第11話「仮題:恋」
チャイムが鳴ったあとも、美術室は絵の具の匂いを手放してくれなかった。
いろは先輩はスケッチブックを胸に抱えたまま窓枠にもたれている。
頬についた絵の具は、さっきより少し乾いていた。
「さっきの……ほんとは冗談ですよね? えーと、どこからが冗談なのかなって、今ちょっと混乱してますが」
言ってから、自分で声が裏返ったのが分かる。
先輩はゆるく首を傾げた。ピンク色の髪が光を拾ってさらりと落ちる。
「冗談だよ? って言われた方が嬉しいのかな。ついさっきまで迅ちゃんの顔、面白かったよ」
「えっ? どんな顔してました俺」
「……“かわいい”顔」
《LIFE:90》ピコン。
(いや、そんな判定いらないから!)
思わず距離を取ったら、先輩は一歩詰めてくる。
その影が、夕日の中でやけに柔らかい。
「……絵、見せてもらっていいですか」
「まだ途中。それでも?」
「途中でも」
差し出されたスケッチブックには、鉛筆の線が何重にも重なっていた。
俺の顔——でもどこか現実よりも静かで、光を抱いているようだった。
「わたしね、描いてるとき思うの。線の中に“呼吸”を描けたらいいなって」
「呼吸……ですか」
「うん。誰かを描くって、結局その人の息の形を探す作業だから。
人物画を上手く描けた時って、少しだけその人の中に入れた気がする」
《LIFE:90》ピコン、ピコン。
(危ない。この人、真顔でそういうこと言うから怖い)
「でも、その“中に入る”って……危ない気がしますけど」
「危ないことしてるみたいで、楽しいよ?
わたしは、迅ちゃんの全てを知りたいし、描きたいな。ダメかな?」
先輩は軽く笑った。
笑ってごまかす暇もなく、先輩はスケッチブックを机に置き、そっと背後にまわった。
「……ちょっと、肩の角度見せて。動かないでね」
背中に指先が触れる。
絵の具よりも冷たくて、でもすぐに熱を持つ。
線をなぞるたび、そこに“色”が残っていく気がした。
次の瞬間、耳の後ろをかすめた吐息が、空気を柔らかく震わせる。
音じゃなくて、熱。
近すぎて、呼吸が音に変わってしまう距離。
《LIFE:90》ピコン。
「……ここ。光が落ちる筋、すごく綺麗」
囁き声が肌に触れる。
彼女の指が肩から背へとゆっくり降りて、線の途中で止まった。
軽く腕が回る。支えるみたいに。
その一瞬だけ、世界が止まった。
「この距離、好きだな。
ちゃんと見えるし、ちゃんと描ける」
《LIFE:90》ピコン、ピコン。
数字は減らない。でも、胸の鼓動が耐久限界を迎えていた。
「……せんぱい」
「なに?」
「いま、俺……かなり危険です」
「大丈夫。——したいなら、してもいいんだよ? 我慢しないでも」
「なっ?! しませんって!!」
その言葉と一緒に体温が離れる。
距離が戻ったのに、背中だけがまだ熱を持っていた。
***
片づけを手伝ってから美術室を出る。
廊下には誰もいない。夕方の光は角度を失って、床に薄く溜まっていた。
「送ってく?」
「いや、俺、家こっちなんで」
「そっか。じゃあお茶、五分だけ」
「五分で終わるわけが——」
「じゃあ六分」
「増やさないでください」
校舎裏の自販機。
風がフェンスを鳴らす。
俺が押したレモンティーを、先輩が当然のように受け取った。
代わりに渡されたのはあたたかいココア。
「甘い方が、落ち着くでしょ?」
「あ、ありがとうございます」
「ううん。わたしが飲みたかっただけ。お礼なんていいよ」
缶の口に唇を当てる仕草が妙に色っぽい。
飲み終わるたび、小さく鳴る呼吸が耳に残った。
「わたしね、恋って絵と似てると思うの」
「どういう意味ですか」
「近づきすぎると、線が潰れるの。
でも離れすぎると、光が届かない。
だから、触れそうで触れない距離をずっと探すの。永遠に見つからなくても」
「それだと答えが見つからないような」
「そうだね。芸術ってそういうものだから、毎日孤独だし、寂しがりやかも?」
笑いながら、ココアを一口。
喉を通る音が近い。呼吸がかすかに重なる。
後ろから抱きしめられて、縋るように手を回される。
その一瞬だけ、世界が止まった。
そして——。
「ねぇ……もう少しだけ、抱きしめてていい?
心臓の音が、きっと聞こえてるよね? 恥ずかしいけど……。
でもね、不思議と嫌じゃないの。
このまま、描かれるように、わたしだけを見てて欲しいな」
《LIFE:90》ピコン。
「……先輩、俺、今すごく危険なんで」
「大丈夫。絵の完成までは生かしておくね」
「物騒!」
「ふふ、冗談。
——でもね、作品って、危うさがあったほうが綺麗なの。
完全になった瞬間、つまらなくなるから」
その言葉は、少しだけ寂しそうだった。
「じゃあ、俺たちの関係も……未完成のままがいいんですか?」
「うん。“仮題”のままがいいかな。今はね」
いろは先輩は笑って、缶を傾ける。
「恋」ってタイトルを、軽く口の中で転がすみたいに。
《LIFE:90》ピコン、ピコン。
オレンジ寄りの点滅。
でも、数字は減らない。
***
校門までの帰り道。
夕暮れが街の端に溶けていく。
先輩の背中を見ながら、俺はなんとなく思った。
「迅ちゃん」
「はい」
「今日の顔、描きやすかったよ。
たぶん、光が“内側”から出てた」
「内側……ですか」
「うん。そういう瞬間って、絵も人も、いちばん綺麗なんだよ」
俺は何も返せなかった。
ただその横顔が、夕日の中でやけに眩しく見えた。
《LIFE:90》ピコン。
点滅だけ。数字は守られている。
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