第8話「尾行探偵、澪と雛」

 放課後のチャイムが鳴り終わる前、私は聞いてしまった。


 ——「待ち遠しかったからって、激しくしすぎないでよ」

 ——「ちょっまっ、誤解しか生まないセリフはやめてくれ……」


 廊下の曲がり角、保健委員の机のあたり。眠たげな声は七瀬蓮華で、返事は迅の、いつもより半音高い声だった。


 胸の奥がきゅっと縮む。聞かなかったことに——は、できない。


「……雛ちゃん、ちょっと相談があるんだけど」

「行き先、把握済みです。尾行しましょう、澪先輩」

「ふへ? なんで知ってるの?」


 黒紫のツインテールがふわり揺れる。毛先には淡いピンクが混じって、歩くたびに光を弾く。

 雛の腕にはまた絆創膏。理由を訊くと決まって「ちょっと転んだだけ」と笑うけど、その紫水晶色の瞳は、まっすぐで冗談を通さない。


 机の蓋を静かに閉じると、雛は鞄から黒いキャップを取り出した。慣れてる? いや、慣れてないよね?


「ちょ、ちょっと待って、準備よすぎない?」

「基本です。先輩が……心配なので。たらし込んでいる女の追尾ですよね?」

「言い方ぁ……」



 モールは湿気から逃げてきた人たちでいっぱいだった。ガラスの外は、梅雨の前ぶれみたいな重たい空。中は冷房の匂いと、焙煎の甘い香りと、氷を砕く心地いい音。


「尾行の基本は“普通にそこにいる人”、です」

「普通に、ね。……って、雛ちゃん、その雑誌、逆さまだよ」

「カモフラージュです」

「カモフラージュにも限度があるんだよ……」


 柱の影からそっと覗く。並んでメニューを見上げる二人。蓮華は眠たげに笑って、迅は目を泳がせながらもつられて笑う。かわいい。かわいいけど、迅。胸の真ん中が、ちくりとする。


「澪先輩、声。小さめで」

「いまは心の声だからセーフ」


 列が進んで、カップにホイップが盛られていく。例の“二人で一緒に飲むフラペチーノ”。側面に水滴がびっしりで、照明を弾いてきらきらしていた。


「……近づきます」

「いや、今はダメ——」


 雛はするりと別の列へ移動して、数人置きに同じやつを注文した。目立たない、けど速い。私は慌てて追う。


「なんで同じの買うの?」

「擬態。それに——澪先輩、甘いの好きです」

「お、覚えてたんだ……」

「当然です」


 窓際の二つ向こうに座って、私たちは自分のカップにストローを差す“だけ”。視線は窓の反射を利用して、斜め後ろの二人へ。


 そのとき、聞こえた。蓮華の、あのゆるい声。


「ねえ知ってる? コーヒー、ブラックで飲むと……胸、大きくなるって話」

「絶対デマだろ。論理的に考えてくれ」

「論理とかじゃなくて、願掛け。女の子は、そういうの好き」

「願掛けって、そんな……」

「じゃあ、一緒に飲む? ウチはブラックもいけるよ?」

「俺は——いや、私は……まぁよく飲むけど。関係ないだろ絶対」


 蓮華がくすりと笑う。氷の音。カップの水滴が、蓮華の胸元をつっと伝って布に滲む。

 私は慌てて視線を逸らした。制服の薄い生地なんて、夏の光の前では意味をなさない。……見てない、見てないからね。


「澪先輩、呼吸」

「してる……」

「心拍、早い」

「言わないで」


 迅は肩をこわばらせながらも、逃げないで笑っていた。その不器用な優しさが、昔から好きだ。だから——って、今は尾行。尾行中!


 横で雛が、小さく手を挙げた。


「わたし、ホットのブラック、買ってきます」

「この暑さで!?」

「願掛け、します」

「え、願掛け?」


 願掛け。胸、大きく。さっきの会話、聞いてたの?


