第2話

上下も左右も定かではない場所。自分が立っているのか座っているのか分からない場所。一秒と一時間の時間も曖昧で、寒いのか暑いのかも分からない。

その場所で、ぼんやりとした光の中で俺は浮かんでいた。

そして、次に目が覚めた時、視界には見覚えのない白い天井。

(、、、病院だろうか?)

そんなことを思いながら、起き上がる。

部屋にはは勉強机と、本棚。やけに片付いている。

机の上に置かれているノートには、『近代史、小林多喜二』という見出し。

、、、俺の名前だ。

震える手でページをめくり、目で追うように説明文を読む。

「小林多喜二は、日本を代表するプロレタリア作家である。代表作に『蟹工船』などがあり―――」

鳥の声も、風の匂いも、前世の雪深い小樽おたるとは全く違う。

(、、、ここは、どこだ?)

頭の奥に前世の記憶が鮮明によみがえる。拷問ごうもんの痛み、血の匂い、仲間の顔。

でも今、俺の目の前には、机の上のノートと、白く光る天井と、整った部屋がある。

(俺は、、、生きているのか?)

ゆっくりと部屋を見回す。

本棚には現代の小説や教科書が整然と並んでいる。

そこには俺の本もあって、、、。ページの文字をなぞるように見ていると、不意に胸の奥が熱くなった。

検閲けんえつが、、、伏せ字がなくなっていたのだ。

あれ程、伏せ字だらけで原型がほぼ分からなくなっていた本に、ちゃんと文字が印刷されていたのだ。

胸の奥に、言葉がただ純粋に届く喜びが広がる。

検閲も、伏せ字も、恐怖に怯える必要もない―――ただ文字が存在し、読む人がいる。

前世では、書くことが命懸けだった。権力の監視、仲間の危険、そして最期の瞬間まで――― 。

しかし今は違う。自由に、そして安全に、文字に触れられる。

一階に降りると、美味そうな匂いがした。温かいご飯と味噌汁、、、おはぎもあるだろうか?

台所に立っていたのは四十代くらいの女性だった。

「あら、おはよう。さっさとご飯食べちゃいなさい」

振り返った女性は、柔らかな笑みを浮かべていた。

「母さん、、、?」

それ以上、言葉が出なかった。

「何ぼーっとしてるのよ。ほら、ご飯冷えちゃうわよ」

食卓にはおにぎりと湯気の立つ味噌汁、卵焼きが並んでいる。とても美味しそうだ。

箸を持つ手が震える。

「どうしたの?顔色悪いけど、、、」

母が心配そうに顔を覗き込む。

その距離の近さが、なんだか懐かしくて苦しい。言葉を発するよりも先に、涙がこぼれた。

「、、、ありがとう。母さん」

「何それ、変な子ね」

笑いながら、母は俺の頭を軽く叩いた。

(あぁ、、、タキもふじ子も、母親だったなら、こんな母になっていただろうか?)

脳裏に映るのは、かつて愛した二人の女性達。

「泣きながら味噌汁を飲むなんて。そんなに美味しかったかしら?」

母は少し呆れながら、パン屋を営んでいる父親と一緒に店に行った。

パン屋、、、か。


学校に着くと、一人の男子生徒が声をかけてきた。

「よー、海斗!昨日のアニメ見たー?」

「アニメ、、、?」

アニメを見たかと聞かれても、俺は『なまくら刀』しか知らない。

「純平、数学の宿題終わってないだろ!」

純平と呼ばれた男子生徒は別の男子生徒に引きずられていく。

「なんだよー、学校なんて行く意味ないじゃん!」

純平はぶつぶつ文句を言いながら数学の宿題と睨み合っている。

「海斗も言ってやれよー!勉強なんかしても意味ねぇって」

「いや、勉強は必要だ」

少なくとも、俺がそうだった。

勉強すればする程、知識が増えるようになる程、自分の未来や社会を変える力になる。

「なぁ、今日のアルバイト一緒に行こーぜ」

「うん。分かった」

純平の言うアルバイトというのは、よく分からないが、家計や学費の為に子供が働くのは今も昔も変わらないんだな。

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