わずか1秒の微笑み
みららぐ
わずか1秒の微笑み
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、きみが僕に向かって優しい表情をしたのを、僕は見逃さなかった。
きみと出会って約5年。
こうやって関係を持つようになったのは去年の夏頃。
最初はただの「友達の友達」だった。
それが今ではこうやって2人、きみの薄暗い部屋で体を重ね合っている。
別に初めてのことじゃない。
一回目の時は、きみが「終電逃したから泊めて」なんて遠慮なく僕の家に上がり込んできたから、その日の夜から、度々こんなことを繰り返すようになってしまった。
でも僕は初めて会った時からきみのことが好きだった。
甘すぎない香水の香り、
ふわ、と風になびく綺麗な茶色い髪、
僕の名前を呼ぶ透き通ったような声、
うつ向いて笑う癖、
指先の落ち着いた色のネイルだって、全部全部好きだった。
だから、このままいっそ、きみが僕の腕の中におさまって、落ち着いていてくれたら…。
僕は何度もそう願うけれど、それは一向に叶わない。
僕にも彼女にも、お互い他に付き合っている人や好きな人がいるとかじゃない。
むしろ居ない。
だけど彼女は僕の誘いに抵抗しないわりには、行為が終わった途端に冷たくなってしまう。
確かにさっきは、優しい顔をして僕のことを見てくれていた。
それなのに。用が済んだらサヨナラ?
僕が抱きしめようとしたその腕をきみは振り払うと、さっさとスマホを開いて背中を向けてしまった。
「…スマホに依存してるの?」
「別に?」
「僕はきみのスマホになりたいな」
「…」
「…ね、こっち向いてよ」
だけど僕がそう声をかけても、きみはスマホの画面を見つめたままピクリとも動かない。
それでも僕が背後から手を伸ばすと、触れる直前にきみが言った。
「いつまでここにいる気?終わったんだからさっさと出てって」
「…」
あまりにも冷たい口調と、冷たい背中。
僕の勘違いだったのかな?
さっきまではあんなに、僕の体にしがみついて、離れなくて、確かに甘えてくれていた…はずが。普段のきみは、思わず目を疑ってしまうほどに別人みたいだ。
******
「僕の話じゃないけど聞いて」
「え?」
翌朝。
あれから彼女に言われるままにさっさと部屋を後にしてしまった僕は、出勤した会社で相談を持ち掛けていた。
「俺の…高校の時の友達にね、好きな女がいるらしくて」
「うん、」
「その子とは付き合ってないんだけど、俺の友達がいくら誘っても断ったりしないし、抵抗しないんだって」
「…?何を」
しかし、俺がそこまで話した矢先、相談を持ち掛けた相手の男がそう言って首を傾げる。
その問いに「なんとなくわかるだろ」と俺が言うと、男が「わり、お前からそんな話が出てくるとは思わなくて」とタバコ片手に笑った。
「…でさ、その最中は確かに甘えてくれるし何一つ抵抗もしないのに、終わった直後は何故か一瞬にして無関心になって、僕…あ、いやその友達に背中を向けるらしくてさ。その時の女心って言うの?何かわかる?」
僕がそう問いかけると、相談を持ち掛けたその男があっさり即答した。
「知らん」
「だよな」
…やっぱ女性に聞くべきだったか。
こいつに相談するんじゃなかったな。
僕がそう思って少し後悔していると、その男が言う。
「単純にお前の友達、その女に嫌われてんじゃね?」
「!」
男がそう言った直後、その言葉が僕の胸にグサッと勢いよく突き刺さった気がした。
「っ…そ、そうかな…。でもほら、体の関係はあるからそんなことは…無いと思うけど」
「けど本当のところはわからんだろ。嫌いだから突き放すんだって。自然だろ」
「…」
僕はその男の言葉を聞くと、やがていたたまれなくなって椅子から立ち上がる。
「?…どこ行くんだよ」
「…ちょっとトイレ」
そう言って部屋を後にしようとすると、その男が背中で俺に言った。
「もうすぐ本番、始まるぞ」
僕はその言葉が聞こえていながらも、「RANDS様」と書かれたその楽屋を後にした。
******
晴れた日のスクランブル交差点。
私はじっと彼らの巨大広告を見上げていた。
