第12話「放課後、空いた席の分だけ静かになる」

 朝の光は白くて、黒板の粉をうっすら浮かせていた。

 チャイムの二分前、教室のドアが静かに開く。ざわめきが一拍だけ揺れて、すぐいつもの音量に戻った。


「——おはようございます」


 白波 透子。

 退院したばかりのはずなのに、立ち姿には無理がない。背筋の糸はぴん、と真っ直ぐ。

 それでも、ノートを抱える指先だけが少し強すぎた。


「白波さん、席こっちこっち!」

「体調もう平気?」

「髪、ほんと綺麗だよね」


 女子の輪が自然にほどけて、透子の進路を作る。男子の列からは軽口が飛ぶ。


「うちのクラス、美少女ばかりじゃね? ありがてー」


 笑いが起きる。

 “最初から”そこにいた人に向ける、遠慮のない明るさ。

 誰も、初日特有のぎこちなさを持っていない。


 俺は視線を上げて、小さく会釈を返した。

 透子も会釈を返してくる。——あの時と同じ姿勢、のはずなのに、目の奥のピントが半拍遅れて合う。


「おはよう、白波さん。……その、体調は大丈夫?」

「え? あ、うん。大丈夫。ありがとう」


 声がほんの少し固い。

 その直前、俺の顔をちら、と見て、すぐ逸らしたのを見逃さない。

 席に着くと、教科書を出す動作の途中で一度だけ深呼吸。

 ページの端に指を置き直す。小さな乱れ。人間の乱れ。


 隣の列から、澪が横顔をちらりと見た。

 笑っているのに、笑いのテンポが教室の笑いと合っていない——そんなふうに眉がわずかに寄る。


「白波さん、途中からだし……ノート、写す?」


 澪が声を掛ける。

 透子はほっとしたように目元を緩めた。


「……助かる。ありがとう」


 受け取る指先、ページをめくるリズムは几帳面だ。けれど、その几帳面さ自体が“焦り”に見えなくもない。


(話には聞いていた、って顔だ。でも実際に輪の中に立つと、息の仕方が分からないみたいな……。先生から聞いていたけど心配だったんだろうか)


 担任が入ってきて、出席を取り始める。


「白波さん、無理しないでね」

「はい」


 短いやりとりで、クラスはもう“日常”に戻っていた。

 窓からの白い光が、机の天板に均一に落ちる。


《LIFE:90》


 視界の端は静かだ。数字は減らない。

 ただ、白い平面の上を、薄い風が一度だけなぞった気配がした。

 気のせい。——多分。



 古文の時間。

 チョークの音が乾いて響き、先生がページをめくる音が静かな教室に響く。


「じゃあ、ここ。筒井筒——“昔、幼き人といひける時”」


 クラスの数名がざわつく。「恋文古典じゃん」「また伊勢かよ」

 先生の視線が教室を横切り、静かに止まった。


「白波さん、読んでみようか」

「……はい」


 透子は立ち上がる。

 紙の上の文字を追う瞳が、少しだけ揺れた。


「“筒井筒の井筒にかけしまろが丈……”」


 澄んだ声。

 だけど途中で、一音だけ途切れる。

 “背比べ”のくだりを読んだ瞬間、息がうまく続かない。

 数秒の沈黙。教室の空気が、呼吸を止める。


「……“ならべし時し思ほゆる”」


 最後まで読み切って、席に戻る。

 先生は何も言わない。ただ黒板に白いチョークで「変わらぬ心」とだけ書いた。


「——この段の意味、分かる人」


 透子はノートを開いたまま、視線を落とした。

 澪が、少しだけ透子を見てしまう。

 声を出す代わりに、ページの端に鉛筆で線を引いた。

 “変わらぬ心”の文字の下。


 その線が、ほんの少し震えている。

 透子の頬も、光の角度でかすかに紅く見えた。


(……幼馴染。変わらぬ心。……どうしていま、それを読まされるんだろう)


 彼女の胸の奥で、言葉が音を失った。

 勇気を出して聞こうと決めたのは——たぶん、この瞬間だ。



 休み時間。

 男子がふざけながら机をくっつける。「いや、マジで整いすぎだろ」「推し増えたわ」

 女子は「髪ケア何使ってるの?」と無邪気に食いつく。

 透子は全部に礼を失さない返答を返す。必要な言葉の量を、正確に見積もって。


 友達と呼べる人は多くは無さそうだけど。けれど、誰もが放っておけないから話しかける。

 何故か“中心”に置かれてしまう人。

 本人はまだ、その中心に座り続ける筋力に慣れていないように見えるが。


 澪がノートを受け取りに立つ。

 すれ違いざま、透子が小さく言った。


「……助かった。——先週より、声が出ない」

「え?」

「いや。つまり、その……上手に話せない日」


 言葉の選び方に、ほんの少し照れが混じる。

 澪は「ううん」と笑って、ノートを抱え直した。


(やっぱり——緊張すると、話がぎこちなくなるタイプなのかな?)


