—Y市 Jさん宅の件—
暑い。暑すぎる。
こういう時に限ってエアコンが壊れる。
私になにか怨みでもあるのか?
生き延びるために窓を全開にし、扇風機を強風にする。
脚を大きく開き、Tシャツの中に風が入るよう裾を引っ張る。ついでに扇風機にあーってする。
はしたない——?
いやいや、これが現実。男子諸君、夢を見てるんじゃないよ。
思わず低い声でうめいた時、玄関のチャイムが鳴った。
汗にまみれた体とどうにでもなれという心を引きずり、玄関のドアを開ける。
「やほ。暑いねぇ」
……Mちゃん。
「どしたの⁈」
よっぽどな見た目をしていたのか、Mちゃんが恐怖にも似た表情を浮かべている。
「エアコンが——」
壊れているんですよ。
…………。
助かった。なんていい人。Mちゃん、あなたは私の天使です。シャワーも飲み物も授けてくれました。
Mちゃん宅の床に転がり伸びながら、天国のような心地よさを全身で感じ、楽しんだ。……天国が心地いいのかは知らないけど。
「そうそう、それでさ、」
キッチンから顔を覗かせるMちゃんの声で思い出した。そういえば何か用があってうちに来たとさっきMちゃんが言っていた。意識がどこかに行きそうだったので虚ろな記憶だったが、回復した今、鮮明に思い出した。
「“お仕事”が来たんだけど、なんか変なの」
「変?」
「そう。なんかね、」
——扇風機の風に当たるとおかしくなるんだって
二日後、私とMちゃんは依頼者さんとカフェで落ち合った。
「なんだか気持ち悪くて、あまり部屋にいたくないんです」
依頼主であるJさんは、ガラガラとした掠れ声で、現場直行でない理由をそう語った。
「体調が悪くなるのではなく、“おかしくなる”んですよね?」
私の質問にJさんは、はい、と答えた。
“お仕事”の際はいつも、その現場やその物の直近の写真を見せてもらうが、たしかに、その扇風機はおかしかった。見た目こそ普通だが、何か、空気感がおかしいのだ。……扇風機だけに……。
周辺の空気まで変えてしまうような、そんな禍々しい“意志”のようなものを感じた。
「異常に気がついたのはひと月くらい前とか」
「はい。なにか、誰かに見られているような気がして、気味悪く思っていたら、どうも扇風機が見てくるような感じがしまして……。そのうちなんだか精神的に不安定になってきて……ある日気づいたんです。扇風機の風に当たると“おかしくなる”って」
時にはどうにもむしゃくしゃして叫び出しそうになったこともあったそうだ。
男の一人暮らしなんで……と申し訳なさそうに言っていたが、なるほど、汚い。申し訳ないが、汚い。ゴミ屋敷という訳ではないが、なんだか物の配置やゴミの扱いがそう感じさせるのだろう。
部屋の所感はさておき、外でそわそわと待っているJさんのためにも早く終わらせてあげよう。
部屋は1Kの狭いもので、例の扇風機はすぐ目に入った。
その扇風機は壁に向けられ、異様な存在感を背中から放っている。
「悪いね、ちょっといいかい」
途端、バリバリッという音とともに、扇風機がこちらに顔を向けた。
「構わないよ。あの男に頼まれて来たんだろう?」
なんと芯のある女性か。惚れてしまいそうだ。
「ええ。ちょっと話を聞かせてもらいたくてね」
「いいよ。まぁ座んなよ。汚い部屋だけどさ」
私とMちゃんはお言葉に甘え、座らせてもらうこととした。
「で、あの男、なんて言ってた?」
「あなたの風に当たると“おかしくなる”。見られている感じがする、と」
「……それだけかい?」
「ええ、それだけ」
「きっかけやら何やらは?」
「なにも」
扇風機——お扇さんは、はっ、と鼻で笑うと同時に、バリバリッと音を立て顔を背けた。
「あの男、何もわかっちゃいないってことだね」
「と言うと?」
原因は全部アイツさ、と事の始まりを話してくれた。
最初の出会いは家電量販店さ。頼りない見た目の冴えない男だと思ったよ。でもまぁ、ちゃんとしてくれんならコッチは何の文句もないからね。とりあえずここへ来て、早速お仕事さ。あの男はアタシをよく使ってくれたよ。エアコンもほどほどにアタシばかり使ってね。そのうち当然、季節が終わるだろう。ようやく休めるかと思ったらそうでもなくてね。押入れに入れるでもなく、綺麗にするでもなく、放置さ。ま、それもこの業界ではよくあることさね。さすがのアタシでもそこは我慢するよ。でもねぇ……ちょっとアレはねぇ……。
「アレ……?」
「いやなに、そう大層なモンじゃないんだけどさ……」
…………。
え?
「だから、扇風機に向かって“あー”ってやるだろ? アレの酷いのをやり始めたんだよ」
“あー”ってやるのはやるけど……酷いのとは何なのか。
「普通にあーってやってるなって思ってたらさ、そのうち咳し始めてくしゃみになって——気がついたら唇震わせて“ぶー”って! 汚いったらないよ!」
たしかにそれはヒドい。……いろいろな意味で。
「しかももっと酷いのは実験だなんて言って、アタシの後ろに回り込んでわざとくしゃみするんだよ! 加速度と拡散域がどうとか言って——!」
「……。それが……何度か……?」
「何度かってもんじゃないよ! アタシがここに来て少ししてからだから……もう五年だよ! 毎日! 酷い方は週に二回、下手すりゃ三回だよ! そんなことしておいて掃除もしない、感謝もしない——拭き取りもしないんじゃ臭いし跡も取れやしない! だから考えたのさ。具合悪くなりゃそんなことできないってね」
「なるほど、それで……」
ちょっと気が入りすぎて呪いっぽくなってきちゃったんだけどさ……とお扇さんは首をバリバリ言わせながら俯いた。
お扇さんの気持ちはわかる。そんなことされた日には……。
よく五年も耐えたと思う。
「わかりました。Jさんに伝えておきましょう」
「お願いできるかい? それさえなけりゃコッチだって我慢できるんだからさ」
とはいえ、普通の人ならばこんなに意志を持った扇風機をそばに置いておくことはできないと思うが……。
「話はつきましたよ」
「ホントですかッ⁉︎」
もじもじと外で待っていたJさんが、掠れ声を出しながら表情を明るくさせた。
「ですが……」
私は事の次第をすべて話した。それとなく、Jさんの様子を見ながら。
しかし話すにつれ、Jさんはその顔を俯かせていった。
「まぁその……何ですか、ひとまずはお手入れを……よろしくお願いします」
はい……と顔を真っ赤にしたJさんに、親にも似た気持ちを持ちながら、私とMちゃんはJさん宅を後にした。
「なんか……ね」
「まぁ……ね」
妙な心持ちのまま帰路につき、Mちゃんを送り届けてから自宅へと向かった。
またあの地獄が待っている。エアコンの業者が来るまであと二日はかかる。Mちゃんに泊まっていくようすすめられたが、とりあえず今日は断っておいた。私もやらねばならないことがある。
部屋へ入ると、充満した熱気が私をお出迎えしてくれた。
早々に窓を開放し、扇風機を回す。
——この子も嫌な思いしてるのかもしれない
「ごめんな……。ありがとう」
扇風機の頭をポンっとすると、パキッと音を立てて下を向いた。
外は蒸し暑いが、少し風が吹いている。
今日はもう寝よう。
でもその前にちょっとあーってしよう。
……控えめに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます