第4話:肉球を巡る死闘

 その日のオープンカフェは、いつもと少し違った。テラス席の一角に、猫のための特別スペースが設けられていたのだ。そこに置かれた小さな皿には、カフェ特製の、猫用のミルクが注がれていた。柔らかな朝陽が、その白い液体に、天使の輪のような光を宿らせている。


 その光景に、三人の巫剣は釘付けだった。


「ああ……なんという、完璧なぷにぷに……」


 児手柏包永は、猫の肉球に顔を近づけ、その感触を脳内でシミュレートしていた。彼女にとって、猫の肉球は、触覚という五感を総動員して分析すべき、宇宙の真理にも等しい存在だった。その柔らかさ、弾力、そしてわずかな温かさが、彼女の心を揺さぶる。


「いやいや、児手柏!触覚だけじゃ猫の可愛さは測れないって!」


 太鼓鐘貞宗は、児手柏の偏執的な愛猫論に異を唱えた。彼女は、猫の鳴き声、毛並みの色、そして何よりも「無邪気な瞳」こそが、猫の真の魅力だと考えていた。


 二人の間に挟まれるように座っていた千代金丸は、ただただ目の前の猫が可愛くて仕方がなかった。彼女の目は、ただ猫の愛らしい仕草を追うだけで満たされ、二人の議論など、どうでもよかった。


 児手柏の思考は、すでに猫の肉球の枠を飛び越えていた。


 「太鼓鐘貞宗。君は猫の可愛さを、見た目という浅薄な情報だけで判断している。違うだろう。猫の肉球は、その猫の個性、歴史、そして魂の在り方までもを語っている。このぷにぷにの感触は、この猫がどれだけ大切に育てられてきたか、その愛情の深さを物語っているのだよ。この肉球の柔らかさは、まるで雲を掴んでいるかのようであり、それでいて指先に残るわずかな湿り気は、このカフェの朝露を思わせる……」


 太鼓鐘の思考も、負けじと暴走する。


 「児手柏!何言ってんだ!うちの猫ちゃんの方が可愛いんだから!この子の可愛さは、理屈じゃないんだ!見て、このクリクリした瞳!この子が鳴いたら、どんな人間だって、どんな刀だって、みんなメロメロになっちゃうんだから!うちの子の可愛さの前では、お前の肉球論なんて、ただの雑談だよ!」


 二人の愛猫論争は、テーブルの上で火花を散らし始めた。


 千代金丸は、二人の言葉が全く理解できなかった。


 *(思考:猫ちゃん、可愛い……。あのヒゲ、触ってみたい。お腹すいたのかなぁ。ミルク、おいしそう。おやつ、あるのかな。猫ちゃん、おやつ……)*


 彼女の思考は、ひたすら猫と食べ物に支配されていた。


 児手柏が、猫の肉球を優しく撫でようとした瞬間、太鼓鐘がそれを手で制した。


「待て。その猫は、私が一番に可愛がると決めた。私が正しいことを証明して見せましょう」


 太鼓鐘がそう言うと、静かに刀を顕現させた。その刀身からは、一切の迷いのない、純粋な愛情が感じられる。児手柏もまた、ゆったりと刀を顕現させる。その刀は、まるで猫の毛並みのような滑らかな曲線を描き、触覚を研ぎ澄ませるかのように静かだった。


 ガキンッ!


 愛猫の哲学をかけた剣戟が始まった。


 太鼓鐘の斬撃は、一直線で、鋭く、速い。その動きは、まるで猫の遊びのように予測不能で、最短距離で児手柏を捉えようとする。


 ザンッ!


 太鼓鐘の斬撃が、カフェのテーブルを両断する。しかし、その刃が児手柏に届くことはなかった。児手柏は、ゆったりとした動きで、その斬撃を華麗にかわしていく。彼の刀は、一筆書きのように滑らかな軌道を描き、太鼓鐘の感情的な攻撃を、まるで柳に風と受け流していた。


 「ふむ、よい斬撃だ。だが、それでは猫の真の可愛さは見いだせぬぞ」


 「無駄口はいい!私は、この一撃で猫への愛を証明する!」


 二人のバトルの余波は、周囲に激しい影響を与えた。太鼓鐘の放った衝撃波で、カフェの窓ガラスが木っ端微塵に砕け散る。その破片が、朝日に照らされてダイヤモンドのようにきらめいた。児手柏が刀を振るうたびに、優雅な刃風が、周囲の客が残した新聞を舞い上がらせ、まるで紙吹雪のようだった。


 バターナイフが空を飛び、ジャム瓶が弾け飛ぶ。甘酸っぱいベリーの匂いが、刀が擦れ合う金属音と混ざり合い、奇妙なハーモニーを奏でた。千代金丸は、そんな光景を呆然と見つめていた。


 *(思考:猫ちゃん、もっと遊びたいのかな。お腹すいたのかな。ミルク、おいしそう。おやつ、あるのかな。猫ちゃん、おやつ……)*


 彼女の思考は、ひたすら猫と食べ物に支配されていた。


 バトルは最高潮に達した。


 太鼓鐘が、これまでの斬撃をすべて統合したかのような、完璧な一撃を放つ。その刀は、雷鳴のような轟音と共に、児手柏に向かって一直線に伸びていった。


 ゴオォォン!


 児手柏は、その一撃を正面から受け止める。二人の力がぶつかり合い、カフェ全体が激しく揺れ動く。その衝撃で、テーブルに置いてあった、猫用のミルクと、猫用のおやつが、ふわふわと宙を舞った。


 そして、そのミルクと、おやつが、千代金丸の目の前に落ちてきた。


 太鼓鐘と児手柏は、勝負の決着に集中していた。互いの額から汗が流れ落ち、刀を握る手に力がこもる。


 その時、千代金丸が、ふわりと舞い降りてきたミルクと、おやつを、静かに手に取った。


 そして、パクリと一口、口に運んだ。


「…あ、おいしい。猫ちゃん、ごめんね……」


 二人は、その声にハッとして動きを止める。


 千代金丸は、ミルクとおやつを完食し、二人に満面の笑みを向けた。


「…あ、ごめん。食べちゃった」


 その言葉に、児手柏と太鼓鐘は同時に、刀を地面に落とした。全ての哲学と、すべての努力が、一瞬で無に帰した。


 「今かよ!」

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