兄の死んだ夏。

双葉 雨希

命の終わりに。

 この夏兄が死んだ。電話が来たのは朝、兄が消息不明となってから二日たった後のことだ。バイクが好きだった彼が見つかったのは、いわゆる難所とされる曲道の角の先、突き破られたガードレール下で。その最後の日、彼のSNSには友人の姿とともにツーリング先の写真が投稿されていた。しかし、病院側の話には続きがあった。どうやら私が行けば彼が助かるかもしれない。というのも、兄はかなり重症だが、移植によって命が助かる可能性があるらしい。そしてその場合、兄弟である私が一番遺伝子が適合する可能性が高いとの旨を電話越しに伝えられたのだ。つまりそれは私が行かなければ、私は兄を殺すということに等しい。電話が終わるとすぐに大学に連絡をいれ、すぐに車に乗り込んだ。連休明けの月曜日の割に、高速は大きな滞りはなかったと思う、そうして昼前あたりにはもう病院へ着いた。

 待合室のソファーでは、先に着いていた父と母が心配そうに話しているのが見える。父は私を見つけると手をかざした。私は駆け寄って隣に座る。

「それで、兄はどうなの。もう見た?」私は焦るようにして聞いた。

「いや、まだ。しかしかなりの重症だと聞いた。それにもしかしたら見るに堪えないかもしれないとも。」と父は渋い顔をして答えた。

「病院の電話だと、私の臓器を移植するって言ってたけど、それで治るんだよね。」そういうと、今度は母が話し始めた。

「さっき来た看護師の話だと、既存の医療だと治らないって。」落ち着かない声は高く低く揺れている。

「既存のってどういう、」

「その話は私からしましょう。」隣から話が遮られる。振り返るとそこにはいかにも医者であろう恰好をした若い男性が立っていた。

「まだ一般には出回っていませんが、新しく開発されたその薬は、一つでも生きている細胞があればそれを急速に培養することで臓器を復元できるのです。」

「_つまり?」

「つまりそれを使えばあなたの兄も息を吹き返すでしょう。」そう言い切る医者の目には確かな自信の色が見えた。


 そうしてしばらくすると番号が呼ばれて、看護師に連れられ、私たちは病室に通された。清潔感あふれる単調な部屋は、私にどこか違和感を感じさせる。病室の外で揺れる木々の音が、心のざわめきを体現したように、震えだす。私は見ないように目を背けていたベットを見た。病院のベッドの上に寝かされたそれは、もちろん止血はされているし、傷口も縫われていた。しかしグチャグチャの塊に成り果てていたというか、確かに兄の顔や体の形とある程度面影は残しているものの誰が見てもグロテスク以外では言い表せない。そこへ医者が入ってきた。

「ご覧いただいている通り、彼の状態はいわば“壊滅”です。本来なら安楽死が推奨されるでしょう。」部屋に重い空気が流れた。照明がついているはずなのにやけに暗く感じられる。

「しかし検査の結果、わずかながら脳の細胞が生きていることを確認しました。臓器の再生は不可能ですがこれなら助かるかもしれない。あなたを呼んだのもそのためです。」医者は軽く私を指さしてから続ける。

「臓器そのものの提供は必要ありません。各所から細胞を提供するだけでいいのです。そうすればあなたの兄は助かるでしょう。移植の判断を決めるのは遺伝子適合する可能性が高い、あなたです。」医者が話し終えた後、私たちは再び沈黙を迎えた。半信半疑で、再びそのベットの上に置かれた肉塊を覗き込んだ。試す価値があるのだろうか。

 テセウスの船という話がある。古くなったパーツを入れ替えていった場合、それがもとの同じ船だといえるのかという問題だ。目の前で起きていることはこれによく似ていた。その話は、すべてのパーツが入れ替わってしまったらそれは同じものとは言えないのではないかというものだ。しかし今回は少し違う、人間の根幹と考えられている脳が、元の細胞と変わらないという点だ。私がそう考えている間にも、父と母はああだこうだと話していたが、とにかくあまりにも時間がなかった。選択のタイムリミットは、彼の脳の最後の細胞が弱り切るまでだったから。


 「やります。やらせてください。」と悩んだ末私は細胞の提供をすることに同意した。そうする間に手術室が空いていたようだ。私はドナーとして細胞を提供するために、家族に見送られながら医師と一緒に手術室へ向かった。


