『デジデリオ・ディ・モルテ』【加筆修正版】
玄道
KiLLKiSS──宏
八月二日 R市 コーポみつば202号室
キーを叩く音が、夏の喧騒にかき消される。
□□□
声にならない囁きが耳の奥で漂う。『ここに置いていくの?』俺は籠の中の野犬を放った。──夫婦喧嘩を貪る犬もいる。
□□□
中断し、圧縮バッグを掴む。中にはタオルと着替え。
シャワーの冷水が肌に刺さる。別に血の匂いもないし、汗もそれ程ではないが心地良い。
制汗剤を塗り、長袖シャツに袖を通す。
今朝淹れた紅茶を、ステンレスの水筒に注ぎながら、氷が小気味よくぶつかる音を聞く。
──出るにしても、この時期静かなのは図書館くらいか。
どちらにしても、他に行く所も無かった。R市の大型書店は、半年前に閉店している。
俺──
◆◆◆◆
午後三時 R市立図書館
閲覧室に、人影はない。
本棚の隅から、無造作に二冊の
顔を晒さずSNSもせず、他人と距離を置く自分。全て防御の為だ。
『お前、まさかそんな暴力小説と添い遂げる気か?』
──誰だったか、そう言ったのは。恐らく父だ。
視界の端に少女がいた。近隣の高校の制服に身を包んでいる。グレーのサマーセーターに、紺のプリーツスカート。髪は長く、纏めている。
同じものをよく見かける。寡聞にして、何という高校かは知らない。
煩わしい気配と、微かに悪寒がする。迂回し、閲覧室に戻る。関わりたくはなかった。
右端奥の席に着く。
彼女は、後を追うように現れ、目の前の席に着く。ワイヤレスイヤホンを付け、ハードカバー本を広げた。
──逃げ道がない。
──知るか、公共の図書館だ。どこに座ろうと彼女の勝手だ。別に殺される訳じゃない。
俺が開いたのは
知らぬ間に、文字をなぞっていた。
背後に、甘くも酸っぱいラクトンの香りを感じる。
目線を上げると、前の席が空だ。
振り向くと、彼女は小さく震えた。普通の顔立ち、薄いメイク。眼鏡はかけていない。
「すみません……つい」
「何か?」
少女の目は真剣だった。髪はよく手入れされ、蛍光灯に照らされ、輝いている。手には電子書籍リーダー。
「これ……先生のですよね?
歌手でも目指した方が良い、そんな声だった。
□□□
「せめて……シスター・アマンダだけでも」「ああ、ちゃんと召されるようにはしてやる」
スライドを引く。
暗い聖堂をマズルフラッシュが照らし、神父は沈黙する。
「嫌あああああ!!」
.40S&W弾が、その悲鳴を刈り取る。
薬莢の落ちる音が、鐘と祈りの代わりだった。
□□□
「え……さあ……」
「先生、
「何かの間違い……」
「去年の秋、『夜のシーソー』の頃、都市伝説の本を山積みにしてました」
──は?
「『KING KILLING』の時はミリタリー関係を……特にアフリカ民族紛争の」
──おいおい……二年前だぞ。
「この『射線上の聖堂』は……少しハードボイルドだったけど、あれから文体が湿っぽいだけじゃなくなって……」
──本当に高校生なのか? コスプレじゃないのか?
「『記録する者達の記録』の連載中は連続殺人とカメラや絵画の資料……全部知ってます」
──馬鹿な……。
一言も返せなかった。スマホより少し大きな端末が、
俺は、命惜しさに彼女に告白した。
「そう……です。それは、私の書いたものです」
視線を、女の子に移す。
──女子高生の表情ではない……。否、これは人間なのか?
灰色のサマーセーターが、闇を纏い始めた。
「私、
──こんな……あり得ない……。
「山下さん?」
山下由美子は、突如として普通の少女の顔に戻る。
「はい……ああっ……あたし魅加島先生と喋ってる……夢みたい……」
──悪い夢だ。
「あたし……先生の小説、デビュー作の『デルタコープス』から……ずっ、と…………うっく……ファン……なんです……うっ……ひぐっ」
──醒めろ、早く。何をぐずぐず寝ている。依頼された短編、まだ途中だろ。
山下は、俺の気も知らずに、涙声で何かを語り続ける。彼女の感情が、濁流となって俺を押し流していく。
──そんなに俺の作品を……。
気付くと、彼女の顔がぼやけて見えない。
ハンカチで頬を拭い、山下は言い放った。
「……だから先生、私の事も……書いて……そして、殺してください。跡形もなく」
──は? ああ、作中で殺される人物のモデルにしろと。
その時は"そう"だと疑わなかった。
──すまない、君について……酷いことを思っていた。
俺は、首を縦に振る。
抑えた歓声が漏れた。
他に誰もいない閲覧室で、俺は女子高生を殺すと約束した。非礼の詫びとして、新たな罪を刻むと。
俺は彼女の本心も、傷も、何も知らずにいた。
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