第3話「頼れるのは幼馴染だけ」
——白い数字は、まだ呼吸していた。
澪の寝息が消えたあとも、毛布の端にぬくもりが残っている。
《LIFE:100》は白のまま。減らなかった——それだけで、ほんの少し世界が優しく見えた。
天井の木目をぼんやり見つめる。
昨夜の記憶が、体温ごとじわじわと蘇る。
澪の肩の重み。笑い声。眠る直前に聞こえた
「怖くないよ」
何も起きなかったけど、それが逆に怖いくらいに現実的だった。
「……夢、じゃねぇんだよな」
ため息を混ぜながら起き上がる。
鏡の前、相変わらず“清純派美少女”な俺が映っていた。
肩までの黒髪は光を弾き、胸は変わらず重い。
もう見慣れたはずの身体に、まだ実感はない。
——慣れとは、本当に恐ろしい。
「ノーブラで生きる覚悟……いや、無理だな」
苦笑しながら呟く。
家は静かすぎる。親父は単身赴任。
助けを求められる相手は、たったひとりしかいない。
「澪、しかいねぇ……」
◇
インターホン。ドタドタッ。
玄関が開いた瞬間、茶髪をざっくり一つ結びにした幼馴染が顔を出した。
「おはよ、迅ちゃん! 昨日ちゃんと寝られた? ……って、また可愛くなってない!? ぎゅってしていい!?」
「開口一番それやめろ! あと落ち着け!」
パーカーにショートパンツ。寝癖、少し。
でも笑うと華が出る、“可愛いのにズボラ”の化身。
袖をつかまれ、そのまま当然のように部屋へ引きずり込まれた。
柔軟剤とシャンプーの匂い。
床に転がる漫画とプリント、生活感。
でも今日の空気だけは少し違う。
昨夜の“温もり”がまだ残っていた。
「ね、怖くなかった? ニュースで下着泥棒、まだ捕まってないって」
「怖いっていうか……寝返り打ったらお前の顔が近くて心臓止まるかと思った」
「えへへ。安全第一で密着仕様♡」
「防犯と密着はイコールじゃねぇ!」
ツッコミで誤魔化す。
けど本当は、澪のその明るさで救われたのも事実だった。
——あの夜、《LIFE:100》が白のままだったのは、きっと彼女のおかげだ。
◇
「で、今日はどうする? 昨日の“装備”まだ揃ってないでしょ?」
「装備って言うな。……けど、確かにブラ一枚じゃ死ぬ」
「でしょ。サイズ計ろ。上からでいい?」
「お前、女子力高すぎる……」
「女子だから(どやっ)」
澪はメジャーを取り出し、真剣な顔で俺の前に座る。
距離が近い。呼吸が一拍ズレる。
メジャーがTシャツ越しに胸元を回る瞬間——
《LIFE:100》が、淡く赤く瞬いた。
(……今、光った?)
息が詰まる。けど澪は気づかない。
錯覚だ。たぶん。
「ふむ、アンダーは……トップとの差は……おぉ」
「“おぉ”って何だよ!」
「“可愛いと便利は両立する”ってこと」
「名言風に言うな!」
澪はノートに数字を書き、スマホでブランドサイトを開く。
メモを取る指が止まらない。
「初心者はスポブラかノンワイヤーが無難。痛くなりにくいし、綿素材が最強。黒レースは後回し」
「その“後回し”を嬉しそうに言うな!」
「白Tなら“薄いグレー”が透けない。ベージュは万能。ラベンダーは清楚見え。……うん、迅ちゃんっぽい」
「俺っぽいって何だ!」
澪の笑い声。
昨日の“守る笑顔”とは違う、柔らかい日常の音だった。
そして、《LIFE》はまた白に戻る。
◇
「——じゃ、出かけよ。モール行こ。午前中なら空いてる」
「作戦名、“装備調達”」
「“迅ちゃんの命ゲージを守る会”」
「会を作るな!」
◇
外に出ると、向かいの家のおばさんが手を振った。
「迅ちゃん達、今日も可愛いわねぇ。澪ちゃん、守ってあげてね」
「任せてくださーい!」
世界は最初から俺を“女子”として扱う。
俺だけが“昨日”を知っている。
でも、澪の横顔がそれを薄めてくれた。
「トップスは首元が詰まってる方が安心。かがむと危険」
「危険って言うな。……でも分かった」
「鞄はリュック推奨。肩痛くなるから」
「なんで生活総合アドバイザー目線なんだよ」
「女子だから(以下略)」
「もうそれ禁止にしよ」
軽口の応酬。
笑いながら、昨日までの不安が少しずつ溶けていく。
◇
モールのエスカレーターを上がると、“ランジェリー”の柔らかい照明が迎えた。
入口に立った瞬間、足がすくむ。
「……ここが、戦場か」
「安心して。今日は一緒に見るだけ。……ついでに私も試着したいから、お揃いにしよ?」
「お揃いっ!? どこまで攻める気だお前!」
「命を守るには連携が大事なんだよ♪」
袖を引かれる。指先が触れる。
その瞬間、視界の端で《LIFE:100》がふっと明滅した。
「透けにくいのはグレー、ベージュ、ラベンダー。
……ラベンダーが、迅ちゃんには一番似合うと思う」
「……そう、かな」
「うん。昨日より今日の迅ちゃんは、ちょっとだけ柔らかい顔してる」
澪の言葉が、喉の奥で甘く引っかかる。
「……やめろ。照れる」
「照れる迅ちゃん、好き」
「言葉選べや!」
言いながらも、笑ってしまう。
その瞬間、《LIFE:100》がかすかに光を増した。
◇
カフェの小さな丸テーブル。
メニューを開くフリで、俺は深呼吸をする。
ガラス越しに見える店内には、色とりどりの“日常の武具”が並んでいた。
「……俺、ほんとに買うんだな。まだ実感が持てない」
「実感なんて後からでいいよ。大事なのは痛くならないこと」
「……ありがとな、澪」
視線を落とすと、澪の指先がテーブルの下でそっと俺の手に触れた。
その瞬間、視界の端がかすかに光る。
《LIFE:100 → 100》
——ピコン。
減らない。けど確かに反応した。
白の中に、微かな脈動。
「……今、光ったな」
「蛍光灯?」
「違う……いや、なんでもない」
澪はストローを噛みながら、照れたように目を逸らす。
「迅ちゃんが“大丈夫”って顔するまで、隣にいるから」
「全部はやめろ。……半分で」
「七割で」
「強欲か」
「女子だから(以下略)」
「もはや呪文だな、それ」
くだらない会話が、昨日の夜よりも少しだけ優しかった。
◇
カラン、とドアチャイム。
俺と澪は顔を見合わせ、同時に立ち上がる。
「行くか」
「楽しみだね❤︎」
袖を引かれる。
手は繋がない。でも、昨日より半歩近い。
次に待っているのが、ただの“買い物”か、それとも——判定か。
分からない。
けれど隣に澪がいる。それだけで前に進めた。
《LIFE:100》——白。
けれどその奥、遠くのどこかで、微かな赤が脈打っていた。
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