石が奏でる温かい音色
飯田沢うま男
第1話 重圧からの逃避
ここは、遥か昔に存在した大帝国・唐。その豊かで絢爛たる時代の、朝靄に包まれた深い森の中を、ひとりの気品に満ちた女性が静かに歩いていた。彼女の名は
だが、その美しさと寵愛ゆえに、宮廷内では常に噂と嫉妬の的であった。些細な微笑みも、柔らかな声も、誰かの陰口や誹謗の種になる。金や宝石よりも重い、その美の代償。張り詰めた空気の中で暮らす日々に、彼女の心は次第に疲弊していた。
「……せめて、この森の中だけでも、自由でいられたら──」
そう願って、宮廷を抜け出し、ただ静けさを求めて歩みを進めていたのだった。森は深く、鳥のさえずりと風にそよぐ葉音が、唯一の同伴者だった。
その時、不意に低く粗野な声が背後から響いた。
「へへっ、上玉だな!」
振り向くと、数人の野盗が木陰から現れ、にやにやといやらしい笑みを浮かべている。彼女の豪奢な衣装と白磁のような肌が、彼らの欲望を掻き立てたのだ。
楊貴妃は目を見開き、裾を掴んで一心に走り出す。追いすがる野盗たちは、すぐに追いつけそうでいて、あえて距離を保っていた。逃げ惑う彼女の恐怖を楽しんでいるかのように。
「おいおい、そんなに急ぐなよ!」
「もっと遊ぼうぜぇ!」
声が追いかけてくる。木の根が足元を脅かし、枝が髪を絡め取る。美しさを誇ったその姿は、恐怖と汗に濡れ、もはや誰も知らない表情を浮かべていた。
やがて、彼女は森の端に差し掛かり、小さな谷間のような地形に行き着く。向こう岸に飛び移れそうだ──そう思い、彼女は勇気を振り絞って跳んだ。
だが、着地に失敗した。足を滑らせ、彼女の身体は崖の下へと転がり落ちていった。
──そして、目を覚ました時。
そこには、見知らぬ空が広がっていた。騒がしさも、香の匂いもない。青々とした稲穂が風にそよぎ、遠くでカエルの声が響いている。
「ここは……どこ……?」
混乱の中、彼女の意識は再び薄れていった。
「……何処の誰だか知らないけど、そんな所で野垂れ死にされちゃ迷惑だよ。うちに来な。」
そう声をかけたのは、農作業に来ていた一人の老婆だった。顔には深い皺、背中は曲がり、だがその目は鋭く、他人を容易に信用しない気配を纏っている。
老婆は、楊貴妃の異様な風貌と物腰に訝しさを抱きながらも、見捨てることはしなかった。自宅へ連れ帰り、質素ながらも食事と休む場所を与えた。
しかし──
「ふん、あんた、男をたぶらかしていい暮らししてきた口だろ?」
老婆はそう言って楊貴妃に対し距離を置いた。美しさはここでもまた、疑いの種となったのだ。時代も、国も、すべてを越えてなお──その美しさは、祝福ではなく、十字架であり続けるのだった。
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