空転夢幻

空御津 邃

 

 男には日記をつける習慣があった。その日の終わりに一日を振り返りつつ書き綴る、というありふれた方式。次第では、60行に及ぶこともあれば、たった1,2行ほどで終えることもあった。


そして時折、日記を読み返すのが男の密かな楽しみだった。昔のアルバムを見たり、

ビデオから当時を想起することと同じ郷愁きょうしゅう──酸いも甘いも、全てが色褪いろあせた今だからこそ、綴られたときを大切に思えた。


あの日までは────。



 いつもの朝、男は支度を済ませる。寝癖を直し、ネクタイを締め、朝食を食べる────すると寝室から、彼女であるが起きてくる。


「おはよう。あれ? 今日は休みじゃなかった?」と、け彼女が言う。


「おはよう────あれ、そうだっけ?」と、未だ夢現ゆめうつつの男。


「もう、しっかりしてよ。ちょっと疲れているんじゃない?」


「……そうかもしれない。今日の予定は無かった筈だし、着換えて少し散歩に行くかな。夕恵ゆえは?」


「私はこれから仕事だから。あ、ついでに買い物頼める? 後でメモ渡すから。」


「ああ、構わない。」


そうして彼女が家を出た後、男も私服に着換え、家を出た。



 スーパーまでの道中、河川敷で隣人の井岡いおかとすれ違う。


「あら、木崎きさきさん。おはよう。お休み?」

中年女性特有の快活な声掛けだ。


「おはようございます、井岡さん。ご無沙汰しております。実は今日、仕事だと思っていたら私の勘違いだったようでして……今は散歩がてら買い出しに。」


「なるほど、そうだったの。じゃあ、今度こそ買い忘れないようにね。」


「ええ、それでは。」


男は「少し引っ掛かる会話だ」と感じた。


井岡さんとは、久しく顔を合わせていない。それにも関わらず「今日も」と言っていた────そういえば、前回の休みはいつだったか。


「──気にしすぎか。夕恵の伝え間違いや、井岡さんの勘違いである可能性だってある。それより、セールの時間が迫っているな。ちょっと急ごう。」


男は早足でスーパーに向かった。



 スーパーに着き、目的の物を一通り買い終えた時、男はふと思い出す。


「そういえば、米とトイレットペーパーが無くなりそうだったな。買っていこう。」


そうして買い物を済ませ、帰宅した。荷物をしまい、本を読みながら昼寝をする。それから夕方頃に目を覚まし、洗濯物を取り込んで畳んでいると彼女が帰宅する。


「おかえり、早かったね。」


「ただいま。今日は早番だったから。買い物ありがとう。」


「うん……そういえば、米とトイレットペーパーが無くなりそうだったから買っておいたよ。」


「え? それは──」

彼女は何かを言いかけて、口を噤む。


「ん? どうかした?」


少しして、彼女は渋い顔をしながら口を開いた。


「ううん、私も昨日買って来ちゃったんだよね。言わなかったから……ごめん。」


「そうだったのか。いや、俺の方こそごめん。確認せず記憶頼りで、無いとばかり……。」


「大丈夫だよ。生物なまものみたいに、足が早いわけでもないしさ。次からお互い気をつけよう。」


「うん。」


その後もいつも通り。二人は同じ食卓を囲み、それぞれ寝支度を済ませて自由時間に入る。彼女は朝早かったからか、早々に眠りにつき、男は日記をつけていた。



 「今日の俺は色々と抜けていたな。自戒の念を込めて日記をつけるか。」


いつも通り筆を進め、ふと朝に言われた井岡の言葉を思い出す。


「『お休み?』──そういえば、前回の休みはいつだったか。」


男は日記を軽く読み返し──日付の誤りを見つける。


「今日と同じ日付だ。」


何も考えず直す。その拍子ひょうしで、当時の日記を読み返す。


「これもまた縁のようなものだろう。」


──いつも通りの朝。買い物を頼まれ、道中で隣人の井岡さんと──。


「──何だこれは?」


