第8話「尾行探偵、澪と雛」
放課後のチャイムが鳴り終わる前、私は聞いてしまった。
——「待ち遠しかったからって、激しくしすぎないでよ」
——「ちょっまっ、誤解しか生まないセリフはやめてくれ……」
廊下の曲がり角、保健委員の机のあたり。眠たげな声は七瀬蓮華で、返事は迅の、いつもより半音高い声だった。
胸の奥がきゅっと縮む。聞かなかったことに——は、できない。
「……雛ちゃん、ちょっと相談があるんだけど」
「行き先、把握済みです。尾行しましょう、澪先輩」
「ふへ? なんで知ってるの?」
黒紫のツインテールがふわり揺れる。毛先には淡いピンクが混じって、歩くたびに光を弾く。
雛の腕にはまた絆創膏。理由を訊くと決まって「ちょっと転んだだけ」と笑うけど、その紫水晶色の瞳は、まっすぐで冗談を通さない。
机の蓋を静かに閉じると、雛は鞄から黒いキャップを取り出した。慣れてる? いや、慣れてないよね?
「ちょ、ちょっと待って、準備よすぎない?」
「基本です。先輩が……心配なので。たらし込んでいる女の追尾ですよね?」
「言い方ぁ……」
◇
モールは湿気から逃げてきた人たちでいっぱいだった。ガラスの外は、梅雨の前ぶれみたいな重たい空。中は冷房の匂いと、焙煎の甘い香りと、氷を砕く心地いい音。
「尾行の基本は“普通にそこにいる人”、です」
「普通に、ね。……って、雛ちゃん、その雑誌、逆さまだよ」
「カモフラージュです」
「カモフラージュにも限度があるんだよ……」
柱の影からそっと覗く。並んでメニューを見上げる二人。蓮華は眠たげに笑って、迅は目を泳がせながらもつられて笑う。かわいい。かわいいけど、迅。胸の真ん中が、ちくりとする。
「澪先輩、声。小さめで」
「いまは心の声だからセーフ」
列が進んで、カップにホイップが盛られていく。例の“二人で一緒に飲むフラペチーノ”。側面に水滴がびっしりで、照明を弾いてきらきらしていた。
「……近づきます」
「いや、今はダメ——」
雛はするりと別の列へ移動して、数人置きに同じやつを注文した。目立たない、けど速い。私は慌てて追う。
「なんで同じの買うの?」
「擬態。それに——澪先輩、甘いの好きです」
「お、覚えてたんだ……」
「当然です」
窓際の二つ向こうに座って、私たちは自分のカップにストローを差す“だけ”。視線は窓の反射を利用して、斜め後ろの二人へ。
そのとき、聞こえた。蓮華の、あのゆるい声。
「ねえ知ってる? コーヒー、ブラックで飲むと……胸、大きくなるって話」
「絶対デマだろ。論理的に考えてくれ」
「論理とかじゃなくて、願掛け。女の子は、そういうの好き」
「願掛けって、そんな……」
「じゃあ、一緒に飲む? ウチはブラックもいけるよ?」
「俺は——いや、私は……まぁよく飲むけど。関係ないだろ絶対」
蓮華がくすりと笑う。氷の音。カップの水滴が、蓮華の胸元をつっと伝って布に滲む。
私は慌てて視線を逸らした。制服の薄い生地なんて、夏の光の前では意味をなさない。……見てない、見てないからね。
「澪先輩、呼吸」
「してる……」
「心拍、早い」
「言わないで」
迅は肩をこわばらせながらも、逃げないで笑っていた。その不器用な優しさが、昔から好きだ。だから——って、今は尾行。尾行中!
横で雛が、小さく手を挙げた。
「わたし、ホットのブラック、買ってきます」
「この暑さで!?」
「願掛け、します」
「え、願掛け?」
願掛け。胸、大きく。さっきの会話、聞いてたの?
