第2話「夜を分け合う日」
尊が消えたあとも、静寂だけが風の底に残っていた。
世界は何事もなかった顔で、また“日常”を装う。
夏の湿気が冷えて、足裏にひんやりまとわりつく。
《LIFE:100》の白い数字が、視界の端でかすかに脈打っていた。
「……夢、じゃねぇんだよな」
ため息まじりに家へ帰る。
玄関の靴箱の上に澪の忘れ物——例のスポブラ。
笑えないタイミングで、テレビのニュースが点いた。
『北丘地区で下着泥棒の被害が連続発生。犯人はまだ——』
「おい、待て。北丘ってウチの隣じゃん……!」
心臓がバクバク跳ねる。
昨日の下着が消えてたのも、まさか——いや、やめろ想像。
ニュースキャスターの真顔が妙に冷たい。
ピンポーン。
ドアを開けた瞬間、澪が飛び込んできた。
「迅ちゃん!? ニュース見た!? 下着泥棒! 怖すぎて来ちゃった!」
「即・実行力高すぎだろ!」
「だって迅ちゃん女子なんでしょ!? 一人でいたら危ないじゃん!」
「女子扱いすんな! ……いや、今は女子なんだけどさ!」
もう何が正しいのかも分からない。
とりあえずリビングの灯りをつける。
澪は手にコンビニ袋を提げていた。
「……怖くて、火つけてないと落ち着かなくてさ。ね、台所借りるね」
「ああ。……なんだよその防犯理論」
「料理中って音するでしょ。音があると、安心するんだ」
そう言って、澪は台所へ。
背中越しに、包丁の音と水の音が重なって響く。
さっきまで神様と話していたとは思えないほど、現実的な音だった。
⸻
フライパンの音。油の匂い。炊飯器の湯気。
澪がエプロン姿で、袖をまくりながら真剣な顔をしていた。
髪をゴムで束ねたうなじが、灯りを反射してやけに眩しい。
「……なんか、主婦みたいだな」
「えへへ……妻って言ったら、ちょっと怒る?」
「……そういうの、簡単に言うなよ」
ツッコミの声が小さくなる。
言葉の温度が、少しだけ現実に馴染んでいく。
炊きたてのご飯、味噌汁、卵焼き、唐揚げ。
普通の夜ごはんなのに、胸の奥が変な熱を持っていた。
「いただきまーす」
「おう、いただきます……」
箸がぶつかる音。
湯気の向こうで澪が笑っている。
《LIFE:100》が一瞬だけ光を増して——すぐ戻った。
「……なあ」
「うん?」
「今、一瞬光った気が……」
「蛍光灯じゃない?」
「蛍光灯、息してたか今……?」
澪は首を傾げて、唐揚げをひとつ口に運ぶ。
あぁもう、いい匂い。
⸻
食後、澪はキッチンの片づけを終えると、リビングの窓を閉めて回った。
テレビの音だけが静かに流れている。
『犯人は依然逃走中。女性宅の侵入が——』
俺たちは目を合わせた。
「……泊まってっていい?」
「……まぁ、こんな夜だしな」
即答した自分の声が、少しだけ低かった。
⸻
風呂。
白い湯気。
カーテンの向こうに澪の影。
シャワーの音がリズムを刻んで、まるで現実を薄めていく。
「迅ちゃんも後で入ってね。タオルそこ置いた」
「あ、ああ。ありがと」
「背中、流してあげよっか?」
「やめろォ! ルール的に死亡フラグだ!」
「るーる?」
「……なんでもない。そういう夢見ただけ」
「夢? へぇ。どんな?」
「お前を食べ……違う違う違う違う!!」
「ふふ、食べられてもいいよ?」
カーテン越しに笑う声。
お湯の匂い。
《LIFE:100》が、また一瞬だけ点滅して——白に戻る。
⸻
夜。
風呂の湯気がまだ残っていて、家の中は静かすぎた。
時計の針の音がやけにでかい。
ソファの上で、澪が毛布を抱えて丸くなっていた。
「……迅ちゃん、今日は床で寝るつもり?」
「いや、ソファの端でいい」
「狭いよ? 私もそっち行っていい?」
「へっ……いや、それは——」
「怖いの。さっきのニュース……犯人、まだ捕まってないって」
声が小さくなった。
普段みたいな軽さじゃない。
言葉の隙間に、心細さが滲んでいた。
「……わかった。こっち来い。ただし、毛布は分けるからな」
「うん。ありがと」
澪は毛布を半分引き寄せて、俺の横にそっと座った。
肩が触れる。
柔軟剤の匂いがふわりと鼻先をかすめる。
「……迅ちゃんの家、静かだね」
「うん。静かすぎて、変な音すると心臓止まる」
「じゃあ、音出していい?」
そう言って、澪が俺の袖を掴んだ。
ほんの少し、指先が震えていた。
それだけで、反射的に力が抜けた。
「……あのさ。澪」
「なに?」
「ありがとな。……なんか、救われた」
「救われたとか言われると、照れるんですけど」
「お前が来てから、変な夢見てたことまで、現実っぽく感じてきたんだよ」
「変な夢って?」
「……食われそうになった」
「……どんな意味で?」
「いやだから! そういう意味じゃなくて!」
澪がくすっと笑う。
その笑い方が、昔のままだった。
静かな時間。
窓の外の風が、カーテンをゆらす。
その揺れと一緒に、澪が小さく寄りかかってきた。
「……ん」
「おい、ちょ——」
「平気。怖くない。ただ、……ちょっと安心したくて」
重なる体温。
肩のあたりで息が混ざる。
指先が毛布の中で俺の袖を掴む。
その瞬間——
《LIFE:100 → 100》
——ピコン。
白。
数字は減らない。
けれど、確かに“反応した”。
心臓の鼓動と数字の明滅が同じリズムで鳴る。
誰も喋らないのに、世界の呼吸だけが残る。
「……ねぇ、迅ちゃん」
「ん?」
「夢とか、現実とか、難しいことは分かんないけど……」
「……」
「こうしてると、ちゃんと“ここにいる”って思えるね」
澪の声が、まぶたの裏に滲んだ。
そのまま、彼女の呼吸がゆっくり整っていく。
寝息が静かに重なり、俺の胸の奥の熱が落ち着く。
——減らない。
そのことが、やけに安心だった。
目を閉じると、尊の声が遠くで笑う。
「テンポ命だぞ〜、知らんけど」。
俺は、軽く息を吐いた。
毛布の中、手の甲がかすかに触れた気がした。
けれどもう、澪は眠っていた。
⸻
《LIFE:100》——白のまま。
⸻
夜が静かに溶けていく。
カーテンの向こう、海の方で風鈴がひとつ鳴った。
それが合図みたいに、瞼が落ちていく。
——明日になっても、この数字が白のままでありますように。
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