手術台に寝かされた後、私は全身麻酔を打たれて夢に落ちた。


夢の中の私は白とも黒とも言えない「無」の中でさまよっていた。

しばらく進むと心地の良い綺麗なせせらぎの音が聞こえてきた。

川の向こう側では白や青や黄色といった丸い光の玉が踊っている。

私もそちらへ行こうとしたけれど、川の流れは徐々に強さを増して、


そうして間もなく、私は目を覚ました。


最初に目に入ったのはまばゆい光で後からそれが天井の蛍光灯だと気が付いた。

麻酔のせいなのか呂律が回らず、何かを考えようとすることすらできなかったが、しばらくすると体も落ち着いた。辺りを見渡すと、周りにいたのは一人、看護士だけだった。聞くと、親たちは少しこちらの部屋の様子をみたあと、兄の病室に戻ったらしい。そこで私も兄の病室へ向かおうとしたが、足腰に力がうまく入らず立ち上がれない。その様子を見た看護師は隣の部屋の椅子まで私に肩を貸してくれた。窓の外では、もういつのまにか日が沈みかけている。私は隣の部屋に入ると椅子に座らされた。兄の様子を見るが、まだ様子は変わっていない。単純に器官の培養に時間がかかっていて、手術も始まっていないとのことだ。期待を向けて再びそれを見た。早くまたいつものように会話をしたいと願う。


 それからすっかり日が落ちたあとで、それは一度手術室を出入りした後、再びベットの上に寝かされた。昼頃見た肉塊のような姿に比べれば、それは確かな人間の形を保っているようにも見える。顔も綺麗に戻っていたし、その他の外見的損傷も完全に治っていた。そうしてしばらくすると、ついに、ベットの上のそれがモゾモゾと動き出した。

「うそ、本当に蘇った。」半分驚きながらも、私の目に嬉し涙が浮かび、それが頬を伝っていく。

「お前のおかげだ。」と父が言い、母も言葉は出さなかったものの嬉しそうな表情を浮かべている。

私が泣くわけがないだろうと思ってたけど、やはりどこかで兄を好いていたのだろう。いくらその死が不注意によるものだとしても、身近な人が消えてしまうということは、それだけで苦しいと感じるのだ。今私たちは期待を向けて、彼が体を起こすその瞬間を待ち望んでいる。


 しかし、彼が体を起こした途端、なんだか悪い予感がした。なぜそう感じたのかは分からない。けれど両親も同じように感じているようで、私たちは彼から目をそらそうとしながらも、それから目を離せないでいる。元通り、何もかも元通りなはずなのに。しばらくの間それは私たちを見つめ、そうしてようやく口を開く。そうして放たれたのは「あ゛ー、?」という声にならない音だった。そのあとすぐに医者が来て、彼の容態に関しての説明を受けた。彼には以前までの記憶がもうないらしいが、それを正常なものだと医者は言う。いわく、記憶というのは脳にできた皴の層であり、それを修復しようとして忘却していくものだからと。彼の記憶がないことも皺がリセットされただけで、脳の能力は変わらない、と。それがただ酷い逆行性健忘症を患ったようになっただけで、それは間違いなく兄であると。それは赤子に戻ったような状態だと。


 望んでいない結果だった。そんな戸惑う私たちの様子を見て医者はある提案をした。彼の幼少期に影響を受けたものなどを整理して、それを写真や本をAIに読ませると、時間はかかるが、そこから分析された皺を再現することで疑似的な記憶を再生できるといった。しかし医者の言うそれは、ただ兄の尊厳を傷つける私たちのエゴだ。私はもちろん、家族もそれは望まなかった。そして、それはそうと私たちは善ではなかった。


 医者にそれを安楽死させることを頼んだのだ。

次の日は葬式という手はずで進められることになった。


兄はここにはいないが、今日は久しぶりに家族でホテルに泊まる。


今頃あれは、どうなっているのだろうか。電気枕で静かに、いや想像することはやめよう。今日は一日がとても長いように感じられた。


病院からホテルへ向かう車の中、私は信号を待っている間に空を見上げた。

空には青白く光る月とその間の黒い深淵がじっと私を見つめてくる。


私が悪かったのだろうか。いやきっとそうに違いない。


後ろからクラクションを鳴らされ、私は慌ててアクセルを踏んだ。

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