文言こそ違えど、内容としては今日と似ている──いや、ほぼ同じといって差し支えない。


「そうだ、日付。直す前の日付は──」


前後の日付を見て直したのだから、直す前の日付も容易にる──3日前だ。念の為、再三確認する。間違いない。


「──たった3日? それなのに、俺は気付かなかった……?」


何気ない日常、当たり障りのない会話と行動。異常があるとすれば、自分自身?────「いいや、余程疲れていたのならあり得るだろう?」


男は自分自身にそう言い聞かせ、抱いた鬼胎きたいを晴らすように別日の日記も読み返す。


「日付は問題ない。内容は────ああ、そんな。繰り返している────間違いない。自分の筆跡で、文言や細部こそ違えど同じ日を繰り返している。」


それに気付いた時、今開いている思い出深い日記帳が、途端とたんまわしく思える。更に疑念が増える。「先程、正しいと判断日付は、本当に正しいのか?」と──また気付く。日付は──やはり誤っていた。目を凝らすと、日付を修正した痕跡が分かる。


「では、元の日付は?」


悪魔の囁きのような疑念は、確証に変わりつつある。


フロッタージュ──筆圧で凹んだ紙を鉛筆で擦り、その凹凸の差で修正前の文字を起こす。


「全て────同じ日だ。」



 男は寝ずに朝を迎えた。寝ればまた、自分自身を喪失すると思えたからだ。そうして彼女が起き、驚いた顔でパジャマ姿の男を見る。


「今日は──」

彼女はまた、口をつぐむ。


「朝の支度はしない。今日は休み──だろう?」

男はあれ程の期間、仕事に行っていなかった。恐らくもう席は無い。


「そう……だったね。」

彼女の顔色が悪くなる。男は知っていた。


彼女は元来、嘘が下手な人種だ。だからこそ口を噤むことしか出来ない。


つまり、彼女はこの状況について知った上で黙っているのだ。しかし同時に、彼女は頑固であるから今の状態では何も話してはくれないだろう。無理に詰め寄って、喧嘩になっても嫌だ。


よって、男は自分自身について知るところから始めることにした。



 彼女が仕事に行った後、男は自分の所持品を漁った。そして、仕事場の電話番号を見つけ、固定電話から電話をかけた。


「もしもし、木崎 ですが。」


「ああ、君。高宮だ。今度は何かな。体調の方は?」

出たのは聞きなれない声。知らない名を名乗り、淡々と話しかけてくる。


「問題ありません。本題の前に申し訳ないのですが、『今度』というのはどういう意味でしょう? 以前どこかでお会いしましたか?」


「え……あぁ……。」

彼は落胆したような声を漏らし、少ししてから答えた。


「……私は君の上司だよ。君は以前にも私に電話をかけている。」

男は驚きながらも、状況を整理した。


上司の名前を忘れていたのか? いや、それだけでなく彼と話したことさえ覚えていない。本当に彼が上司だという確証はないが……少なからず、彼もまたこの状況について知っているのだろう。


「これは失礼を……申し訳ございません。私は今、記憶が混乱していまして……聞きたいことも、それについてなのです。何か知っていませんか? 例えば、病気だったり、事故だったり……。」


「──ご家族が話していないのなら、私から言えることは無い。じゃあ、切るよ。」


「ちょっと、待って──」


電話は切れた。彼の対応は手慣れていた。もう一度連絡しても、応答しないだろう。


一向に改善しない状況に男は苛立ちながらも、再度情報を整理した。


上司を名乗る高宮という男の話を鑑みるに、どういう訳か家族が裏で手を引いているようだ。道理で、彼女も黙っている訳だ。


職場まで手を回しているとなると、友人もアテにならない──いや、待てよ。一人居るじゃないか──家族でも友人でもない人が。



 男は隣人の井岡に軽く事情を話し、彼女である夕恵から情報を聞き出すようお願いした。男と井岡の仲はそれほど深くないが、大抵の人間は頼られて悪い気はしない。井岡は二つ返事で了解した。


そして後日、夕恵から聞いた情報を教えるという約束の下、男と井岡は出会う。


「それで井岡さん。どうでしたか。」


「──何にも無かったですよ。」


井岡はいつも通り、人当たりの良い笑顔で答えた。


「貴方の思い過ごしですって、良かったですね。」


かえってそれが噓くさく感じた。



 男はいきどおっていた。違和感を感じてから、今まで寝ずに居たことも理由の一つだが、最たる理由は状況が把握できず、関わる全ての人に噓を吐かれていると感じていたからだ。


そして、彼女がまた仕事から帰ってくる。男は感情のまま、彼女に詰め寄った。


「夕恵、いい加減にしてくれないか。」


男の声音は感情的に震えている。今にも爆発しそうな怒りを抑えているのが分かる。対して彼女は、精一杯の笑顔で取り繕う。


「……何の話?」


「とぼけるな!」


遂に男は声を荒らげた。


「俺の日記を見たか? 同じ内容が延々と……一体、どうなっているんだ! 何故、誰も真実を教えてくれない!」


涙目の彼女が諦めたように、細々と答える。


──。」


その眼は真実を物語っていた。


彼女の言葉を聞き、男は我に返る──教えたがのだと。


事態は男の想像を超えていた。咄嗟に彼女を慰めようとするも、既にかける言葉を失っていた。


「何度も教えた──その度に取り乱し、悲しみ、苦しみ、泣く貴方の姿を見るのが辛かった。貴方の家族も友人も、同僚だってそう。皆、貴方の為に協力してくれた。」


言葉の真意に気付きかけながら、男は現実から目を背けるように否定した。


「取り乱す? どうして俺が──」


「貴方は記憶障害を患っているの。」


男は茫然としながらも、顔には絶望が浮かんでいた。それが事実であることを実感していたからだ。彼女の堪えていた涙は、遂にこぼれ落ちる。


「徐々に全てを忘れてしまう。貴方はもう会社のことすら覚えていない。その内、友人や家族──私のことだって……。」


男は咄嗟に、彼女を安心させようと噓を吐く。


「そんなことはない……俺は上司の名前だって言える。高宮さんだろ?」


「……いいえ。」


「何?」


「それは貴方を診断した医師の名前。まだ症状が軽い時に、会社へ迷惑をかけまいと先生に了承を得て、貴方が連絡先を入れ替えたの。」


「──まさか。」


「こんな風に話したのも数回程度じゃない──もう数十回も繰り返している。」


彼女の声音が悲哀で震えている。男は自身に向けられる憐れみに対して、どう応えればいいのか分からずに居た。


「一体、どれくらい経っているんだ?」


「──3年。」


男は思わずへたり込んだ。あまりにも受け入れがたい。


3年間、同じ日を同じように延々と繰り返し、時折取り乱しては周囲を傷つける──献身的に支えてくれた彼女でさえも。


「医師は『ストレスが原因』だって言っていた。貴方はあまり話したがらないから何がストレスだったのか、私には分からないけど。」


男は気付く。ストレスの原因であろう記憶が、既に失われていることを。


「どうして……どうして、そこまでして支えてくれるんだ? 夕恵の人生だろう? 俺に構っていたら、この先──」


「それについて何度も話したよ──私の人生は、貴方と一緒に歩みたいから。」


男の目に涙が溜まる。ここまでしてくれる人に、自分は何も出来ないどころか負担をかけてしまっている──強い悔恨を抱く。


しかし既に打つ手はなく。男はただただ、無力に謝ることしか出来なかった。



 男には日記をつける習慣があった。その日の終わりに、一日を振り返りつつ書き綴るというありふれた方式だ。


そして時折、日記を読み返すのが男の密かな楽しみだった。


だから、噓を書いた──皆が男に吐いた、優しい嘘の一日を。


男の日記は、涙で滲んでいた。

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