The Neighbor of Autumn
志乃亜サク
秋の横顔
夕方からの顧客との打ち合わせにはまだ早すぎたので、ぼくは客先近くで適当な喫茶店を見つけてそこで時間を潰すことにした。
1階のカウンターで買ったコーヒーを片手に階段をあがり、ぼくは通りに面した大きな窓に向かって横並びにされた椅子のひとつに座った。
あまり長居させるつもりのない、座面が小さく固い丸椅子だ。しかし空調の冷たい風が直接吹き付けるその席は、駅からの道のりで熱された身体には心地よかった。
窓の向こう、眼下に見える10月の街を、往来の人々が歩いていた。少し傾きかけた陽が濃い影を地面に落としていた。
その雑踏をぼんやりと眺めながら、ぼくはある既視感をおぼえていた。
たぶんこの店、以前に来たことがあるな———と。
まあ、そのこと自体はたいした偶然でもない。
最近はずいぶん足が遠のいたものの、学生時代には買い物やサークルの飲み会で何度も訪れている街だ。その目抜き通りにある珍しくもないチェーンの喫茶店なのだから、いつか何かしらの機会に利用していても不思議はないだろう。
ただ、それはいつのことだったのか―――。
たしかにぼくはこの店、しかもこの同じ席に座ったことがあるようだった。
店内を見回してもあまり記憶を刺激されるものはなかったけれども、窓から見下ろすこの景色、とくに街路樹の配置にはかすかな見覚えがあった。
その街路樹の一本。その下にいま、若い男女が互いのスマートフォンを見せ合いながら、それぞれ別の方向を指さしているのが見えた。
「方向、こっちで合うてる?」
「全然違う、こっちや」
「ほんまに? 逆やん」
もちろん二人の会話なんてまったく聴こえない。彼らの身振り手振りからぼくが勝手な想像でアテレコしているだけの話だ。
これと同じ遊びを、昔この窓から見える同じ景色でやっていた気がする。
ぼくはふと、隣席の背もたれのない丸椅子を見た。そこには、ぼくの鞄と上着が置かれていた。
その瞬間。
降り積もった落ち葉が風で払われて路地が露わになるように、在りし日の記憶がぼくの脳裏に甦った。
ああ、その席は、アキが座っていた席だ、と。
ぼくがふざけるたび、隣で眉を八の字にして、困ったような顔で笑っていたアキの横顔が浮かぶ。
そこは、彼女の定位置だった。
大学の同級生だったぼくらの交際が始まったのは、2年生の夏前だった。
先に言ってしまうと、ぼくとアキとが恋人同士だった時間は半年にも満たない。それでも、あの数か月間、ぼくの隣にはいつもアキがいて、静かに微笑んでいた。
互いに恋愛経験の乏しかったぼくらの交際は、まるで田舎の中学生のように純で鈍な手探りの恋愛だった。
どこかに遠慮があって、どこかに理性の線引きがあって、心根の部分でなかなか触れ合うことのできない、もどかしい恋愛だった。
冷めていたわけでは決してなかった。むしろ自分自身の将来さえまだ輪郭も見えていないというのに、ふたりは将来について幼い夢を語るほど、前のめりな熱情を持て余していたくらいだったのだ。
それでも、ぼくらの間には言いようのない距離があったような気がする。
互いを思いやればこそ、自らの灼熱に相手が焼かれないよう―――といえば聞こえは良いけれど、結局のところそれは自己愛に過ぎなかったのかもしれない。
同じ思いの強さ、深さを相手にも求め、しかしそれを確かめるため自ら最後の距離を詰める怖さを、ぼくは乗り越えることができなかった。
どこかよそいきで、きれいな言葉に取り繕われた胸の奥底の醜い部分を、ぼくは最後まで彼女に見せることができなかったのだ。
うぬぼれが許されるなら、きっとアキもそうだったのだと思う。
ぼくらが横並びの席に座ることが多かったのも、たぶん同じ理由だ。こころの置き所が、ぼくたちの配置をそのようにしたのだろう。
ふたり並んで歩き、同じものを見て笑い、ときに泣き、ときに怒り―――あの頃ぼくらはたしかに同じ方向を見ていた。ただ、いま思い返せば、お互いを見てはいなかったのかもしれない。
それはいつしか口づけを交わし、身体を重ねるようになっても変わらなかった。
シングルベッドに仰向けになって、隣で眠るアキの体温を感じながらぼくが見ていたのは―――古いアパートの煤けた天井だった。
その後、ぼくたちはよくある波乱やさしたる諍いもないまま、恋人ではなくなった。
同じサークルで若干の居心地の悪さも感じながら、やがて互いに別の恋人を見つける頃には以前より幾分か気軽に話せるようになったものの、卒業して連絡は途絶えた。
どこで間違ったのだろうか。
記憶の中に彼女の横顔が浮かぶとき、ふとそんなことを考えることがある。
もしもぼくがどこかで彼女と正面から向き合うことができていたなら、あるいは違った未来もあったのだろうか。
いや―――たった一度だけ。
一度だけ、勇気を振り絞ってアキと正面から向き合ったことがあった。
アキがぼくの部屋に泊まりにきた、ある夜のこと。
下着姿でベッドに座るアキに、ぼくは「これ……」と包みを渡したんだ。
「なに?」
「開けてみて」
不思議そうな顔で包みを開けるアキ。
「『くのいちコスプレセット』……どういうこと?」
「武士の情けだ。今夜は何も言わずそれを着てくれ、頼む」
ぼくはパンツ一丁で土下座した。
「そんな武士いないでしょ……」
呆れたようなアキの言葉が痛かった。
どこまでも正しくあろうとする彼女が、無性に悲しかった。
一体どこで―――ぼくたちはどこで間違ったのだろうか。
The Neighbor of Autumn 志乃亜サク @gophe
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