第9話「居場所のないコート」
水曜日。
体育館のドアを引いた瞬間、湿った木の匂いと松ヤニの甘い香りが混ざって鼻に届いた。
ゴム底が床を噛むキュッという音、ボールが床で弾むドン、パスが空気を切るヒュッ。俺の体のどこかに刻み込まれたテンポが、勝手に同期してくる。
——ただいま、のはずだった。
コートでは男子が三メン。速攻、レイアップ、戻りの声。俺はラインの外に立ち、自然とリズムよく手のひらでボールを受ける準備……をしそうになって、やめた。
胸元に意識が引っかかる。ユニフォームじゃない。女子制服の上に体育ジャージ。結べないはずの髪の毛先が、首の後ろでやけに存在感を主張してくる。
「——あれ? 新入生? あ、ごめん、女子は隣の時間帯だよ」
最初に声をかけてきたのは、後輩で一年控えガードの山下。いつもなら「迅先輩、外(そと)入れろ」って雑にボールを寄越してくるやつだ。俺を見ても、眉ひとつ動かさない“初対面”の距離。
そして、他の男子同様にジロジロと見てくる。
「ああ、俺——」
「“俺”って。はは、キャラ強いな。えっと、女子の用具庫は——」
言いかけた山下の背後で、キャプテンの東が口笛を短く鳴らした。
「始めるぞー。見学はラインの外、邪魔すんなよ」
邪魔。
その単語だけが、床の木目より濃く、足もとにべったり貼り付いた。
《LIFE:90 → ……微点滅》
減ってはいない。分かってる。だけど、この点滅は“呼吸”みたいに俺の胸の中で勝手に続く。
東は俺に視線を一度も寄越さず、円の中心で両手を叩く。
「今日のテーマは“速い判断”。テンポ上げる。——いくぞ!」
俺の席だったはずの隅の丸椅子には、水の入ったチームボトルとタオル。それを無意識に取りに行きそうになって、また足を止める。
山下が俺の肩を軽く押して、ラインの外へと整然とした“通路”のほうに誘導した。
「ほんとにごめん。女子の先輩、あとで呼んであげるから」
——俺は、ここで長い間、汗を流した。何度も何度も練習したんだ。
“呼んであげる”って何だよ。
笛。コーチの怒声。ドリルの列がぐるぐる回る。
輪の外に押し出されたままの俺の足だけが、どうしてもテンポに乗りたがって落ち着かない。膝が、勝手に跳ねる。親指が、ボールの縫い目を探す。
「はーい、呼ばれて来たけど見学の子かな?」
能天気な声が後ろから降ってきた。
女子バスの部長、千歳先輩。背は高いし、声もよく通る。笑いながら人の懐に入ってくるタイプ。
「君、かわいいね。名前とか教えて欲しいな。ナンパとかじゃないよ?」
「……速水。はやみ、迅……です」
「迅ちゃん? かわいい名前。うちマネ、いま一人で手薄なんだ。どう? ノリで入っちゃう? 男バスの奴らからジロジロ見られるよりは快適だよ?」
ノリで。
その軽さに、胸の内側がキュッと縮まった。
「いえ。——俺……は、プレイヤーなので」
「プレイヤー、ね」
千歳は目を細め、俺の足先と指先を一瞥した。ソールの削れ方、手の皮の薄いマメ。
「うん、分かる。立ち方がもう選手。……でも、いまの“ここ”では、難しいかも」
“ここ”。
ここ、は、俺の居場所だった場所だ。
返事が詰まる。千歳は追い詰めるような言い方はしない。むしろふっと肩の力を抜かせる声で続ける。
「マネでもコートには関われるよ。スコアも、スカウティングも、タイムシートも、バスケだよ。あなたの“今”の居場所を守るって選択肢もあるの」
「……すみません。少し、考えさせてください」
丁寧に頭を下げるのが精一杯だった。
千歳は「うん、いつでも」と笑い、名札裏に携帯番号を書いたメモをそっと押し付ける。押し付ける、といっても本当に軽い。“強制”の気配がないことに、逆に心が揺れた。
コートの中、山下がスリップして転んだ。
俺の体が、条件反射で一歩踏み出す。タオル、冷却スプレー——
「おい、女子。入るな」
東の低い声が、体育館の熱を一瞬だけ冷やした。
俺はラインの外で足を止める。山下の手を引き起こしたのは、新しい一年のマネだった。
“役割”が埋まっていく。そこに俺の形だけが、はまらない。
《LIFE:90 → ……ちか、ちか》
呼吸を深く。
吸って、吐いて、ふざけた神の顔を思い出して、もっと腹が立って、でも笑うしかなくて——
俺は体育館から一度離れることにした。水の匂いが強い用具庫を抜け、裏手の搬入口へ。夕方の風が汗の塩気を冷ましていく。
壁にもたれて、額を軽くぶつけた。
「……俺は、俺だろ」
小さく落ちた声に、別の声が重なった。
「うん。迅は、迅だよ」
澪だった。
ジャージの裾を握って、息を少しだけ切らし、でも目は真っ直ぐ。
「見てた。——いや、見守ってた、かな」
彼女は近づいてきて、俺の前で立ち止まり、両手で俺の袖口をちょん、と掴む。
その仕草だけで、胸の奥の固まっていたものが、少しだけ解けた。