「彼ら」とは、4人組の国民的バンドグループ。
その中心にいるのは、メインボーカルを務める“AKITO”だ。
…そう。
その“AKITO”こそ、私が体の関係を持ってしまった相手である。
私はメインボーカルのAKITOのことが大好きで、少しでもお近づきになりたくて、当時まだそこまで人気がなかった頃に、彼らが定期的にライブをしているライブハウスで働いている友人に、AKITOのことを紹介して貰った。
最初は友達の友達として、なんとも微妙な距離感を保ちつつ、連絡を取り合っていたが。
それでも何とかもっと仲良くなりたくて、「終電がない」なんて嘘までついて泊めさせてもらったら…気がつけば体の関係になっていた。
私はAKITOのことがずっと好きだった。
童顔のわりにしっかりした芯のある歌声。
AKITOが書くメッセージ性のある強い歌詞、
ステージ上で大口を開けて笑う姿や、
歌いながらバンドメンバーに絡んでいく姿、
照れくさそうに話すMC…。
言い出すとキリがない。
だけどAKITOは、私と出会って一年もたたないうちにだんだん人気が上がっていって、気が付けばこのスクランブル交差点に巨大広告を掲げられるほどになってしまった。
だから、怖いんだ。
いま以上好きになったあとで、AKITOが私から離れて行ってしまうのが。
だから私は普段からAKITOに冷たくするし、甘い顔を見せたりもしない。
自分はなんて臆病なんだろう。全部わかってる。
わかってるけど、どうせAKITOは私以外にも似たような関係を持っている女性がいる。
そう思ったらどうしても寂しくて、嫌で嫌で、私だけを見ていてほしくて、いつも素直になれない。
自分の気持ちを伝えるなんてもっての外。
そんなことをしたらきっと、AKITOは私のそばにいてくれなくなる。
だから私はずっと、AKITOにだけ冷たくするんだ。
******
数週間後。
僕は再びきみの部屋にいた。
相変わらず甘すぎない香りの部屋で、鼻歌を歌う。
いつもならきみの部屋で鼻歌なんて歌わないが、最近は新曲のメロディーづくりに迷っていて、さっきから似たようなフレーズとふんふんと歌っている。
そんな僕に、彼女が足の爪にネイルを施しながら言った。
「それ新曲?いいの?呑気に私の部屋なんかで歌って」
そんなきみに、僕は持参してきたipadで新曲の歌詞をメモしながら言う。
「ここが一番落ち着いて考えられるから」
「頭おかしいんじゃないの」
「…」
そんな容赦ないきみの言葉にさすがに何か言い返そうかと思ったが、直後にその言葉を飲み込んだ。だって、僕の頭がおかしいのは多分間違ってない。
その代わりに、僕は笑って口を開く。
「知ってる。頭おかしいからバンドやってんの」
「明日だって早いんでしょ?地方でライブって公式に書いてあったけど」
「さすが。しっかりチェックしてくれてるんだね」
僕がそう言うと、きみは少し目を見開いて、かと思えばふいっと俺から顔を背けた。
「…別に。たまたま見かけただけだから」
そんなきみに、僕はipadをテーブルの上に置いて近付く。
「ね。…いいでしょ?」
そう言って背後から両腕を回したその瞬間、いつもは「いいよ」という彼女が今日は首を横に振った。
そして彼女は僕の腕を払うと、僕に向き直って言う。
「…そういうことしか考えてないの?頭の中」
思いも寄らなかった言葉を投げられるから、僕は即座に首を横に振って言った。
「そ、そんなわけじゃない!…あの、もしかして嫌だった?」
いつもは「いいよ」としか言わない彼女に僕はそう問いかけた。
今日はダメなんだろうか。
別に今日はダメな日…でもなかったはず。
もしかして…。
『嫌われてんじゃね?』
『嫌いだから突き放すんだって。自然だろ』
不意にこの前バンドメンバーの男に言われた容赦ない言葉が脳裏に浮かぶ。
…やっぱり、最初からそういうことだったんだろうか。
でも何で?確か、出会ったばかりの頃は、僕の大ファンだってあれほど…。
実際に会ってみるのと、メディア越しでしか会わない時の印象ってだいぶ違うんだろうか。
もしかして僕、がっかりされた?
