第55話 比較する理由

「迷わなかった?」

 久しぶりの声を耳にして早苗は振り返った。ここは、互いにいる位置からちょうど中間だからと、指定された駅前の歩道だった。

「うん、ホテルから電車で一本だった」

 まるで特徴のない姿は相変わらず。適当にセットされた黒い髪に、なんの変哲もない紺色のコート。濃いグレーのスーツ。そこに新たに白のマフラーが添えられている。

「よかった。遅くなってごめんね」

 メールで敬語は面倒だからと省くようになったのはいつ頃だろう。最後に会ったときはまだ互いに敬語だったけど、再会した今は示し合わせたように気安く話せている。

「全然。絵麻さんたちとディナーだったから。あ、桐谷さん夕食はまだ?」

「いや、食べたよ。カップラーメンだけど」

 しかし彼は少し緊張しているようだ。目を合わせるも、すぐにどこかへ向いてしまう。ちらちらと戻ってきては彷徨わせている。

「お腹空いてる?」

「うーん……少し」

「じゃあ、食べたいところに連れてって」

「え、でも柏木さんは──北島さん」

「早苗」

「……早苗さん」

 彼の顔に少し赤みが差した。

「そう。もう柏木じゃないし、北島も違和感ある」

「うん、でもそっちだって桐谷さんって呼んだだろ?」

「あ……じゃあ、なんて呼ぶの?」

「名前で」

「俊介さん?」

 早苗も顔が熱くなる。

「まあ、さんはなくてもいいけど」

 彼は笑った。くしゃっと少年のように。

「俊介……」

「そう」

「じゃあ、早苗って呼んでよ。一人だけ呼び捨てなんて嫌」

 嫌というか恥ずかしい。メールでは呼び合うとき互いに濁していたものの、会うとそうもいかず、とてつもなく恥ずかしい。

「えっ」

 彼は驚愕の顔で、文字通り飛び上がった。おかしくなるも、笑っている場合ではない。

「とりあえずどこに向かえばいいの? 時間がもったいないよ。明日も仕事なんでしょ?」 

「……うん。でも早苗さ──早苗はまだ明日いるんだろ?」

「うん」

 名前を呼ばれるとにやけてしまう。なんともこそばゆい。

「明日は早く上がるから……その……」

「明日どころかこれから毎日会えるかも」

「えっ?」

 彼は聞き間違いだろうかとでも言うように驚いた。

 メールでもその純朴さはありありと伝わるが、面と向かうとそれに表情もつくからおかしくてたまらない。

 おかしいというのは、かわいらしくも愛おしいというのと同じことで、面と向かっていることが嬉しくてたまらず、にやけてしまうということだ。


「どうする?」

 早苗は聞いた。

「えっと……早苗は……何食べたい?」

「だから食べてきたんだって」

「うん。でも早苗が食べないのに食事するのも悪いしなあ」

 俊介は優しい。早苗を気遣ってくれるのはいつものことだ。

 智也だったら、自分が食べたければ早苗がどう考えようが構わないし、行くとしても好みを聞いたりしないのに。

 

 俊介はコートのポケットからスマホを取り出した。それを眺めていた早苗は、あれ?と目に留めた。最近のスマホは外見も似ているから、まさかだろうと思う。

 しかし俊介ならやりかねない気もする。そして彼なら聞いても不快には思わないはずだ。

「ねぇ、それってAQUOS?」

「えっ?」俊介は操作の手を止めて早苗を見た。「あ……」

 目を合わせた途端に、みるみる赤くなっていく。

 やはりそうらしい。俊介は、早苗がスマホを替えたから自分も同じ機種に買い替えたのだ。

 ストーカーまがいなところは未だに変わっていないらしい。今やそんなに好きでいてくれるのかと、愛おしく思うものの、おそろいのスマホなんて学生のようで、気恥ずかしくも、少し、いやかなり嬉しい。

 

