月の満たし方
るーしる
第1章 「乱舞のバーレスク」
隣人に壁を叩かれた音で目が覚めた。今日もよく寝れなそうだ。眠い目を擦り、家具も電気も何もかもない部屋でぼーっと沈んでみる。窓が大きいからか、外からの視線をいつも気にしている。でも、わたしはカーテンをつける程気取った女でもない。わたしの住んでいるこの部屋は、両隣の密接していて壁も薄いからまるでアパートみたいだ。でも、どちらかと言うと仮設住宅ってところかな。それはそうと、左隣に住んでいるおじいさんは優しい方で好きだけれど、右隣に住んでいる騒がしいヤツは全くと言っていいほどに好きではない。というのもわたしが寝る時間になると、薄い壁を叩きながら求愛してくるのだ。見る価値もないその踊りに、今日もそれで目が覚めてしまった。全然魅力的じゃないくせして汚く色付いちゃって、もう嫌になってしまう。わたしはいつ、この家から出られるのだろうか。そう思うたび、いい環境に住める様もっと頑張らなくてはとつくづく思う。なんてことを考えていたら、いつの間にやら朝になっていた。隣のヤツのせいでまともに睡眠もできなかった。もう仕事の時間だ。わたしの仕事は身体に纏った綺麗なドレスをヒラヒラとお客に見せて、買わせることが仕事。まぁ、手前味噌になるけどモデルみたいなものなの。そう、わたしモデルなの。ちょっとは見直したかしら。ただ弱音吐いて文句言ってるだけの女じゃないの。でも、わたしはまだ若くて魅力が足りない。だから自分の見せ方がよくわからない。そんなもんで歴の長い先輩からドンドン売れていっちゃうの。わたしもいつかは売れるように頑張りたいな。そしたらいいところにも住めるのかな。早くここから出たい…
そう、もの思いにふけているうちに今日初めての客が来た。見た目はすごく最悪なハゲおやじ。だけど、お金はたんとありそうな男だ。しょうがない、これも独り立ちするための試練だと思って働きますか。とにかくドレスの裾を動かしてアピールしてみる。早く歩いたり、止まってみたり。時にはしなやかに。客の足を止めるのに必死に自分をアピールしてみる。ん〜、でもダメだね。一瞬見てきただけで、どれだけ頑張ってもこういう客には手応えを感じない。今日も売れそうもない。あ〜あ、また違う子のが先に売れそう。しかもあの子は同期の子だ。大抵のおやじはああいう子が好きなんだよな。わたしとはぜんっぜん違う清純潔白な子。あ〜、ああいうおやじってキモいよな。人間ってのは汚れたものには目を当てないくせして、綺麗なものを汚したがるのは何故?
その欲を満たす対象がわたし達であるのもまた謎に思える。でもいいの、今日はいっぱいお客が来そうだし、あんなおやじこっちが願い下げ。わたし達を見に来る客はあのキモおやじ一人じゃない訳だし。うん、次に行こう。また次の客に向かってツーピースの真っ赤なドレスを、一生懸命にはためかせ始める。でも、やはりそう上手くはいかない。無視しないでよ。ホントひどい。さっきのハゲおやじがマシに思えてきた。はぁ、本当にわたしはいつまで客に尻尾を振っていればいいのかな?
困った人生だよ。実を言うとこの頃、少しずつ心が折れてきてる…
まだ若くて余力のあるわたしに、何故現実は厳しい試練ばかりを押し付けてくるのだろう…
まだ大して生きてもいないのに、辛いことばかりだ。なによりこの業界での嫌な噂を聞いてしまったことが、わたしの心をへし折っている最大の原因だと思う。その噂と言うのは、この職についているわたし達にとって、とてもショッキングなものだった。それは売れる見込みがない子はまだ若くて体力があるうちに、体を売る仕事に飛ばされると言うもの。皆んなはそれを「繁殖器」って呼んでいる。さっきは自分のことモデルだなんて言って見栄を張ったけど、本当のわたしの仕事は、悪徳なバーレスクで働くキャストなのだ。激しく踊って自分の美しさをアピールする。綺麗でも芽の出ない子は知らない男と若いうちにやることヤらされて捨てられてしまう。妊娠しても、お金なんて一銭も貰えやしないし。色んな噂が日々行き交う世界でわたし達は働いている。ただの噂と言っても信憑性はちゃんとある。わたしが幼い頃、売れ残りの子が忽然と姿を消したことがあった。その子はとても優しいお姉さんで、この辺りでは珍しいく瞳がブルーの綺麗な子だった。違う場所に出稼ぎに行ったなんて噂も一時期は出ていた。だが、時が経つに連れてその子の存在は皆んなから忘れられていった。それから程なくして、この店にあの子そっくりな顔をした瞳がブルーの子供が入ってきたのだ。この環境がおかしいと感じ始めたのはそれからだった。その出来事から何週間か経って、忽然と姿を消したあの子は衰弱して亡くなったと言うことを風の噂で知った。また、売れ残ると「繁殖器になる」と言う噂が回り始めたのもその頃だった。そんなこともあってか、早く売れるようにと焦ってしまうのだ。思い出せばあの頃からわたしは何かから逃げていた。物心ついた時からすでにこの小さな箱に入れられて、日々踊りを踊らされていた。わたしを産むのに体力を使った母親は産後すぐに亡くなってしまったらしく、ここで踊って売れることだけがわたしの人生のゴールだった。と言うよりも、それ以外幸せに生きるための逃げ道がなかった。これまで売れてきたキャストの子達もきっとそうだと思う。