「ごめん。連絡しようと思ってたけど、部活、顔出すって言ってたから」
「別に。……来てくれて、助かった」
思っていたより本音が近くまで出てきて、自分で驚く。
澪は「ふふ」と笑い、わざとらしく肩をすくめた。
「キャプテン、言い方きついよね。あの人、ライン守るのが正義って感じだし」
「正義は分かる。分かるけど……俺、ここで、走ってたから」
言いながら、体育館から漏れる音に耳を澄ませる。ドリルのテンポが上がった。誰かの笑い声。誰かの叱責。いつも通りの練習。
俺のいない「いつも通り」。
「——ね、迅」
澪の声音が少しだけ低くなる。
俺の目の前に回り込んで、覗き込む。自分のことを映すような真っ直ぐな瞳。
「知ってるのは、私だけだよ。迅が“迅”ってこと。世界がどう見ても、どう扱っても、私だけは、最初っからの迅を見てる」
喉の奥が熱くなる。
軽口で流すか、笑いでごまかすか、いつもの逃げ場は、今は使えなかった。
「……ありがとな」
それしか出てこない。
澪は「うん」と頷き、すぐ“いつもの澪”に戻る。わざと明るく、バカっぽく。
「で、迅ちゃん。ここで落ち込むのは似合わない。走るか、喋るか、食べるか。どれがいい?」
「三択の発想が体育会系」
「じゃ、全部」
言うが早いか、澪は俺の手首を軽く引っ張って体育館の脇のランニングコースに連れ出す。
外周一周——は、さすがに心折れるので半周。澪のペースは絶妙に遅い。“置いていかない速度”。息が上がりかけたところで、並木の影に腰を下ろした。
「ほら、ラムネ。尊の代わりに糖分補給」
「ウザ神基準で差し入れするな」
でも受け取って口に入れると、すぐに脳が動きだすのが分かった。
澪はペットボトルを差し出しながら、ふっと視線を落とす。
「千歳先輩、マネの話、してきたでしょ」
「……見てたのか」
「見守ってた。女子の輪は、たぶん——居心地は悪くないと思う。けど、迅がプレイヤーでいたいなら、私、やれることはやる」
「やれること?」
「先輩の東キャプテン、口は悪いけど理屈は通るタイプ。練習外での“個人メニュー”なら、時間作ってくれるかもしれない。体育館がダメなら、外のコート。スカウティングは私がやる。——“今ここ”のルールに殴り込みじゃなくて、隙間から正面突破」
“隙間から正面突破”。相変わらずわけの分からない名言を作る。
でも、心のどこかが、確かに灯る。
「……でも、澪が一番大変だろ。お前、もう十分、俺に時間使ってる」
「使ってるよ。バカ迅の補助輪係だから」
あっけらかんと言って、澪は少しだけ目を伏せた。
「それに、さ。迅が走ってるの、好きだから。——私のわがまま」
《LIFE:90 → ……点滅》
危険信号。俺は反射で視線を逸らし、ラムネの包み紙をいじくり回した。
「近い近い。——ありがとな。ほんとに」
「うん」
短く返事をして、澪は立ち上がる。
体育館の戸口を親指で示し、「戻る?」と目で聞いてくる。
「……今日は、いい。見学は……無理だ」
「じゃあ、外で二人ドリル。パスとキャッチだけ。テンポだけ、取り戻そ」
澪は用具庫から古い5号球を借りてきた。夕方の風の中、体育館裏の壁に向かって、二人でテンポを刻む。
トン、トン、トン。壁に当てて、受けて、返す。足が、自然と昔の“置き方”に戻る。
澪のパスは、昔よりも、優しかった。取りやすいボール。受けた瞬間に次の選択肢が二つ以上見える角度。俺の“今”の体を、正確に読んだ速度。
「——よし」
十本連続ノーミスで、指先が“やっと帰ってきた”と告げた。
澪が小さくハイタッチを求める。
パチン、と乾いた音が気持ちよく鳴った。
「明日も、やろ。放課後三十分。……それと、コーチには私から話しとく。“推薦者:澪”で」
「勝手に推薦すんな」
「勝手に守るの、私の悪い癖だから」
悪い癖。
なのに、どうしてこんなに、救われる。
体育館の中から、集合の笛が鳴った。練習が終わる。
俺と澪はボールを返し、校舎へ向かう渡り廊下を並んで歩いた。
「迅」
「ん」
「——偽物でも、守るから。私と雛ちゃんは下手でバスケ辞めちゃったけど。迅は上手かったから辞めるなんて勿体ないよ」
「辞めねーよ」
その言葉は、脈拍に合わせて響いた。
俺は答えない。代わりに、歩幅を半歩だけ澪に合わせた。
世界の補正がどれだけ強くても、この半歩の感覚だけは、俺のものだ。
夕焼けは、体育館の窓ガラスに薄く残っている。
《LIFE:90》は、静かに呼吸を落ち着かせていた。
明日は明日の“選択”が来る。
でも、今日の俺は、もう“輪の外”じゃない。少なくとも、たった二人の円の中では。
そう思えたことが、たぶん、いちばんの収穫だった。
夕暮れの風が汗の塩をさらいながら、二人の足音をひとつに溶かしていった。
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