第二章 偽恋の残滓

第6話「保健室の重力」

 朝から頭が重い。

 昨日の事故――あの“キス”の余韻が、体の芯にまだ残っている。

 幼馴染をあんな顔にさせてしまって、感情がぐちゃぐちゃになる。


 普段はガサツで態度が悪くて、部屋は汚いし、おまけに図々しい。

 顔は可愛いのに、それを鼻にかけずに努力してる。

 俺を“バカ迅”って呼びながら、結局いつも助けてくれる。

 お年寄りには優しいし、性格で相手を見る部分もある。

 ――あれ? もしかして俺、けっこうアイツのこと好きなんじゃ。


 机に突っ伏す俺を見かねて、担任が呆れ声で言った。


「速水、顔色悪いぞ。……保健室、行け」

「……はい」


 フラつきながら廊下を歩く。

 視界の端で《LIFE:90》が脈を打ち、じわじわと赤みを帯びていく。

 そして、やっぱり胸が重い。肩にダンベルでも背負ってるようだ。

 昨日から、心臓が“近すぎる”。俺の寿命は、思った以上に軽い。


 十年あれば何ができる? 家庭を築くことだって出来るはずだし、ラノベや漫画でも大体は完結するだろう。

 いや、そもそも本当に十年減ったのか。

 考えてたら、頭が痛くなってきた。……いや、ほんとに痛い。


 ガラリと保健室の扉を開けると――


 窓から差し込む午後の光に、七瀬蓮華の髪がふわりと透けていた。


 月光を溶かしたようなプラチナアッシュの長髪は、ゆるく寝ぐせが残っている。

 毛先だけアッシュブラウンの黒みが差し、整っているのに「今起きました」感が妙に色っぽい。

 制服のブラウスはきちんと着ているのに、それが逆にボディラインを際立たせる。

 ネイルは淡いピンク。ギャルっぽいのに派手じゃなく、“柔らかさ”が先に来る。

 長い脚は机に投げ出され、スカートの裾が危うい。膝の上に生まれた空白が、視線を吸い寄せた。


 瞳はとろける蜂蜜色。

 眠たげなまぶたの奥で、じんわり熱を帯びている。

 気だるげなのに、覗き込まれた瞬間、男としての防御力が全部剥がされるような――そんな重力を持っていた。


 ……清楚とエロさが同居してるなんて、この世に存在していいのか。

 この世の真理かもしれない。男のままだったら、間違いなく崩壊してた自信がある。


「……ん。おはよ。調子悪いの?」

「いろんな意味で、調子が悪くなってきたかも」


 声もゆるい。けれど「甘えな。……よしよし」なんて囁かれたら最後。

 脳がスリープモードに入る。思考がふわっと遠のく。


「七瀬……蓮華さん、だよな? なんで保健室に?」

「んー、当たり。理由は保健委員だから? ほら、ベッド空いてる。寝なよ」


 促されるまま腰を下ろすと、ふわりと毛布が掛けられた。

 次の瞬間――


「……よしよし」


 俺の頭が、彼女の胸に抱き寄せられていた。


「はぁぁ!?」

「うるさい。……大丈夫、大丈夫。熱っぽいし、ウチに甘えてていいよ」


 柔らかさと温度が、後頭部からじわじわ染み込んでくる。

 逃げようにも、耳元で囁かれる声がとろけるほど甘い。

 秘湯の温泉を貸切で浮かんでいるような――そんな感覚が支配する。


「ね。……女の子なのに、こういうの好きなの? 上から窒息してみる? 気持ちいよ?」

「ち、違っ……! 寿命減るからやめろ!」

「減らないよ。……だから、乗せちゃうね。えいっ」


 ――ぞくり。


 その瞬間、《LIFE:90》がかすかに点滅した。

 削られてはいない。だが、あと一歩で落ちる感覚が背筋を走る。


 ホットアイマスクのようにじんわり温かく、冷えピタみたいにひんやりもして。

 脳が処理を放棄した。

 そうか、これが桃源郷か。理性が仕事を辞めるわけだ。


「あぁ。幸せすぎる。しばらく、こうして貰えないでしょうか?」

「ウチのにハマっちゃったのかな〜? 鼻の下伸ばしてそんなにいいのかな。鼻血出てるよ、拭いてあげるね」


 蓮華の腕に力がこもる。胸の弾力に押されて息が詰まり、また鼻血が垂れそうになる。

 慌てて顔を逸らす。


「……天国かよ。いや地獄か……!」

「ふふ。……じゃあ、天獄ってことで」

「天獄ROCKってバンドが最近流行ってるからって、うまいこと言わなくていい!」


 眠たげな笑みを浮かべながら、蓮華は指先で俺の髪を梳いた。

 甘やかす声と仕草に、視界の端でUIが不気味に明滅する。


《LIFE:90 → ……警告》


「ここって静かで落ち着くよね」

「人の顔に胸乗せて頭撫でてる人の台詞とは思えないんだが」

「正論ウケる」


 ただの休養のはずなのに、俺は保健室の重力から抜け出せなくなっていた。

 正直、抜け出したくもない。

 その後も、女の子の胸に顔を埋めながら話すという稀有な体験――もとい“天獄”を味わいながら雑談を続けた。


 ダウナーギャルと話すのは初めてだったが、思いのほか彼女は聞き上手で会話が弾む。

 ……ただ、どう考えてもこの体勢は女子同士でやるものじゃない。

 男女だったら、いや、言うまでもない。


「実はさ。帰りに、新作のフラペチーノ飲もうって思ってるんだけど。一緒に行く?」

「え、行く」


 ギャルの誘いに二つ返事。カムバック理性。帰ってこい。


「よかったぁ♡ありがとう。あのね、最近SNSで流行ってるんだ。“ストロー二本でこうやって一緒に飲む”やつ。フラペチャレンジって言うんだけどさ」


 ――知ってる。

 女子高生同士が抱き合って胸でフラペチーノを挟み、顔寄せて飲むやつ。

 初見は「そんなわけねーだろ」と笑ったが、本当に流行っている。

 大人のインフルエンサーまで真似して、バズってた。

 ……野郎二人でやって途中で「無理」って真顔になる動画も見た。


「いいよね?」


 ――近い。昨日の事故が脳裏をよぎる。


《LIFE:90 → ……点滅》


 間接は減らない。はず。

 けれど蓮華はルールなんて知らない。ただ、無邪気に笑う。


「……嫌?」

「っ……」


 同じ悲劇を繰り返してはいけない。理性は止めろと言う。

 でも、喉から出た言葉は——


「……はい(二つ返事)」


 ストロー越しに、呼吸の温度が混ざった。

 ——俺の理性、南無。

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