「雛ちゃんは、そのままで十分——」

「……大きく、なりたいです」


 小さな声。決意の音。私は言葉を飲み込んだ。真剣すぎて迂闊に口にできないと感じたからだ。


 戻ってきた紙カップから、苦い香りが立ちのぼる。雛は一拍置いてから、そっと口をつけた。


 ちいさく眉が跳ねる。紫の瞳が、ぱちりと瞬き——


「……に、にぎゃい……」

「だから言ったのにっ……! (かわいい……)」

「澪先輩、声……小さく」

「ご、ごめん」


 雛はがんばって笑ってみせるけど、舌に残る苦さに目尻が潤む。私は慌てて自分のフラペチーノを差し出した。


「ほら、半分あげる。冷たくて甘いから」

「尾行中……」

「いいの。無理しない」


 ストローを指で押して寄せると、雛はきょとんとして、それから頬に色をさした。


「……間接」

「気にしないよ、私」

「……うれしい」


 ちゅ、と小さく吸って、ふわ、と肩の力を抜く雛。ほんのりピンクのツインテが、安堵に合わせて揺れた。


「澪先輩、やさしい」

「普通だって」

「普通じゃない。……“中身がある”やさしさ、です」


 怖いくらい真面目に言うから、私は照れ隠しにカップの側面の水滴を指でなぞった。



 斜め後ろの二人は、鼻先が触れそうな距離。蓮華は眠たげな目で笑って、迅は目を逸らしながらも逃げない。耳を澄ますと、まだ続きが聞こえる。


「じゃ、ブラック頼んじゃう? 二人で」

「二人でブラックって、もはや修行だろ」

「願掛けはペアのほうが効くって、SNSに書いてた」

「SNSを一次資料にするな」

「うん。——でも、いまは甘いののほうが、効くかもね」


 甘いのを、二人で。胸で軽くカップを支えて、二本のストロー。制服の布地がほんの少し湿って、内側の縁取りが光の角度で浮かんでは消える。私は視線を落とす。見ない、見ない。……でも、心臓は勝手に跳ねる。


「澪先輩」

「なに」

「さっきの願掛け、わたしは——澪先輩のために、したい」

「えっ」


 雛は腕の絆創膏を指先でもぞ、と触れて、小さく笑う。


「わたし、先輩みたいに、ちゃんと“守れる”人になりたいです。だから、強くなりたい。……それに、かわいくも、なりたい」


 胸の真ん中に、ぽっと火が灯るようだった。嬉しさと、くすぐったさと、少しの申し訳なさが混ざる。


「雛ちゃん。無理は——」

「します。……でも、今日はこれで十分」


 ストローで私のフラペチーノをもう一口。さっきより長く、甘さを確かめるみたいに。


「澪先輩の味、しました。おいしかったです」

「味覚の新境地やめて」


 小声で笑い合って、私はやっと、呼吸を深くできた。



 やがて二人は席を立つ。夕焼けが紫に傾いて、ガラスの向こうの街路樹の緑が濃くなる。私たちも少し距離を置いて立ち上がった。


 通路の真ん中、人波が一瞬だけ切れる。蓮華がふいに立ち止まり、迅のリボンの端を指でつまむのが見えた。何か言って、笑う。


 ——その笑顔、ずるい。


 でも、迅が笑い返すのも、ずるい。

 胸の奥が、ちょっとだけ痛む。私は追いかけかけて、足を止めた。

 隣で雛も止まる。合わせたわけじゃないのに、私が止まると雛も止まる。そういう歩幅になっていることに気づいて、少し笑ってしまう。


「雛ちゃん」

「はい」

「……ありがとう」


 雛は小さく首を傾げる。

 何に対して、か。私自身もよく分からない。

 でも、今日ここへ背中を押してくれたこと。息を整える余白をくれたこと。無理に笑わなくてもいい距離を作ってくれたこと——その全部に。


「わたし、役に立てました?」

「うん。すごく」


 雛の指先が、私の袖の端を、そっとつまむ。

 ほんの一瞬だけ。すぐに離れて、何事もなかった顔に戻る。

 でも、そのわずかな重さが、思いのほかあたたかい。


「澪先輩」

「ん?」

「偽物でも、守ります。……わたしは」


 驚くほど静かな、強い声だった。私は横顔のまま、うなずく。


「——頼りにしてる」


 雛のツインテが、ゆっくり揺れる。紫の瞳が、夕焼けの残光をひとつ飲み込んだ。


 通路の端を歩く二人の背中が遠ざかっていく。私は胸の前で手をぎゅっと握って、ほどいた。


「……大丈夫。わかってる」


 誰にともなく落とした小さな声が、冷房の風に混じって、消えていった。


 帰り道、雛はいつもより半歩だけ私の前を歩いて、ドアの開閉や段差の手前でさりげなく速度を落としてくれた。

 いちいち言葉にはしない、でも確かにそこにある思いやり。私は、何度も「ありがとう」を飲み込んだ。


 モールの外の湿気は、さっきよりましに感じる。手首に残ったストローの冷たさと、袖に残った小さな重みが、なんだかお守りみたいに心強かった。

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