第10話「世界は、形を合わせる方へ流れる」

 夕方の風はまだ汗を冷やすには弱くて、石段の途中で何度か立ち止まった。

 胸の奥に残っているのは、体育館で聞いた「邪魔」という短い言葉の余韻だ。

 足裏に板張りの感触がないのに、膝だけがテンポを探して跳ねそうになる。

 深呼吸。鈴緒が、風にゆらいで柱に小さく当たった。


「……速水さん?」


 呼ばれて、反射で顔を上げた。


 白。

 巫女装束の白が、夕日の橙を吸ってやわらかい光を返す。

 その真ん中で青い髪がさらりと揺れ、頬に落ちる影まで整っている。

 背筋が真っ直ぐで、立つだけで空気が整う人だ。

 見惚れてしまうぐらいに、彼女は綺麗だった。


(……誰? あんな綺麗な子、クラスにいたか?)


 視線が勝手に吸い寄せられて、慌てて外す。外した先にも、その人の輪郭が残った。


「参拝?」

「あ、えっと……はい。ちょっと、頭冷やしに。色々ありすぎて少し冷静になりたくて……」

「そうですか」


 彼女は二段だけ石段を降りてくる。足音がほとんどしない。

 近づいた距離に、思わず息が浅くなる。香は焚いていないのに、紙と木の、乾いた清潔な匂いがする。


「視線にも、礼が要りますよ」


 淡々とした声。叱るでも、咎めるでもない。

 静かに、世界の秩序を教えるみたいな言葉だった。

 俺は反射で頭を下げて、すぐに自分の声の高さにびくついた。


「す、すみません。……綺麗だなって、つい思ってしまって」


 数拍の沈黙。彼女の長い睫毛が、風でほんの少しだけ震える。


「綺麗、は主観ですが——でも、ありがとう。嬉しい」


 声音は平板なのに、最後のひと言と笑顔で空気の角がまるくなる。

 袖口の布が、指の中で小さくつままれてほどけた。なにかを押さえ込む仕草——見間違いだろうか。


「白波、です。白波 透子。あなたと……同じクラス」

「はやみ、迅です。……あの、本当に同じ?」

「同じ。忘れられてて、寂しいな」


 肯定だけ。なのに、その一語で妙に納得してしまうのが不思議だ。

 “昨日からそこにいた”みたいな空気をまとっているのに、俺の記憶の引き出しには名前の札が見当たらない。

 少なくとも、こんな美少女がいたら忘れない自信があるほど。女になる前の俺は——女に飢えていた。


 透子は竹箒を片手に、狛犬の足元へ視線を落とした。落ち葉が数枚、石の角に引っかかっている。

 箒の先でそっと寄せ、袖で風を受けて、また寄せる。動きに無駄がない。

 見ていると、胸のざわつきが表面から整っていく気がした。


「——走る人の立ち方」

「え?」

「肩が少し、前に。親指に力が残ってる」


 俺は思わず手を握る。指の皮が薄く硬いのを、自分で確かめるみたいに。


「……見てたんですか?」

「見える、だけ」


 目を合わせない。正面から射抜くのではなく、輪郭だけ撫でるような視線。

 その距離感が、余計に心拍を上げた。


《LIFE:90》


 視界の端。白い数字は変わらない。

 ただ、紙の端みたいに一瞬だけ、白がささくれた——ような気がして、瞬きをする。ノイズはもう消えている。


「世界は、形を合わせる方へ流れる」


 透子は箒を立てかけ、鈴緒の結び目を一度整えた。鈴が、ほんの短い音をこぼす。


「あなたは“形”から外れている。——それだけ。私もかもだけど」


 “女子”“男子”とは言わない。なのに、たしかに俺の胸の皺を指でなぞられた気がした。


「形、か。……合わせるの、苦手で」

「苦手、は悪徳ではない。——ただ、“礼”を持つと、損をしない」

「礼」

「自分に。相手に。世界に。

 家族は、祈りの最小単位——神様が最初に与えた“形”だから」


 言葉がそこで切れて、風が続きの余白を埋めた。

 透子は鈴緒から手を外し、少しだけ袖を握る。すぐに離す。

 何かをこぼしそうになって、縫い目をなぞって飲み込む仕草。


(……今、笑いかけた? いや、気のせいだ。たぶん)


 俺は賽銭箱の前に立ち、ポケットから硬貨を取り出す。じゃら、と金属の音。

 二礼、二拍手、一礼。指先のひらに、木の香が移った。


「また」

「え?」

「続きは、準備が要るから」


 透子は、それだけ言って一歩退く。

 近づいた距離を、きちんと元に戻すような退き方だ。

 礼を持つって、こういうことを言うのかもしれない。


「白波さん」

「なに」

「その、さっきの……“見惚れてすみません”。えっと……本当に綺麗で」


 言いながら、自分が何を言っているのかわからなくなる。

 彼女の睫毛がもう一度だけわずかに揺れて、すぐに静まった。


「礼を尽くした言葉なら、受け取る。ありがとう」


 鈴緒が、今度は鳴らない。

 夕日が端から暮色にかわって、石段の影が長く伸びる。

 彼女は箒を持ち直し、社殿の方へ向き直った。

 俺は石段を下りかけて、背中に残る違和感をもう一度噛みしめる。


(——初めて会ったはずなのに、最初からそこにいたみたいな“間”。なんだ、この感じ)