「どこかいいところあった?」

 早苗は話題を変えた。自分のほうも顔が熱くなってきたからだ。

「あ、えっと……なんだっけ?」

 俊介は出会ったときのようにしどろもどろになった。

 最近帰りが遅くても自炊をしているから、外食なんてパッと思いつかないのかもしれない。

 それならばと思いつく。

「じゃあさ、少し時間かかるけど、何か作ってあげようか?」

「えっ?」

 メールの大半は料理のことだから、おかしなことではない。いつも上手くいかないと相談を受けているものの、メールや電話だと説明するにも難しく、一緒に作ることができるなら話が早い。

 それが理由だ。

 付き合ってもいない未婚の男女が、夜遅くに片方の部屋へ行くなど、倫理的に──別に悪くはない。

 そうだ。悪いことではない。

「この間、鍋食べたいって言ってたじゃない? 一人だと材料余るからって。切るだけだし、すぐにできるよ」

「ああ、うん、言ってた。鍋いいね」

 しどろもどろなのは変わりないが、俊介も嬉しそうな様子だ。

「じゃあ材料買っていこう。家までは近い?」

「近いよ。電車で一本。あ、でもスーパーならこの近くのところのほうが安い」

 俊介は駅ではなく商店街に向かって歩き出した。早苗もついていく。

 顔立ちは少年のようなのに、背は意外と高いため、脚も長い。歩幅がずれないようにと、速度を合わせてくれている。 


 すぐにスーパーに到着し、自動ドアをくぐって早苗はカゴを手に持った。

「シンプルな昆布だしの鶏鍋でいい?」

 店内に入った瞬間に、料理モードに切り替わる。地元とは値段がかなり違う。ザッと見た限りでは予算をオーバーしそうだ。

 とはいえ、貧相なものにもしたくないから、ある程度はきちんと作りたい。俊介も節約するタイプなので、そう言ったことは説明しなくても理解してくれる。

 早苗は黙々と野菜や肉をかごに詰めていった。


「つくねも入れる? 鶏がいいか魚がいいか……トビウオがあるね」

「早苗の作るものなら何でもいいよ」

 早苗はその言葉で振り返り、にこにこと嬉しげな顔とかち合った。

 

 今の台詞は智也もよく言っていた。しかし智也のそれは本心ではなかった。考えることは面倒だが、ぼんやりと食べたいものは決まっている。真に受けて作ると、智也の求めていたものと違っていたと言って怒られた。

 しかし俊介のそれは本心からの言葉らしい。これが演技なら映画俳優賞ものだ。そう思うほど、彼からは誠実さを感じとった。

 

「お酒ある?」

 早苗は聞いた。俊介もビールが好きで毎日飲んでいるらしいからだ。

「あるけど足りないから買っていこう。鍋なら進むだろうし」

 それならばと、二本手に取った。すると俊介は6缶バックをかごに入れた。

「持てなくない?」

「持てるよ」

 これから電車にも乗らなければならないのにとの懸念からだったが、俊介は任せなさいという力強い声で返してくれた。


 二人でビニール袋とエコバッグをガサガサとやりながら、並んで歩く。

 早苗は大学も一人暮らしだったから、スーパーで買い物をしたあとの帰り道はいつも一人だった。智也は車を出してくれたけど、機嫌の良いときにしか袋を持ったことはないし、付き合ってるときも結婚してからも、徒歩でなんて一度もなかった。


 彼にカフェを開くことを話したら、どんな反応を見せるだろう。

 智也だったら許してくれないばかりか、「おまえにそんなことができるはずがない」と言って、いかに無能かを語り尽くすに違いない。

 しかし俊介はおそらく賛成してくれるだろう。賛成どころか、自分のことのように喜んで協力してくれる。どんなケーキがいいか、飽きもせずに相談に乗ってくれるはずだ。


 智也なら──考えないようにしても考えてしまう。比較などしたくないのに、どうしてもしてしまう。

 なぜならそれは、比較することで、より一層幸福を感じるからだった。

 早苗がして欲しいと願っていたことを、智也は何一つしてくれなかった。それが、俊介は当然のようにしてくれる。自然過ぎて気づかないほど、当たり前のように。

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