 俺の喉の奥が、ほとんど聞こえないくらいの笑いを飲み込む。

 誰にも見えないくらいの場所でだけ、空気が柔らかくなった気がした。



 昼休み。澪が食堂に行っていて、周りの机が少し空いた。

 透子はノートを開いたまま、ページの隅を指でなぞっている。

 風が窓の隙間を抜けて、青い髪を小さく揺らした。


「……速水くん」


 名前を呼ばれて、俺はペンを止める。


「ん?」

「好きな人って……澪さん、なんですか?」


 あまりに唐突で、ペン先がノートに「へ」の字を書いたまま止まった。


「えっ? なんで急に?」

「い、いえ……その、よく一緒にいるし……雰囲気が、えっと……」

「いやいや、女同士だよ? 俺、男じゃなくて女ですからね……?」


 言いながら、自分でもおかしくなって動揺する。

 透子は一瞬で顔が真っ赤になり、両手をぶんぶん振る。


「そ、そうですよね! そうですよね、失礼しました、わたし……!」


 机の下で足が、かすかにぶつかる音。

 その慌てぶりが、いつもの“整いすぎた”彼女と真逆で——不意に可愛く見えた。


「透子さん」

「は、はい!」

「……今、可愛かったです」

「えっ……!!」


 透子の口が、言葉を探すみたいに小さくパクパクと動いた。

 頬が、光を浴びた紙みたいに赤い。目を逸らして、袖口をぎゅっと握る。

 昼の光が差し込み、髪の青がほのかに透けている。


(——ああ、これか。いろは先輩が言ってた“可愛い”って、こういう瞬間のことなんだ)


 俺は無意識にそう思った。

 誰かが「可愛い」と言葉にしたとき、その人の中で空気が柔らかく変わる。

 いまの透子がまさにそれで——見てるだけで、呼吸が少し乱れる。


 透子は顔を伏せたまま、か細く息を吐いた。


「……速水くんは、そういうこと、簡単に言うんですね」

「簡単じゃないよ。たぶん本音」

「……そうですか。迅さんってチャラいんですね」

「えっ? なんでそうなるの?」


 目を上げた透子は、まだ赤い。

 でも——その赤は、朝よりも確かな体温を持っていた。


 次の瞬間、澪が戻ってきて「パン買えなかった」と嘆いた。

 透子は小さく席をずらして、いつもの距離を作り直す。

 俺は何事もなかったようにノートを閉じた。


《LIFE:90》


 白い数字は静かだ。

 でも、心臓のどこかがほんの少し速く打っている気がした。


 放課後。

 教室の埃は夕方の角度に乗って、静かに沈む。

 透子は封筒を持って職員室へ。

 俺は鞄に教科書を入れながら、澪の方を見た。


「送ってく?」

「大丈夫。……御影ちゃんのとこ、寄る」


 澪の声は、少し多めに柔らかかった。

 返事の形が先に決まっている、みたいな柔らかさ。


「気をつけてな。電柱とかに頭ぶつけるなよ」

「うん、ぶつけないって。唐揚げの詰め合わせ持っててお見舞いするんだ」

「そんな奴、中々いない気もするが……」

「雛ちゃんが食べなかったら、私が全部食べるから大丈夫!」


 笑った。

 二人で笑いながら——


《LIFE:90》が、ほんの一度だけ、小さく、ささくれた。


 すぐ平ら。

 見間違い。——であってくれ。



 薄暗くなった住宅街は、洗い立てのシャツみたいな匂いがする。

 澪は電柱にぶつけた頭がヒリヒリとするのを堪えながら小走りで角を曲がり、御影の家の前に立った。


 ピンポンは二回。間を置いて、三回目。

 返事は、すぐには来ない。

 夜の始まりの風が、ポストの口をカタンと揺らす。


「……御影ちゃん。澪だよ。二日も休んでて連絡なかったら心配してきちゃった」


 扉の向こうで、空気が動いた気配。

 足音はしない。

 喉の奥で細い音がこぼれて、それが言葉になる。


「……せんぱい」


 その一語に、間がついた。

 呼吸が、カタカタと位置を探しているみたいな間。


「入っても——いい?」

「……ごめんなさい。来ないで、ください」


 文末がきちんと閉じている。

 点と点を丁寧に置くみたいに、綺麗に。


「唐揚げの詰め合わせセット置いてくね。私が我慢できなくて少し食べちゃったけど……」

「……大丈夫、です。お腹いっぱいですから。ありがとうございます」


 澪は眉をひそめて、インターホンの向こうの無音を耳で測る。

 “ありがとう”と“ございます”の間に、正しい距離が入りすぎる。

 いつもは、もう少し呼吸が跳ねる子だ。


「御影ちゃん。……ほんとに、御影ちゃん?」


 扉の向こうの空気が、また少しだけ動いた。

 ゆっくり、“考えてから”反応するみたいに。


「……先輩。——先輩は、やさしい」


 澪の喉がきゅっと鳴る。

 扉に額を寄せるのは、ぎりぎりでやめた。

 板の向こうにあるのが“声”だけだと、わかってしまう気がして。


「無理しないで。休んで。……また来週、ね」

「はい。——おやすみなさい、先輩」


 丁寧すぎる終わり方。

 “またね”の余白が、一ミリもない。


 風が、玄関マットの端をめくった。

 その一拍、澪の視界の端で《 》みたいな白い抜けが瞬く。

 UIではない。たぶん。

 でも、胸の奥の紙がひとつだけ折られて、折り目がついた。


「……また、来週か」


 澪は言って、踵を返した。

 帰り道、指先が少し震える。

 震えを誤魔化すみたいに、スマホを取り出して、迅に短いメッセージを打つ。



 同時刻、俺は自室でシャワーの準備をしながら、スマホを机に置いた。

 画面が小さく震える。


《既読:御影》

「月曜から行けます。ご心配なく。」


 句読点が、いつもより丁寧。

 いつもは、もっと俺にはそっけない子で連絡すら送ってこなかったはずだが。


《LIFE:90》


 白は動かない。

 でも、紙の上に置いた“名前”の文字だけが、わずかに太くなった気がした。


(よかった。……よかった、んだよな)


 確認のためだけの独り言は、湯気に混ざって天井で消えた。

 窓の外、街灯の光が、風のたびに小さく揺れる。

 何かが元に戻った気がする。


 ——何かが、正確にズレたまま固定された気もする。


 音のない夜が、ゆっくり始まった。

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