五右八郎

湯川の犬

おっさんとわたし

おっさんとわたし 一

 五右衛門ごえもんが、素槍すやりを杖に粕川かすかわべりを歩いていると、横手から何かが転げ落ちてきた。

 急勾配の山肌を転落してくる何かはすさまじい勢いで、とても避けきれたものではない。いっしょくたになって、河原へ叩きつけられた。こめかみをしたたかに打ち七転八倒する。

 横で何かも悶えている。どうやら人であったらしい。


 こめかみをさすりつつ目をやると、うめいているのは泥団子のような汚い男であった。


 落武者だ。


 懐へ飛び込んできた獲物を前にして、五右衛門は活力を取り戻した。

 よく見れば、落人の装備はなかなかによい。バラして売れば相当な値になるだろう。落人おちうど狩り冥利に尽きる。


 舌なめずりし、五右衛門は男の横っ面を蹴飛ばした。ついでに、槍の柄で小突き回してやる。


「や、やめい」


 落武者は、まばらに毛の生えた月代さかやきを、弱々しくかばった。


 相手が非力とみればかさにかかるのが五右衛門である。出しなに犬の糞を踏んづけた草鞋わらじで、男の鼻をぐりぐりやる。ざんばら髪を掴んで引きずりまわし、顔面めがけて屁も垂れてやった。


 いざトドメを。


 槍穂やりほを繰り出しかけたそのとき、落人の転がってきた山肌から、すさまじい塩辛声が駆け下りてきた。


「殿ーっ!」


 すわ、仲間がいたか。


 五右衛門は目を凝らす。援軍は一人であるが、いかにも強そうな中年武者ときた。


 泥団子男を仕留め損なった腹いせにもう一蹴りくれて昏絶させ、五右衛門は逃げだした。強者に対しては逃げ一辺倒なのもまた五右衛門である。


 しかし、中年武者の足は恐ろしく速かった。追っつかれたかと思うと、あっという間に拳骨で殴り倒され、五右衛門は地へ伏した。


 うめく五右衛門の襟首を巨大な手で捕拿ほだしつつ、中年男は、泥団子の安否を確認しに向かった。


「殿、ご無事でありましょうや!」


 泥団子は白目をいてぶっ倒れている。

 中年武者は、慌てて泥団子の首筋に指を当て、脈を確かめた。曇っていたゲジ眉がほっと緩んだ次の刹那、強盗殺人犯のような凶悪きわまりない形相で、五右衛門を大喝だいかつした。


「きさま! どなたを足蹴あしげにしたか分かっておるのか!」


 五右衛門の顔面が地に叩きつけられる。


「ぐえっ」


 おっさん武者は、鼻血の噴き出した五右衛門をひっくり返し、衣紋えもんをひっ掴んだ。泥で汚れたいかつい顔が近づくと、その荒い鼻息に、五右衛門の口髭はそよそよした。


「よう聞けよ。きさまが蹴りをくれたこのお方は、備前びぜん岡山五十七万石・宇喜多中納言うきたちゅうなごんさまにあらせられるぞ」


 宇喜多中納言│秀家ひでいえといえば、五大老として徳川家康や毛利輝元・上杉景勝・前田利長と肩を並べる大大名だ。先日、関ヶ原で起こった戦では、敗れた西軍方の主力であった。故・豊臣秀吉の猶子ゆうしにして、同じく故人・前五大老前田利家の娘婿でもある。とんでもない大物だ。


 五右衛門は乾いたヒキガエルみたいになった。


「うそ」

「嘘などぬかすか」


 おっさんの目がマジである。

 五右衛門は、首のもげる勢いで必死にかぶりを振った。


「なしなし! さっき蹴ったのなし!」

「なしになどなるか!」


 おっさんは五右衛門をもういちど地面に叩きつけて、大刀だいとうを抜いた。腰の抜けた五右衛門の喉首に、切っ先が突きつけられる。


「下郎の分際で我が殿を害するとは、覚悟あってのことであろうな」

「ないない! 覚悟なんてないってば!」

「死ね」

「きゃー!」


 逃げようともがいたが、おっさんに蹴られどつかれ、地に伏せる他ない。


 思えば、生まれたときから冴えない物作り。田を耕し泥をすすり、あげくあんな汚い泥団子男に構ったせいで、おれの人生は……などと、思い出が走馬灯云々をやっていると、川下のほうから五右衛門を呼ばう声がした。

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