第5話「偽りなのに、苦しい」
フードコートの窓際席。
昼の人波が引き、エスプレッソの香りと油の匂いが薄く混ざる。天井の白いファンが低く回り、床に落ちた陽がテーブルの脚で四角く切り取られていた。
ガラスの向こうでは、キッズスペースの笑い声。世界は、何事もなかった顔で回っている。
目の前で、澪のパフェが過積載だった。ホイップ、苺、角切りゼリー、追いソース。甘い雪崩が今にも起きそうだ。
「はい、迅ちゃん。あーん」
「いや、そのスプーンは間接キスだろ」
「なるけど判定は出ないと思う。だから……“練習しよ。私で”」
「練習の概念やめろ。寿命ゲージの方が心臓より先に逝く」
「えー。私は迅で、たくさん練習したいな❤︎」
澪はスプーンをくるりと回し、いたずらっぽく口を少し開ける。ガラスに映った俺の顔は、見慣れない女の子で、見慣れた情けない表情をしていた。
「……ほら。食べさせて?」
「わかった。一口だけな」
スプーンで苺をすくい、唇に運ぶ。薄桃に、苺の赤が重なる。胸の奥で何かがスッと引き伸ばされる感覚がして、視界の端では《LIFE:100》がうっすら呼吸していた。減らない。ホッとしたはずなのに、胸の内側だけ落ち着かない。
(本当に、俺のこと——)
考えを途中で切る。危険だ。甘さの先に、落とし穴がある。
「ん。おいしい。……迅ちゃんの“優しいとこ”の味がする」
「味覚の新境地やめろ」
「実際に、味見してみたいなぁ〜。食べちゃって、いい?」
「ダメだろ、お前。他の男にそんなん言ったら本気にするぞ」
「ごめんね。心配してくれて優しいね」
「実際」のところでスプーンが一瞬止まる。なんでもない冗談みたいに言うから困る。俺はわざと咳払いして、紙袋(下着×3セット)の持ち手を握り直した。命より重い買い物袋。オーバーじゃない。
「今日はありがとな。色々……助かった」
「ううん。私の方こそ、めちゃくちゃ楽しかった」
窓の外はオレンジが強くなって、モールの廊下は帰宅ラッシュ前の弛緩をまとっている。観葉植物の影が長い。
外を二人で歩くと、改めて女であることを感じさせられる。妙に胸の辺りで重心が高い。
「駅まで——」
言い切る前に、路面から上がるエンジン音が耳を刺した。横断歩道の脇、バランスを崩した原付がフラつきながら角を切る。
「澪、下がれ!」
考えるより先に身体が動いた。肩を掴み、壁際に引き寄せ、そのまま庇うように押し込む。重心が潰れて、顔が——ぶつかった。
柔らかい。電気。喉の奥で音が途切れ、皮膚の内側から冷水が走る。世界が、半コマ落ちる。
《LIFE:100 → 90》——赤い点滅。ピコン。
冗談でも演出でもなく、本当に減る音だった。十年。数字で言えばそれだけのことなのに、胸の内側で別の何かがもっと大きく崩れる。
「っ……!」
澪の目が丸くなり、次の瞬間、熱で満ちる。震える唇が形を結ぶまでに、もどかしいほど時間がかかった。
「……い、今、キス、した……?」
「事故だ。完全に事故だ。お前が無事なら、それでいい」
自分の声が、別人みたいに乾いていた。遅れて、いたずらっぽい彼女の色はもう戻っていないことに気づく。澪の指が、俺の制服の裾をそっとつまんだ。
「……ごめ、ん。わたし……違うのに。偽物のくせに……胸が、苦しい」
「泣くな。お前が悪いわけじゃない」
言葉にして初めて、気づく。寿命が減った恐怖より、澪が泣くことの方が、よほど怖い。心臓より先に、背骨の真ん中がギシギシ鳴る。
原付の男は必死に謝り、係員に捕まって連れていかれた。人の流れが慎重に俺たちを避けて通る。世界は、ふたたび何事もなかった顔を取り戻していた。
深呼吸。一度じゃ足りない。二度、三度。澪は袖で涙を拭いて、笑おうとしてうまく笑えない口元を作る。
「……ねえ、迅。私、冗談じゃないよ」
「知ってる」
「でもね、わかんないの。——“本物”かどうか。今までの好きって気持ちが、偽物の上に建ってるのか、ちゃんと地面があるのか。考えるほど、ぐちゃぐちゃになる」
澪は少し背伸びして、もう一度近づこうとした。俺はそっと額に手を置き、距離を止める。
「ダメ。今日は、ここまで。二回目は……たぶん、もっと減る」
「……うん」
短い沈黙。信号が青になり、夕風が冷たさを増す。モールの自動ドアが開く音が均等に並び、子どもの笑い声が遠ざかる。
「一緒に帰ろっか?」
いつもの澪の声色。でも、掠れている。
迷って、首を横に振る。
「……大丈夫。今日は、一人で帰る。頭、冷やしたい」
「そっか。——えらいね、迅くん。ちゃんと止まれるの、えらい。……カッコいいよ」