「雛ちゃんは、そのままで十分——」
「……大きく、なりたいです」
小さな声。決意の音。私は言葉を飲み込んだ。真剣すぎて迂闊に口にできないと感じたからだ。
戻ってきた紙カップから、苦い香りが立ちのぼる。雛は一拍置いてから、そっと口をつけた。
ちいさく眉が跳ねる。紫の瞳が、ぱちりと瞬き——
「……に、にぎゃい……」
「だから言ったのにっ……! (かわいい……)」
「澪先輩、声……小さく」
「ご、ごめん」
雛はがんばって笑ってみせるけど、舌に残る苦さに目尻が潤む。私は慌てて自分のフラペチーノを差し出した。
「ほら、半分あげる。冷たくて甘いから」
「尾行中……」
「いいの。無理しない」
ストローを指で押して寄せると、雛はきょとんとして、それから頬に色をさした。
「……間接」
「気にしないよ、私」
「……うれしい」
ちゅ、と小さく吸って、ふわ、と肩の力を抜く雛。ほんのりピンクのツインテが、安堵に合わせて揺れた。
「澪先輩、やさしい」
「普通だって」
「普通じゃない。……“中身がある”やさしさ、です」
怖いくらい真面目に言うから、私は照れ隠しにカップの側面の水滴を指でなぞった。
◇
斜め後ろの二人は、鼻先が触れそうな距離。蓮華は眠たげな目で笑って、迅は目を逸らしながらも逃げない。耳を澄ますと、まだ続きが聞こえる。
「じゃ、ブラック頼んじゃう? 二人で」
「二人でブラックって、もはや修行だろ」
「願掛けはペアのほうが効くって、SNSに書いてた」
「SNSを一次資料にするな」
「うん。——でも、いまは甘いののほうが、効くかもね」
甘いのを、二人で。胸で軽くカップを支えて、二本のストロー。制服の布地がほんの少し湿って、内側の縁取りが光の角度で浮かんでは消える。私は視線を落とす。見ない、見ない。……でも、心臓は勝手に跳ねる。
「澪先輩」
「なに」
「さっきの願掛け、わたしは——澪先輩のために、したい」
「えっ」
雛は腕の絆創膏を指先でもぞ、と触れて、小さく笑う。
「わたし、先輩みたいに、ちゃんと“守れる”人になりたいです。だから、強くなりたい。……それに、かわいくも、なりたい」
胸の真ん中に、ぽっと火が灯るようだった。嬉しさと、くすぐったさと、少しの申し訳なさが混ざる。
「雛ちゃん。無理は——」
「します。……でも、今日はこれで十分」
ストローで私のフラペチーノをもう一口。さっきより長く、甘さを確かめるみたいに。
「澪先輩の味、しました。おいしかったです」
「味覚の新境地やめて」
小声で笑い合って、私はやっと、呼吸を深くできた。
◇
やがて二人は席を立つ。夕焼けが紫に傾いて、ガラスの向こうの街路樹の緑が濃くなる。私たちも少し距離を置いて立ち上がった。
通路の真ん中、人波が一瞬だけ切れる。蓮華がふいに立ち止まり、迅のリボンの端を指でつまむのが見えた。何か言って、笑う。
——その笑顔、ずるい。
でも、迅が笑い返すのも、ずるい。
胸の奥が、ちょっとだけ痛む。私は追いかけかけて、足を止めた。
隣で雛も止まる。合わせたわけじゃないのに、私が止まると雛も止まる。そういう歩幅になっていることに気づいて、少し笑ってしまう。
「雛ちゃん」
「はい」
「……ありがとう」
雛は小さく首を傾げる。
何に対して、か。私自身もよく分からない。
でも、今日ここへ背中を押してくれたこと。息を整える余白をくれたこと。無理に笑わなくてもいい距離を作ってくれたこと——その全部に。
「わたし、役に立てました?」
「うん。すごく」
雛の指先が、私の袖の端を、そっとつまむ。
ほんの一瞬だけ。すぐに離れて、何事もなかった顔に戻る。
でも、そのわずかな重さが、思いのほかあたたかい。
「澪先輩」
「ん?」
「偽物でも、守ります。……わたしは」
驚くほど静かな、強い声だった。私は横顔のまま、うなずく。
「——頼りにしてる」
雛のツインテが、ゆっくり揺れる。紫の瞳が、夕焼けの残光をひとつ飲み込んだ。
通路の端を歩く二人の背中が遠ざかっていく。私は胸の前で手をぎゅっと握って、ほどいた。
「……大丈夫。わかってる」
誰にともなく落とした小さな声が、冷房の風に混じって、消えていった。
帰り道、雛はいつもより半歩だけ私の前を歩いて、ドアの開閉や段差の手前でさりげなく速度を落としてくれた。
いちいち言葉にはしない、でも確かにそこにある思いやり。私は、何度も「ありがとう」を飲み込んだ。
モールの外の湿気は、さっきよりましに感じる。手首に残ったストローの冷たさと、袖に残った小さな重みが、なんだかお守りみたいに心強かった。
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