした。

 ……なのに今では、目で追っていたのは“その人”の方だったけど。


 嫌い、から始まった視線は、すぐに止まれなくなる。

 嫌悪と興味が、喉のところで絡まって、ほどけない。



 放課後。

 雨は本降りにならないまま、校舎の縁だけ濡らしている。

 コンビニに寄る約束を、澪が先に破棄した。


「ごめん、今日だけ、御影ちゃんのところ寄る」


 俺は頷いて、「唐揚げは明日に繰り越し」とつぶやく。澪は笑って、走り出した。


 薄暗くなり始めた住宅街は、洗い立てのシャツみたいな匂いがする。

 澪はビニール袋を握り直し、表札の横のチャイムを二回。間を置いて、三回目。


 ——沈黙。

 しばらくして、扉の向こうで空気が動く音がして、インターホンが小さく鳴った。


「……先輩」


 澪は、声を整えてから近づく。


「雛ちゃん。澪だよ。唐揚げ、少し買いすぎたし、来週まで寝かせると、さすがに味が……」

「ありがとうございます。お気持ち、嬉しいです」


 声は、やわらかい。

 やわらかすぎるくらい、やさしい。

 単語と単語の間に、正しい隙間が置かれていく。きっと、紙に書いたときの行間もきれいに揃うだろうと思えるほど。


「中に入って……いい?」

「ごめんなさい。今日は、少し、家の人が」


 “家の人が”。

 主語のない説明が、まったく引っかからない滑らかさで扉の向こうから届く。


「そっか。じゃあここで、少しだけ。……具合は?」

「はい。大丈夫です。先輩は、優しいですね」


 褒め言葉が、鏡みたいに返ってくる。

 澪は扉に額をつけるのをぎりぎりでやめて、インターホンの網目に口を近づけた。


「雛ちゃん。……ほんとに、雛ちゃん?」


 短い沈黙。

 雨粒がポストのふたを叩いて、やっと音を手に入れたみたいに「コトン」と鳴る。


「はい。私ですよ、先輩」


 完璧。

 完成された返答。

 すこしも間違っていないのに、澪の背中にうすい寒気が走る。


「……迅は、どう?」


 自分で言って、声が少し掠れたのがわかった。

 扉の向こうで、息が小さく整えられる気配。


「迅先輩は、お優しいです。すごく可愛いです。わたし、その、嬉しいです。毎日」


 “毎日”。

 会っていなくても、毎日。

 雨の音がその単語の下にひそんだ。


「——雛ちゃんは、どう“思う”の?」

「思います。好き、です。……先輩が、先輩なので」


 理由を問うと、定義が返ってくる。

 澪の指がビニール袋の持ち手を強く握って、唐揚げの一個が袋の中で位置を変えた。


「そっか。……そっか」

「先輩」

「なに?」

「先輩も、お優しいです」


 やっぱり、やさしい。

 やさしすぎて、怖い。


「無理は、しないで。……また、来週も来るから」

「はい。ありがとうございます。おやすみなさい、先輩」


 “おやすみなさい”の終止形がきれいに置かれて、会話は正しく終わった。

 インターホンのランプが小さく消える。雨が屋根の上で、少し強くなる。


 澪は一歩下がって、踵を返した。

 肩に落ちる雨粒が、さっきよりも冷たい。



 同じ時刻。

 俺は机にシャワーセットを置き、スマホを伏せたままベッドに投げた。

 画面が一度だけ震える。


《既読:小日向》

 ——「寄った。また話すね」。


 返事を打つ前に、画面の隅で白い数字が小さく光る。


《LIFE:90》


 平らだ。

 でも、耳の奥で紙が一回だけ折れる音がした気がした。


(気のせい。——だといい)


 湯気が上がる。

 窓の外、電線の上で雨の粒がひとつはじけて、光った。



 澪はコンビニの軒先で傘を開いた。

 深呼吸。吐く息が、雨の湿り気と混ざる。


(——“好き”って、どうしてこんなに、簡単に人を飲み込めるんだろう)


 言葉にしなかった独白は、喉の奥の熱だけ残して消えた。

 スマホが手の中で小さく震える。


《既読:御影》

 ——「明日も、笑っていけます」


 句読点が、やけにきれいだ。


 澪は返信を打たない。

 傘の骨に落ちた雫が順番に落ちていくのを、最後まで見送ってから歩き出した。


 雨は、本当に降りはじめたところだった。


《LIFE:90》


 白は保たれている。

 ただ、画面の“端”だけが、紙の角みたいにかすかに立っている。



 ——指で撫でれば、たぶん、すぐに平らに戻るくらいに。



 雨音の向こうで、雛の笑顔が“誰かの真似”みたいに整っていくのを、澪は見ていた。


 「……やっぱり、違うよ。どうしたのかな雛ちゃん……」



 ——澪は気づいていなかった。



 その“違う笑顔”の奥で、雛の中ではすでに何かが芽を出していた。

 優しさを真似しすぎて、感情と形が入れ替わるような、そんな危うい芽。

 まだ小さいその熱が、やがて“誰かを守りたい”と“独り占めしたい”の境目を溶かしていく。


 小さく呟いた声は、雨に紛れて誰にも届かない。

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