第34実験:『貸し傘』
その傘を借りたのは大学の二限目のちょうど中頃で、まあ要するに講義をサボり喫茶店でプカプカ安い煙草をふかしていたわけだが、そろそろ味覚も鈍くなり、頼んだアイスコーヒーもすっかり飲み干してしまって、まだ残っていると思ってストローに口をつけると結局氷の融け水で、半端に味がついている分かえって不快さが増幅される、そういうことが二、三度あったあと、新しく何か注文しようかと思案していると今度は雨がざあざあ降り出した。雨脚は太く、その白波を直線状に固めたような雨粒が窓ガラス越しにもはっきりとみえる。私は通い慣れるうちに声かけも容易になった店員の一人を呼んだ。「傘の貸し出しってありますか」店員は微笑んで頷き、すぐさま表から一本の傘を携えてきた。それがこの傘である。
傘は見るからに高級なものだった。それは持たされた側も少しぎょっとするほどで、黒革の取っ手の先端にはたてがみの立派な金の馬がしつらえてあり、まあおそらくメッキだろうが、それでもちっとも剝がれずにつやつやした手触りを保っていて、閉じたまま傘の内側を覗いてみると、骨組みもしっかり黄金色で、傘生地の柄そのものは真黒だが、濃淡というか品質というか、そういうものが普段出くわすものと全く違って、触れてみると布というより辞書のような感触がして、傘には似合わないすました乾き方をしている。バンドには私でも知っている高級ブランドの名前がこれまた金で印字されていたが、かえって値段の想像がしやすく安心したほどだった。
勘定を済ませると、私は店員に傘を返した。店員は、どうぞお使いになってください、と言った。三年前に忘れったきり、貸し傘として置いているのだという。「でもこんな傘、こっちが置き忘れないか不安ですよ」「別にいいんですよ。忘れちゃっても。でもその傘、きちんと返してくれるお客さんがほとんどなんです。皆さんおなじくドキドキで借りてるんでしょうね」店員はまた笑った。笑える立場だから笑っているに過ぎない話だ。
私はおそるおそる店を出た。傘は雨を弾き、持ち手からかすかな振動が伝わった。粒が大きい分、地上にむかって押し込まれていく持ち手は、馬の喉のあたりが小指にあたり、妙なフィット感がある。挟まったというより収まるべきところに収まったという感じだ。黒革はすべすべして、そのわりにちゃんと引っかかりもあって、冷たすぎず、誰かの肘を掴んでいるようでもある。
これを忘れたのは誰だろうか。金持ちという発想は簡単だが、あまりに安易すぎる気もした。たとえばわざと忘れて、些細な幸福を振りまいている、そういう風に考えられないこともない。まあ金持ちの傘にしても、親切人の傘にしても、私には荷が重かった。
了
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