 視界の端の《LIFE:90》は、さっきのささくれが嘘みたいに平らだ。

 指で撫でられて整えられた紙、みたいに。


 風が一度だけ強く吹いて、袖がふわりと膨らむ。

 透子は片手でそれを押さえ、落ち葉をそっと寄せた。

 それだけの動きが、やけに美しく見えた。


◇ ◇ ◇


 ——そして、翌日。


(あれ? 俺、いつの間にかモデル台に座ってるんだけど!?)


 美術室。油絵の匂いと乾ききらない絵の具の色で満ちた空間。

 光を受けるガラス窓が広くて、机の上に差す陽射しまで舞台照明みたいだ。


「……動かないでね。良い子だから」


 不意に覗き込む甘い声。

 ピンク色の髪が陽に透けて、柔らかく波を描く。

 ライムグリーンの瞳が、キャンバスではなく俺の顔を映していた。


(え、可愛い。しかも距離近い。いや近すぎる!)


 先輩の髪は光が当たると桜色に透けて、幼さと柔らかさを両立した魅力。

 大きい胸に釣られて二つ返事でデッサンモデルを引き受けたはいいものの——俺のメンタルが持たない。


 スケッチブックを持つ手が細い。鉛筆を持ち替えるたびに髪を耳にかけ、光を集めるみたいに微笑む。

 ……その瞬間、彼女の右手が一瞬止まった。


「……あ、だめ。腱、まだ完治してないんだった」

 そう呟いて、すぐに笑う。

 手首には、淡いベージュのサポーターが巻かれていた。

「手、少し鈍いの。だから、君みたいに“綺麗な顔”は描きたくなるのかも」


 冗談めかして言うけれど、その笑みの奥に小さな痛みがあった。


「今の顔、保存したいな。可愛かったよ」

「は!? いやいやいや! 保存って何!? 勝手にスクショするな!」

「……ふふ。モデル料は後で請求してもいいよ? そうしたらヌードデッサンしたいから脱がしちゃうけどね。えへへっ」

「えへへっ、が洒落になってないですよ先輩!(こんな可愛い先輩に脱がされるなら悪くないな。あかん、にやけ顔が止まらない)」


 蓮華とは違うタイプの天然タラシ。悪気ゼロで殺しにきてる。

 鼻先が触れそうな距離で、手首まで柔らかい絵の具の香りに包まれる。


《LIFE:90》 → ピコン、と一瞬だけ点滅。


(やっば……減ってはないけど、これはアウト寸前の匂い!)


 心拍数が跳ねるのを、彼女の耳元で自分が聞かせてしまいそうで、余計に息が乱れる。



「ねぇ、迅ちゃん」

「な、なんすか、彩葉先輩」


 スケッチ台の前。彼女はペンを止め、少し真顔になる。

 頬に小さな絵の具がついているのに、その瞳は冗談みたいに真剣だ。


「キスはね、結婚してからだと思ってるの」


 爆弾。笑顔のまま、清楚バリアを張ってくる。

 でも声の温度は冗談じゃなかった。


(やっば、今までで一番……甘い……!)


 UIがピコン、ピコンと点滅だけ繰り返す。

 数字は減らない。けれど寿命が削られそうな錯覚。


「キスしたいなら……婚姻届、書いてみる?

 初めて会うのに、あなたのこと不思議と嫌じゃないの。

 もっと深く……溶け合うぐらいにずっと一緒にいたいの。ダメかなぁ?」


 スケッチブックをぱたんと閉じて、真顔で言う。

 冗談とも本気ともつかない。

 俺の喉が、ごくりと音を立てた。


「ちょ、ちょっと待ってください! 先輩それ本気で言ってます!?」

「ふふ、絵の具乾いちゃうね。照れてる顔、かわいいよ」


 誤魔化すみたいに微笑んで、また鉛筆を走らせる。

 でも、その横顔は光の中でやけにきれいに見えて、俺は息を止めたままだった。


 ——次の瞬間。


 鉛筆が机から転がり落ちた。

 拾い上げようとした彩葉の手が一瞬止まる。

 サポーターの上から押さえた指先が、かすかに震えていた。

 その笑顔の奥で、瞳だけが“何かを失った人”の色になっていた。



《LIFE:90》点滅。

寿命は減らない。でも、これ以上は絶対に危険だ。


(この人……清楚で天然タラシとか、反則すぎるだろ……!)


 俺の心臓は、絵の具よりも速く乾きそうだった。


——白と桜色。どちらも、俺の中でまだ名前のつかない光だった。

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