“くん”付けが、初めて少し痛かった。澪は無理に笑って、紙袋を俺に押し返す。
「また連絡する。……バイバイ」
「おう。気をつけろ」
澪は振り返らない。結んだ髪が風で揺れて、街の色に呑まれていく。残された俺の視界では、《LIFE:90》が静かに脈を刻む。ついさっきまでより、近い。数値は“そこにいる”。
顔を上げる。街路樹の影に、細いシルエット。黒紫の髪が風に揺れた——気がした。気のせいかもしれない。でも、もう逃げられないだけはわかった。
声にならない独白が、喉の奥の熱だけ残して消える。夜風が、今日買ったラベンダー色の袋を軽く揺らした。
◇
家路についたら、家は相変わらず静かで、冷蔵庫のモーター音だけが生活音のふりをしていた。シャワーを浴びても、胸の内側のざわめきは落ちない。鏡には、濡れた黒髪の女の顔——“俺”。タオルで水滴を拭うやわらかい動きに、まだ慣れない。
スマホの画面には、《LIFE:90》の残像がないのに、視界の端に数値が残っている気がする。あの赤点滅の残像。十年を削った事実と、十年より重い痛み。
(……澪に、連絡)
入力欄は開いているのに、言葉が着地しない。謝るのは違う。ありがとう、も違う。ごめんと、ありがとうの間にある言葉が欲しい。
結局、何も打たずに画面を伏せた。天井の影が長く伸び、心拍がやっと落ち着く頃、眠気は来ないまま夜が深くなる。
◇
——過ぎ去る背中を、追いかけられなかった。抱きしめたかったのに。
風の中で息を吸うたび、胸が痛んだ。鼓動じゃない。気持ちのほうが軋んでる。スニーカーの踵がコツコツ鳴って、街灯の下で影が揺れる。
“偽物”なのに。“本当”じゃないのに。
どうして、こんなに苦しくなるんだろう。どうして、迅ちゃんが誰かに取られる未来を想像するだけで、涙が出るんだろう。笑って「冗談だよ」って言い切れば、楽になれるはずなのに。今日は、笑えなかった。冗談にしたくなかった。
——だって、もう私の中では“本物”になってしまっているから。
唇に残る一瞬の熱が、時間の測り方を狂わせる。あれは事故。わかってる。わかってるのに、頬がまだ熱い。目の奥がじんわり痛い。
(私、ずるいな)
迅ちゃんの“えらい”ところ、いっぱい知ってる。止まれる。冗談で誤魔化さない。困ってる人を見ると身体が先に動く。今日みたいに。
そんな人を好きになるのは、きっと簡単だ。でも、“私の好き”は、どこから本物で、どこまでが——“正解の言動”なんだろう。
気づけば、可愛いの言い方、視線の送り方、触れる時の角度まで“最短ルート”を選んでしまう癖がついていた。笑えば上手くいく、甘えれば近づける、泣けば抱きしめてもらえる。知ってる。覚えてしまった作法。
(違うのに。——今日のは、違うのに)
信号待ちで立ち止まる。スマホの画面に自撮り用カメラが映すのは、目尻の赤い女の子。私だ。偽物じゃない。少なくとも、泣きかたは練習じゃない。
(……ごめんね、迅ちゃん。今は、ちょっと遠回りする)
まっすぐ行けば、きっと最短で近づける。でも、最短ばかり選んだせいで見えなくなるものがある。今日、痛いくらいわかった。私は、私の言葉で“好き”を言えるようになりたい。誰の台本でもなく、私の声で。
夜風が髪を揺らし、電線の上で雨上がりの水滴がひとつだけ光った。胸の真ん中に手を当てて、ゆっくりと息を吐く。
(明日、ちゃんと話そう。笑って。冗談じゃなくて)
それだけ決めて、私は家路を歩いた。足取りはまだ心細いけれど、さっきまでより少しだけ、地面が固い気がした。
◇
薄い朝。眠っていないのに、目だけが冴える。鏡の前で制服のスカートを整え、昨日買ったラベンダー色のスポブラのストラップを指で確かめる。肩にのる重さが、昨日までより少しだけ優しかった。
玄関を出る前、スマホだけ取り上げて短く打つ。
送信。既読はつかない。それでいい。澪に、ゆっくり息を整えてほしい。俺も、整える。
校門へ向かう通学路は、朝の匂い。パン屋の甘い湯気、濡れた土、洗剤の残り香。世界は今日も、何事もなかった顔をしている。
昇降口で上履きに履き替え、階段を上がる。視界の隅で《LIFE:90》が白く沈黙している。赤点滅はない。ただの数字。けれど、確かにある。
深呼吸。一歩、前へ。
教室の朝の光が、薄いカーテンの向こうで柔らかく割れていた。ここから先は、たぶん“減らない”。それだけで今は充分だと思えた。
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