第7話「フラペチーノの罠」
放課後のモールは、制服姿の学生と買い物帰りの家族でにぎわっていた。
外は、梅雨入り前特有のむっとする湿気。
湿った風がガラス壁を叩き、内側にはエアコンの冷気がゆるやかに流れている。
照り返しで肌にまとわりついた熱気を奪っていくその空調が、まるで救いみたいだった。
——なのに、俺の胸の奥だけは熱かった。
腕には、蓮華さんの柔らかい圧。
肌越しではないのに、体温の輪郭がちゃんと伝わってくる。
密着している、というより「絡め取られている」ような距離だ。
緊張で腕が棒のように固まり、心臓が裏拍を刻む。
布地が湿って張りつき、彼女の形を主張する。
シャンプーの香りに、汗を隠そうとした制汗剤の匂いが微かに混ざる。
鼻先をかすめるたび、頭がくらくらして——
考えるより先に、理性が一歩後ろに下がっていくのが分かった。
女の子同士で腕を組むのって、こんなに密着するものなのか?
いや、初対面同然だぞ。普通じゃない。おかしい。……でも、拒めない。
「……ほら、限定ポスター」
「マジであるんだ、SNSでバズってたやつ」
「うん。“二人で一緒に飲むフラペチーノ”。かわいーじゃん?」
「ネーミングが犯罪の香りしかしないんだが」
蓮華の声はいつも通りのダウナー調。
けれどその唇の端がわずかに上がって、まるで「デートみたい」とでも言いたげだ。
制服の袖が腕に触れるたび、体温の境界線が曖昧になる。
季節はもう初夏。冷たいものを求めるのは自然なことだ。
でも、周囲の男子たちの「おぉ……」という視線が突き刺さって、俺の背筋は氷点下だ。
列に並ぶあいだ、氷を砕く音が聞こえる。
俺は胸の奥を押さえた。
蒸し暑さのせいか、それとも寿命ゲージのせいか。
どちらにしても、心臓の速度は制御不能。
《LIFE:90 → ……点滅》
——落ち着け。まだ減ってはいない。
けど、羞恥心の残量は確実に危険域。
◆
席は窓際だった。
斜めから射す夕焼けが紫を帯びて、ガラス越しに世界を染める。
プラカップの中、ホイップの白と苺の赤が、まるで初夏の色見本のように眩しい。
外側には細かな水滴がびっしりと浮いていて、光を受けて小さく震えていた。
「じゃ、二本ストローで」
「犯罪的な響きしかしないの俺だけ?」
「気のせい。ほら、胸で挟んで。……大きいから挟みやすいね❤︎」
「やめろ……羞恥心の寿命が尽きる!」
制服が触れた瞬間、冷えた水滴が袖に移り、じんわり滲んだ。
その冷たさが、むしろ熱い。
薄い布地が汗と水分を吸って、肌にぴったり張りつく。
内側の線が浮かび上がり、俺の視界の端がにわかに危険色になる。
「……」
「ん? どうかした?」
「な、なんでも」
「へぇ。——そういうの、着てるんだ」
視線が泳ぐ俺を、蓮華が眠たげな目で見つめる。
とろんとした蜂蜜色の瞳が、ガラス越しに熱を溶かす。
跳ねた水滴が俺の胸元にも触れ、制服がわずかに透けた。
その一瞬の透明に、脳の処理能力が完全にオーバーヒートする。
「……おそろいだね」
「最悪の共通点つくんな」
「かわいー」
蓮華の口角がにちゃっと上がる。
眠たげな笑顔が、ほんの少しだけ悪戯に歪んだ。
俺は反射的に胸元を押さえ、ナプキンで拭う。
けれど視界の隅では《LIFE:90》が赤と白を交互に明滅していた。
(誰だよこんなの考えた奴。……ふざけんな、ありがとう。)
視線を逸らさなきゃと思うのに、
ガラスの反射に映った赤い縁取りが消えない。
制服越しの影が、記憶に焼きつく。
意識を逸らそうとすればするほど、瞼の裏で形が浮かび上がってくる。
——そのとき、ふっと視線を感じた。
顔を上げると、蓮華がとろんとした目でこちらを見ていた。
「ぜんぶ見透かしてる」みたいな目。
俺の動揺を楽しむように、唇の端が緩む。
「……見すぎ❤︎」
囁きが甘く、息ごと耳に入り込む。
体温が跳ね、全身の血が熱を持つ。
《LIFE:90 → ……点滅強》
《REASON:残りわずか》
けれど蓮華は、追い詰めるような笑い方はしない。
ゆっくり指先で自分の髪をくるくる弄び、わざと視線を外す。
ほんの数秒だけ意地悪を見せて、すぐに何事もなかったようにフラペチーノを啜った。
その無防備さが逆に危険すぎて、俺は息を整えることすらできない。
——多分、からかわれただけ。
でも、透けた布と彼女の声が残像みたいに焼きついて、胸の鼓動は戻らなかった。
◆
モールを出ると、外気はまだ蒸し暑かった。
街路樹の青葉の匂いが濃く、夕方特有の湿気を含んでいる。
背後に気配を感じて振り返ると、人混みの奥で茶色の髪と黒紫のツインテールが揺れた。
——澪と、雛?
気のせいかもしれない。
でも、胸の奥がざわついた。
《LIFE:90 → ……収束》
寿命は減っていない。
けれど、数字よりもずっと心臓がうるさい。
「……速水?」
「いや、なんでもない」
「ふふ。やっぱウチの甘やかし、効いてる」
「効きすぎて寿命が削れるんだよ」
「減らないよ。……それとも、そんなに興奮したの? かわいー」
蓮華の声はとろけていた。
初夏の湿度も、夕暮れの喧噪も、全部その声に呑まれていく。
横断歩道の前で立ち止まったとき、彼女がふと思い出したように言った。
「——あ、そうだ。さっき写真撮ろうと思ったけど、やめちゃった」
「……やめた?」
「速水、撮られるの嫌かなって思って」
眠たげな笑みの奥、ほんの少しだけ真剣な光。
からかいでも甘やかしでもない、素の声だった。
けれど次の瞬間、彼女はまた笑みを取り戻す。
「でも……忘れちゃったし。今度、もう一回やろ?」
にちゃっと笑う口元は、甘やかしのようで、ほんの少しだけ毒を含んでいた。
「……勘弁してくれ」
俺は視線を逸らし、信号の青を待つふりをする。
その場では流れた。
けれど胸の奥には、フラペチーノの冷たさよりずっと熱い残像が残っていた。
(……待てよ。あの時ずっと、ストロー越しに間接キスしてたんじゃ? しかも公衆の面前で)
頭を抱えながら帰路につく。
その夜、SNSを開くと《#フラペチャレンジ》がトレンド入りしていた。
健全そうなタグの裏で、コメント欄には
《#乳圧チャレンジ》《#理性が死ぬやつ》の文字が躍っていた。
俺はスマホを閉じ、心の中で全力で悪態をつく。
——ありがとう世界。
俺の寿命は、今日もギリギリだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます