第3話「頼れるのは幼馴染だけ」

 ——白い数字は、まだ呼吸していた。

 澪の寝息が消えたあとも、毛布の端にぬくもりが残っている。

 《LIFE:100》は白のまま。減らなかった——それだけで、ほんの少し世界が優しく見えた。


 天井の木目をぼんやり見つめる。

 昨夜の記憶が、体温ごとじわじわと蘇る。

 澪の肩の重み。笑い声。眠る直前に聞こえた


「怖くないよ」


 何も起きなかったけど、それが逆に怖いくらいに現実的だった。


「……夢、じゃねぇんだよな」


 ため息を混ぜながら起き上がる。

 鏡の前、相変わらず“清純派美少女”な俺が映っていた。

 肩までの黒髪は光を弾き、胸は変わらず重い。

 もう見慣れたはずの身体に、まだ実感はない。


 ——慣れとは、本当に恐ろしい。


「ノーブラで生きる覚悟……いや、無理だな」


 苦笑しながら呟く。

 家は静かすぎる。親父は単身赴任。

 助けを求められる相手は、たったひとりしかいない。


「澪、しかいねぇ……」



 インターホン。ドタドタッ。

 玄関が開いた瞬間、茶髪をざっくり一つ結びにした幼馴染が顔を出した。


「おはよ、迅ちゃん! 昨日ちゃんと寝られた? ……って、また可愛くなってない!? ぎゅってしていい!?」

「開口一番それやめろ! あと落ち着け!」


 パーカーにショートパンツ。寝癖、少し。

 でも笑うと華が出る、“可愛いのにズボラ”の化身。

 袖をつかまれ、そのまま当然のように部屋へ引きずり込まれた。


 柔軟剤とシャンプーの匂い。

 床に転がる漫画とプリント、生活感。

 でも今日の空気だけは少し違う。

 昨夜の“温もり”がまだ残っていた。


「ね、怖くなかった? ニュースで下着泥棒、まだ捕まってないって」

「怖いっていうか……寝返り打ったらお前の顔が近くて心臓止まるかと思った」

「えへへ。安全第一で密着仕様♡」

「防犯と密着はイコールじゃねぇ!」


 ツッコミで誤魔化す。

 けど本当は、澪のその明るさで救われたのも事実だった。

 ——あの夜、《LIFE:100》が白のままだったのは、きっと彼女のおかげだ。



「で、今日はどうする? 昨日の“装備”まだ揃ってないでしょ?」

「装備って言うな。……けど、確かにブラ一枚じゃ死ぬ」

「でしょ。サイズ計ろ。上からでいい?」

「お前、女子力高すぎる……」

「女子だから(どやっ)」


 澪はメジャーを取り出し、真剣な顔で俺の前に座る。

 距離が近い。呼吸が一拍ズレる。

 メジャーがTシャツ越しに胸元を回る瞬間——


 《LIFE:100》が、淡く赤く瞬いた。


(……今、光った?)

 息が詰まる。けど澪は気づかない。

 錯覚だ。たぶん。


「ふむ、アンダーは……トップとの差は……おぉ」

「“おぉ”って何だよ!」

「“可愛いと便利は両立する”ってこと」

「名言風に言うな!」


 澪はノートに数字を書き、スマホでブランドサイトを開く。

 メモを取る指が止まらない。


「初心者はスポブラかノンワイヤーが無難。痛くなりにくいし、綿素材が最強。黒レースは後回し」

「その“後回し”を嬉しそうに言うな!」

「白Tなら“薄いグレー”が透けない。ベージュは万能。ラベンダーは清楚見え。……うん、迅ちゃんっぽい」

「俺っぽいって何だ!」


 澪の笑い声。

 昨日の“守る笑顔”とは違う、柔らかい日常の音だった。

 そして、《LIFE》はまた白に戻る。



「——じゃ、出かけよ。モール行こ。午前中なら空いてる」

「作戦名、“装備調達”」

「“迅ちゃんの命ゲージを守る会”」

「会を作るな!」



 外に出ると、向かいの家のおばさんが手を振った。


「迅ちゃん達、今日も可愛いわねぇ。澪ちゃん、守ってあげてね」

「任せてくださーい!」


 世界は最初から俺を“女子”として扱う。

 俺だけが“昨日”を知っている。

 でも、澪の横顔がそれを薄めてくれた。


「トップスは首元が詰まってる方が安心。かがむと危険」

「危険って言うな。……でも分かった」

「鞄はリュック推奨。肩痛くなるから」

「なんで生活総合アドバイザー目線なんだよ」

「女子だから(以下略)」

「もうそれ禁止にしよ」


 軽口の応酬。

 笑いながら、昨日までの不安が少しずつ溶けていく。



 モールのエスカレーターを上がると、“ランジェリー”の柔らかい照明が迎えた。

 入口に立った瞬間、足がすくむ。


「……ここが、戦場か」

「安心して。今日は一緒に見るだけ。……ついでに私も試着したいから、お揃いにしよ?」

「お揃いっ!? どこまで攻める気だお前!」

「命を守るには連携が大事なんだよ♪」


 袖を引かれる。指先が触れる。

 その瞬間、視界の端で《LIFE:100》がふっと明滅した。


「透けにくいのはグレー、ベージュ、ラベンダー。

 ……ラベンダーが、迅ちゃんには一番似合うと思う」

「……そう、かな」

「うん。昨日より今日の迅ちゃんは、ちょっとだけ柔らかい顔してる」


 澪の言葉が、喉の奥で甘く引っかかる。


「……やめろ。照れる」

「照れる迅ちゃん、好き」

「言葉選べや!」


 言いながらも、笑ってしまう。

 その瞬間、《LIFE:100》がかすかに光を増した。



 カフェの小さな丸テーブル。

 メニューを開くフリで、俺は深呼吸をする。

 ガラス越しに見える店内には、色とりどりの“日常の武具”が並んでいた。


「……俺、ほんとに買うんだな。まだ実感が持てない」

「実感なんて後からでいいよ。大事なのは痛くならないこと」

「……ありがとな、澪」


 視線を落とすと、澪の指先がテーブルの下でそっと俺の手に触れた。

 その瞬間、視界の端がかすかに光る。


《LIFE:100 → 100》

——ピコン。


 減らない。けど確かに反応した。

 白の中に、微かな脈動。


「……今、光ったな」

「蛍光灯?」

「違う……いや、なんでもない」


 澪はストローを噛みながら、照れたように目を逸らす。


「迅ちゃんが“大丈夫”って顔するまで、隣にいるから」

「全部はやめろ。……半分で」

「七割で」

「強欲か」

「女子だから(以下略)」

「もはや呪文だな、それ」


 くだらない会話が、昨日の夜よりも少しだけ優しかった。



 カラン、とドアチャイム。

 俺と澪は顔を見合わせ、同時に立ち上がる。


「行くか」

「楽しみだね❤︎」


 袖を引かれる。

 手は繋がない。でも、昨日より半歩近い。


 次に待っているのが、ただの“買い物”か、それとも——判定か。

 分からない。

 けれど隣に澪がいる。それだけで前に進めた。


《LIFE:100》——白。

 けれどその奥、遠くのどこかで、微かな赤が脈打っていた。

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