第6話:『ボス、伝説の狙撃』

署長室は、アルコールの匂いで満ちていた。ボスは、デスクに突っ伏したまま、いびきをかいている。その横には、空になったウイスキーのボトルが転がっていた。


「…ボス、起きてください!」


ジョーが、焦った声でボスを揺さぶる。街の中心にある高層ビルに、凶悪犯が立てこもっているのだ。犯人は、人質を取って警察を威嚇し、交渉の余地はない。


ボスは、うっすらと目を開ける。彼の瞳は、酒に酔っているだけでなく、何年も前の、遠い記憶に囚われているかのように濁っていた。


「…うるせぇな。俺は引退したんだ」


ボスは、そう言って再びデスクに顔をうずめる。真宮とカレンも、呆れたように彼の様子を見つめていた。ボスは、かつて「伝説の狙撃手」と呼ばれた男だった。特殊部隊に所属し、数々の困難なミッションを、たった一発の銃弾で解決してきた。だが、ある事件を境に、彼は酒に溺れ、ただの「無能な署長」へと成り下がっていた。


しかし、そのとき、無線機から、衝撃的な報告が届いた。


「犯人が、人質を窓から突き落とそうとしています!」


その声を聞いた瞬間、ボスの身体が、微かに、しかし確かに震え始めた。それは、アルコール中毒による震えではない。それは、彼の脳内に深く刻み込まれた、かつての記憶が、蘇ろうとしている震えだった。


「…くそっ、この震えが…」


ボスは、震える手でウイスキーのボトルを掴もうとするが、手が滑って床に落としてしまう。その鈍い音が、署長室の静寂に響いた。


「…ボス、お願いします!あなたしか、いません!」


ジョーが、ボスの肩を掴み、真剣な眼差しで訴える。ボスは、ジョーの顔を見つめた。その瞳には、彼がかつて追い求めた、正義の光が宿っていた。


「…俺には、無理だ」


ボスは、力なく呟いた。彼の心の中には、かつての自分に対する深い絶望と、二度と銃を握りたくないという、強い拒絶があった。


しかし、そのとき、彼の視界の隅に、デスクの奥に立てかけられた、一丁のスナイパーライフルが映った。それは、彼が特殊部隊時代に愛用していた、かつての相棒だった。ライフルは、静かに、そして誇らしげに、そこに立っていた。


「…まだ、覚えてるか?」


ボスの脳内に、ライフルが語りかけてくるかのような、幻聴が聞こえる。彼の震えは、もはや恐怖や絶望によるものではなかった。それは、彼とライフルが、再び一つになろうとする、再会の震えだった。


「…馬鹿な。俺が、もう一度…」


ボスは、ゆっくりと、しかし確実な動作で、スナイパーライフルに手を伸ばした。その銃身は、彼の掌に吸い付くように馴染む。冷たい金属の感触が、彼の心に溜まっていた過去の「澱」を、すべて洗い流していく。


「…行きます」


ボスは、ただ一言、そう言って署長室を出て行った。彼の足取りは、もはや酒に酔った男のものではなく、任務へと向かう、かつての伝説の狙撃手そのものだった。


ビルの屋上。ボスは、スナイパーライフルを構え、標的を捉えた。彼の瞳は、何マイルも先の小さな目標を、完璧に捉えていた。だが、彼の指先は、まだ震えている。


「…まだ、足りねぇ」


ボスは、自身の震えを、まるで愛しい恋人のように受け入れた。彼は、震える指先を、わずか数ミリのトリガーの上に置く。


「…お前も、まだ俺を信じてくれているのか?」


彼の心の中で、ライフルに語りかける。そのとき、ビルの窓から、人質を突き落とそうとする犯人の姿が見えた。人質の顔に浮かんだ、絶望と恐怖の表情が、ボスの瞳に焼き付いた。


その瞬間、ボスの身体から、すべての震えが消え去った。彼の脳内は、まるで真っ白なキャンバスのように、完全に静止していた。彼の指先は、もはや震えていない。それは、彼とライフルと、そして人質の命とが、完璧に調和した「神の領域」だった。


「…ありがとう、相棒」


ボスは、そう言って、静かに銃を撃った。


パァァァァァァン…!!!


その銃声は、まるで雷鳴のように、街全体に響き渡った。銃弾は、何マイルもの距離を、まるで意思を持っているかのように、完璧な軌道で飛んでいく。


そして、銃弾は、犯人の銃を正確に撃ち抜いた。


ビルの窓から、犯人の銃が落ちていく。犯人は、呆然とした顔で、自らの手のひらを見つめていた。その掌には、何も残っていなかった。


事件は、一発の銃声と、ボスの「再会」によって、静かに幕を閉じた。


ジョーと真宮が屋上に駆けつけると、ボスは、静かにスナイパーライフルを片付けていた。彼の顔には、安堵と、そしてほんのわずかな、寂しさが浮かんでいた。


「…ボス、すごい…」


真宮が、感嘆の声で呟く。ボスは、真宮の言葉に何も答えず、ただ静かに、空になったウイスキーのボトルを眺めていた。


「…なあ、ジョー。お前は、銃を、人を救うために使っている。真宮は、銃を、人生の美学を語るために使っている。…だが、俺の銃は…」


ボスは、言葉を途中で切った。彼の瞳は、遠い過去を見つめている。


「…俺の銃は、ただ、過去を撃つためにあるんだ」


彼の言葉に、ジョーは何も言えなかった。ボスにとって、銃はもはや「伝説」を語る道具ではなかった。それは、彼自身の、過去という名の「呪い」を打ち砕くための、ただ一つの手段だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る