売れても利益は全てこの店に入るが、その代わりこの店から個人の客の場所へと配属してもらえる。だから、売れることが夢や目標というわけではなく、売れればこの環境から逃げられるんだと言う気持ちで皆んな必死に働いているのだ。劣悪な環境から離れられるたった一つの手法として、キャストは皆狂った様に踊っている。勿論、売れた先がどんな景色で、どんな生活だかはわからない。当たりくじかもしれないし、もしかしたら食事も取れない大外れかも知れない。ただ、売れなかった景色は人間の欲が渦巻く暗闇だと言うことだけは分かっている。だからわたし達は、必死にこの箱の中で限界まで身体を広げて踊っている。もしわたし達に人生の選択肢があるなら、もしわたし達の体格や体の色に他人の評価や序列がなかったとしたら、わたし達にとってそれほど幸せなことはないだろうと思う。だが、そんな甘い考えでずっと夢を見ているわけにはいかない。わたしは自分自身をモデルやキャストなどと華のある言い回しをしてきたが、もう気づいているはずだ。キモおやじはドレスなんて買わないし、バーレスクでは体は売らない。本来この仕事に名前は無く、そっちの世界でいう「奴隷」に等しいのだ。人間というのは人生という嫉妬の詰まった小さい水槽で、誰も頼んでいないのに競う様に泳いでいる。わたしはそれがどうしてなのか分からない。どうせ死ぬのならわたしは、その水槽をできる限り嫉妬では無く幸せで満たしてみたい。だから体を売る前に、踊りで一花咲かせて逃げ出したいと思っている。そしてわたしだけでなく、どのキャストもそういう考えでいるはずだ。だからわたし達キャストは今日も客の目を惹くために踊るのだ。他人に美しく見られる為に。自分の値打ちを上げる為に。いつの時代からか、生物というのは自分より弱い種族を弄び、自分と同じ種族を騙し合う様になった。人間というのはそれの最高峰だ。わたしが思うに人間は、神様が作り上げた世界屈指の反面教師。きっと誰かが世界を作るシミュレーションとして作り上げたのだろう。だから結局自分の欲を満たすためだけに生きている。最高にわがままな生物だ。動物は生きるため、命を守るために喧嘩が起こる。現代の人間は、自分の意見をぶつけ、認めさせるために喧嘩が起こる。動物の様にそこには命を賭けないし、動物と違って意見を言える環境にあるのだ。意見をぶつけ合うことのできる環境があることを、どれだけ幸せなのかわかっていない。まぁ、違う世界に住むわたしに「人間」なんて壮大なテーマは今どうだっていい。とにかく、今はこの環境から逃げなければいけない。そう気持ちを切り替えて次の客を待つことにした。そうしてから十分程経った後、次の客が来た。次の客は金髪の男性と地味な女性の二人組だった。両方わたしより少し下くらいの年齢だ。あれが彼氏だったらあんまりそそられない。男の方は切れ長の目で塩っぽい顔で少しチャラついている。でも、悪くはなかった。彼はいろんなキャストを観ては行ったり来たりしている。先週もこの店に来ていた。誰かハマっている子でもいるのだろうか。でも、多分それはわたしではない。こう言う客はわたしの統計上、ド派手なパフォーマンスをする子にチップを払う。金髪の男が「みさき」と 呼ぶ彼女らしき地味な女性の方は、きっとチャーミングな子を選ぶだろう。わたしは今回も売れそうにない。でも、わたしが売れなくても嫉妬なんかしない。どのキャストもこの環境から抜け出して幸せになりたいと願っているのだから。ならば、戦友の幸せを讃えるのが残されたものの使命だと思う。いや本当は、人間の悪行を耳にしたことで自分の心も悪に蝕まれてしまわない様、怯えた心を宥めているだけなのかも知れない。気づくと、また金髪の客がわたしの方に近寄って来た。そしてこっちに向かって指差している。その時は突然にしてやってきた。音もなく静かに。何と予想に反して彼はわたしを選んだのだ。わたしが待ちに待った売れる瞬間は、期待とは裏腹に数段あっさりとしていた。それだから、指名された喜びよりも驚きが勝ってしまった。わたしは昔からずっと知りたかったことがある。それはもしわたしが売れる時、わたしの価値はどのくらいなのだろうかということ。そしてもう一つは、売れた瞬間わたしは何を想うのかということ。わたしはそれをずっと知りたかった。そして来たるその時、頭に思い浮かんだのは、やはりこれだった。
「もうここにいなくていいんだ」
気がつくと、目からたくさん涙が出ていた。
わたしの人生にこんなに嬉しい事が起こるなんて想像もつかなかった。それもこんな環境で育ったからなのか。やっとこの環境から抜け出せる喜びがいっぱいに溢れた。泣きすぎて少し苦しい。高いところに行き、部屋中の空気の全部を吸う様に、天を見上げながら酸素だけを吸った。必要なもの以外何もいらない。少しの喜びと、明日を生きられる保証があれば。その瞬間からは嬉しくてとにかく泣いていた。泣き疲れて眠った。だが喜ぶのも束の間だった。急に人生の選択肢が広がった生き物というのは実に残酷だ。人生の広がりが幸せなものとは限らない。ここからのわたしの人生は激動なものへとさらに加速してゆく ー
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