第10話:『ボス、過去との対峙』

署長室は、いつものようにウイスキーの匂いで満ちていた。ボスは、デスクに突っ伏したまま、グラスを手に取ろうと手を伸ばす。彼の指先は、僅かに震えていた。その震えは、アルコール中毒によるものではない。それは、彼の脳裏に焼き付いた、過去の記憶が、蘇ろうとしている震えだった。


「…ボス、お前のせいで、あいつは…!」


無線機から、かつての上司の、怒りに満ちた声が聞こえてくるかのような幻聴が聞こえる。その幻聴は、ボスの頭の中に深く突き刺さり、彼の心に溜まり始めた絶望の「澱(おり)」を、ゆっくりと膨張させていく。


「…うるせぇな。もう、終わったことだ」


ボスは、そう言ってグラスにウイスキーを注ぐ。だが、手が震えて、ウイスキーはグラスの外にこぼれ落ちていく。その光景は、まるで彼の人生のようだ。何を掴もうとしても、すべてが手から滑り落ちていく。


そのとき、署長室の扉が、乱暴に開けられた。そこに立っていたのは、ボスの過去を知る男だった。男は、ボスの顔を見るなり、嘲るように笑った。


「…おいおい、伝説の狙撃手様が、こんなところで酒に溺れているとはな。…お前のせいで、あいつは死んだんだぞ」


男の言葉に、ボスの顔から、すべての表情が消え去った。彼の瞳は、もはや濁っていない。それは、憎しみと、そして深い悲しみが混じり合った、複雑な光を宿していた。


「…何の用だ」


ボスは、静かに、しかし確固たる声で尋ねた。男は、ボスを罵倒する。彼の言葉は、ナイフのようにボスの心に突き刺さった。


「お前は、人殺しだ。お前のせいであいつは死んだ!お前は、もう二度と、銃を握る資格なんてない!」


その言葉に、ボスの身体が、再び震え始めた。それは、怒りによる震えではない。それは、彼がこれまで抱え込んできた、罪悪感という名の「呪い」による震えだった。彼は、男の言葉を否定することができなかった。男の言う通り、彼のせいで、かつての仲間は死んだのだ。


「…黙れ」


ボスは、震える声で呟く。彼の心は、過去の記憶の嵐に、激しく揺さぶられていた。


そのとき、男は、懐から一丁の拳銃を取り出した。それは、ボスの過去のライバルが愛用していた、かつての拳銃だった。男は、その銃をボスの顔に突きつける。


「…この銃は、お前が殺した男の形見だ。お前を裁くのは、俺だ」


男の言葉に、ボスの瞳に、深い絶望の色が浮かんだ。彼の脳内は、再び、あの日の光景へとフラッシュバックする。雨が降りしきる中、彼とライバルが、互いに銃を向け合っていた。そして、彼の放った一発が、ライバルの命を奪った。


その記憶が、ボスの心を、完全に打ち砕いた。彼は、抵抗することなく、ただ静かに、目を閉じた。


(…もう、いい)


彼の心は、そう呟いた。彼にとって、死は、過去という名の「呪い」から解放される、唯一の「最適解」だった。


しかし、そのとき、彼の脳内に、かすかな声が響いた。


「…逃げるのか?」


それは、彼がかつて、自分の娘を抱きしめたときに、娘が呟いた言葉だった。その言葉が、ボスの心に、まるで冷たい水を浴びせるかのように、深い衝撃を与えた。


(…俺は、まだ、生きている)


ボスは、ゆっくりと目を開ける。彼の瞳には、もはや絶望の色はなかった。それは、生きることへの、そして過去と向き合うことへの、強い意志の光だった。


ボスは、震える手で、デスクの奥に隠されていた、もう一丁の拳銃を取り出した。それは、彼が特殊部隊時代に、ライバルと肩を並べて戦っていたときに使っていた、もう一つの相棒だった。


「…お前は、俺の過去を知っている。だから、お前は俺を裁けると思っているんだろう」


ボスは、静かに、しかし確固たる声で、男に語りかけた。男は、ボスの変わりように戸惑い、一歩後ずさる。


「…違う。俺は、お前を裁くつもりはない」


ボスは、そう言って、自分の拳銃を、男の銃に向けた。


「…俺は、俺の過去と、対峙するだけだ」


ボスは、静かに、しかし確固たる決意を込めて、引き金に指をかけた。


パァン…!!


一発の銃声が、署長室に響き渡る。銃弾は、男の腕ではなく、男が持つ、ライバルの形見の拳銃を正確に撃ち抜いた。銃は、ボロボロになり、床に落ちていく。


男は、震える手で、何も残っていない掌を見つめていた。彼の武器は、彼の憎しみは、一瞬で無に帰した。


「…なぜだ…?」


男の震える声に、ボスは静かに答えた。


「お前の憎しみは、あいつの記憶を汚すだけだ。あいつは、お前のような男に、憎しみの道具として使われることを、望んでいない」


ボスの言葉に、男は愕然とした。彼は、ボスの言葉に、そしてボスの目に宿る、深い悲しみと、そして強い意志の光に、心を完全に折られた。


事件は、一発の銃声と、ボスの「過去との対峙」によって、静かに幕を閉じた。

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