別に、何も体目的で今ここにいるわけじゃない。
僕はきみにいつだって甘えられたいし、くっついていてほしい。
でも今はそれが行為中でしか叶わないから、誘った…けど。
「…」
しかし、「嫌だった?」という僕の問いかけに対して、彼女は何も答えてはくれない。黙ったまま、塗り終わったネイルを小棚に仕舞い込む。
彼女との間に流れる沈黙を破ってまで、ここで自分の気持ちを打ち明けるような勇気はない。
逆にこの場面で「僕はきみが好きだよ」なんて言える男がいたらこの目で見てみたい。
だけど彼女が流れる沈黙に深く息を吐くと、ようやく口を開いた。
「…わざわざこんなところにいなくても、AKITOくんには他にも居場所があるでしょ」
「居場所?例えば?」
「AKITOくんにはバンドメンバーもいるし、たっくさんのファンもいる。だからこんなところにいなくたって…」
きみはそう言いながら、ふと立ち上がって今度はネイルドライヤーを引き出しから取り出す。そして片足をそれに突っ込むと、電源を入れた。
その一部始終を見ながら、僕は思わず黙り込んだ。
だからって、きみは何が言いたいんだろう。
何だかきみのその言葉に彼女なりの「寂しさ」が見えた気がした僕は、少しして口を開く。
「きみは僕がここにいるのが迷惑なの?」
「…」
「でも、迷惑だとしても、僕にはきみもいるよ」
「!」
だから、きみだって僕がいるじゃない。
僕がそう言うと、目の前にいる彼女の表情が、微かにはっとしたそれに変わった気がした。
だけどその直後、すぐに我に返ったようにきみが言う。
「…何それ。新曲の歌詞?いいけどありがちな言葉じゃない?」
そんなきみの言葉に、僕はまた口を開いて言った。
「違う。新曲には使わない。これは紛れもなく僕の本音だから」
「…」
「きみには僕がいるし、僕にはきみがいる。だからいいじゃん、2人でここにいたって」
周りなんか全然、関係ないんだし。
だけど僕がそう言った途端、片足だけネイルを乾かしたきみが言った。
「あんまりそういうこと言わないで。期待する」
「…期待?」
「国民的バンドメンバーとただの一般人は、一緒にはいられないの」
「…」
「不釣り合いなんだって。何かのドラマで見た」
だから、帰って。
きみはそう言うと、今度はもう片方の足のネイルを乾かすべく、ネイルドライヤーにそれを突っ込んだ。
その言葉を聞いた瞬間、僕はこれまできみが冷たかった理由を全て頭の中で理解した。
…ああ、なるほど。そういうことか。
そういうこと、だったのか。
「きみは僕の大ファンなんじゃないの?」
そしてたまらずにそう問いかけると、ネイルを乾かしながらきみが言う。
「好きだよ。大好き」
そう言うきみの声が震えている気がして、僕はもうこの場から動けなくなった。
確かに今、きみが僕のことを好きと言った。
その言葉だけはさすがにスルー出来ない。
「っ…僕も君が好きだよ!」
僕がそう言うと、彼女は半信半疑の様子で顔を上げる。
「…立場が全然、違うのに?」
「立場だけじゃ人を愛せない」
「ふふっ…さすが、歌手は言うことが違うね」
きみはそう言うと、僕を見て優しく笑った。
【完】
わずか1秒の微笑み みららぐ @misamisa21
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