第3話「天衣無縫」
※この物語はフィクションである。
東京の夜は、まるで濁った酒のように重たく澱んでいた。バー「ルパン」の座談会が終わり、客たちの喧騒が遠のくと、残ったのは四人の男たちだけだった。太宰治、坂口安吾、織田作之助、そして写真家の林忠彦。誰もが酒の匂いをまとっており、誰もが何かを忘れたくて帰路につこうとはしない。
誰ともなく足が行きつけの雀荘へと向かう。大衆向けではなく、路地裏の隠れ家のような場所で、ここなら賭博の手入れの心配もない。
戦後文壇の無頼派三羽烏と呼ばれる作家たちと一緒に、林は麻雀卓へとついた。
「さあ、始めようか。負けたら地獄行きだ」と、珍しく洋装の太宰はいつもの調子で笑ったが、目にはどこか怯えがあった。麻雀は彼にとって、ただの遊びではなかった。それは人生の縮図であり、破滅への誘いだった。坂口安吾は、煙草の煙を吐きながら牌をジャラジャラと掻き回す。
「太宰、今日こそお前の財布を空にしてやるよ」と、ニヤリと笑う。
安吾の目は、まるで獲物を狙う獣のようだった。彼は計算高く、冷徹に牌を操る男だ。太宰と安吾はお互いにお互いのイカサマを警戒しているようだった。
ジャンバー姿の織田作之助は、静かに牌を手に取り、人懐っこい柔らかい笑みを浮かべた。
「夜も遅いし、東風戦で行こうか。大阪の麻雀は、早さが命や。ブー麻雀、知ってるか? 誰かの点数が倍になるか、点棒がなくなれば、その時点でゲーム終了。とにかくスピードで相手を呑むんや。早上がりじゃわいは負けへんで」
その言葉には、どこか不気味な自信が宿っていた。織田の「ブー麻雀」は、大阪の裏町で磨かれた技術だ。役は小さくとも、素早く和了って相手を圧倒する。まるで人生を急いで駆け抜ける彼自身のようだった。林忠彦は、カメラを脇に置き、牌を眺めながら呟く。
「この卓、絵になるな。賭博の証拠をカメラに収めるわけにはいかないのが惜しいな」
彼は写真家らしく、場を俯瞰で見ていた。だが、その手つきは意外に慣れており、麻雀の腕も悪くなかった。
東一局。
織田の動きは速かった。親番の織田は配牌を一瞥すると、まるで機械のように牌を切り始めた。ポン、チー、ロン。まるで呼吸するように和了った。クイタン、ドラなしの安手。だが、その速さは異様だった。「なんや、太宰、ぼーっとしとるな。牌が泣いてるで」と、織田が笑う。太宰は苦笑いを浮かべ、酒を一口飲んだ。
「織田君。そんな安い手であがってちゃ、東京じゃ勝てんぜ」
太宰の手は、いつも通り乱れていた。欲をかいて大三元を狙い、牌を溜め込むが、結局は振り込む。安吾が冷ややかに言う。
「太宰、お前の麻雀はロマンに過ぎる。現実的に打てよ」
林はシャッターを切るように笑い、「その負けっぷり、写真に収めたいね」と茶化す。
東二局。
友情の亀裂。夜が深まるにつれ、卓の空気は重くなった。織田の「ブー麻雀流早和了り」は止まらない。太宰の親番。数巡目で織田はリーチをかけ、太宰が不用意に切った白をロン。点棒が織田に流れ、太宰の顔は青鯖のように青ざめる。
「白単騎待ちのホンイツか……粋じゃねえな」と、太宰は冗談めかして言うが、声には本気の苛立ちが滲む。織田は目を細め、「麻雀はな、人生や。早う上がらんと、置いてかれるだけや」と答える。その言葉は、太宰の心に突き刺さった。彼らは友人だった。だが、この卓では、誰もが自分の人生と向き合っているようだった。安吾は牌を叩きながら言う。「織田、やりすぎだ。太宰が本気で潰れるぞ」。だが、織田は笑うだけだ。
「潰れるなら、そいつの運命や。麻雀は正直やからな」
林は静かに写真を撮るように卓を眺め、呟く。
「この瞬間、誰もが孤独だな。友情なんて、牌の前じゃ脆いもんだ」
次の東三局では安吾の親番だったが全員ノーテンで流局。点棒が動かず。
東四局(オーラス)。
林の親番。破滅の淵で最終局、太宰は追い詰められていた。点棒はほぼゼロ。織田の「ブー麻雀」は、まるで彼の人生を嘲笑うかのように速く、正確だった。太宰は最後の牌を手にし、震える声で言う。
「俺は、いつもこうだ。負けて、笑われて、それでも生きてる。なあ、織田、お前もいつか負ける日が来るよ」
織田は一瞬、目を逸らし、「せやな。けど、今はわいの番や。今夜だけは……」と答える。そして、リーチ。太宰は三暗刻をテンパイ。ダマテンで勝負をかけて牌を切る。
「ロン。リーチイッパツ。タンヤオ。ピンフ。ドラ一。マンガンや」
織田の勝利だった。卓が静まり返る中、太宰は立ち上がり、酒瓶を手に笑った。
「さすが織田君。まさしくその自然な打ち筋、天衣無縫だ。技巧無き打牌を読むことはけっしてできない。きみは麻雀の女神に愛されてるよ」
安吾は煙草を消し、「今夜はいいとこなしだな」と苦笑し、織田は静かに牌を片付ける。林はカメラを手に、「この夜、忘れられねえな」と呟く。四人の友情は、麻雀の卓で傷つき、しかしどこかで繋がっていた。破滅への道は、共に歩むものだった。
バー「ルパン」の夜は、まるで彼らの人生の縮図だった。織田の「ブー麻雀」は、速さと冷酷さで太宰を追い込んだが、それは彼らの友情を試す試練でもあった。
「ほな、太宰君。安吾君。それに林はんも。楽しかったわ。また打とな」
別れ際、織田はそう言って笑った。
そしてその「また」は永遠に来ることはなかった。
織田作之助はバー「ルパン」の夜から約二ヶ月後、その生涯を終えた。
麻雀の打ち筋と同じく、それはあまりに早い死であった。
(了)
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