第54話 早苗と絵麻
絵麻から「3日ほど時間をもらえないか」と聞かれ、まだ仕事もしておらず暇をつぶしていただけだったこともあり、快諾した。当日になり待っていると、迎えに来たその足で駅へと向かい、新幹線に乗らされたのだった。
そこで初めて東京旅行だと告げられ、到着してすぐさまあちこちを観光し、夕方になりいつの間にか予約されていたホテルに腰を落ち着けた。すると途端に、「これからディナーへ行くから着替えて来て欲しい」と言われ、カクテルドレスを渡されたのだ。
着替えを済ませてロビーへ降りると、絵麻と影谷は先に来ていたようで、早速とばかりにホテルのレストランへと連れていかれた。
「さあ、乾杯よ」
そう言って絵麻はグラスを掲げた。前菜は既に目の前に置かれて、ディナーは始まっている。
早苗も倣い、差し出されたグラスに自身のを合わせた。
「美味しい。これワイン?」
さっそく口をつけて、早苗は聞いた。
「シャンパンよ」
絵麻もぐいと飲む。
「凄い! シャンパンなんて結婚式のとき以来かも」
「結婚式以来に飲むシャンパンが、離婚祝いとはね」
「離婚祝い?」
「そう。無事に二人とも無事に離婚できたじゃない」
「そうだね。まさか自分が離婚できるとは思わなかった」
早苗はとうとう離婚し、柏木から旧姓の北島に戻った。智也に対して刑事告訴をし、受理された後に智也は逮捕勾留され、その後略式起訴された。結果有罪となり、罰金刑を受けることになった。
とにかく二度と顔を合わせずに済むなら、どう転んでも構わなかった。有罪の判決が下ったと同時に、接近禁止命令も出されたから、それだけで十分だと思った。しかし弁護士から、精神的苦痛のレベルを可視化するためにも、少額でも慰謝料を受け取っておいたほうがよいとアドバイスを受けて、財産分与に加えて同時に受け取ったのだった。
「私のほうこそだよ。早苗さんと出会わなかったら、未だにずるずると結婚生活を続けていたと思う」
絵麻はにこやかに言った。
「うそ?」
「本当。早苗さんのおかげよ」
「それは私のセリフだよ」
「じゃあ、二人が出会ったから離婚できたのね」
お互いの存在があったから離婚できたというのは、大げさではない。
絵麻になら何でも打ち明けられるし、彼女の力になりたいと思う。彼女もそう言ってくれて、二人で互いを励まし、支え合って離婚することができた。
この数ヶ月は様々なことが起きた。苦痛もあったが幸せもあり、それまでの人生では考えられないくらいに濃密な時間だった。そのすべては絵麻に出会ったことから始まった。
彼女がいたから、地獄のような結婚生活を終わらせる勇気が持てた。感謝をしてもし足りないほどだ。
「うん、本当にありがとう。絵麻さんがいたから頑張れた」
「私もそうよ。でも頑張るのはこれからよ」
「え?」
「仕事を探さないとでしょう?」
そのとき智也と離婚をして二ヶ月経っていた。別居してからずっと実家に世話になりっぱなしだったため、すぐにでも仕事を探して実家を出て、自活の道を探さなければならない。本来なら呑気に旅行などしていられる時期ではなかった。
「確かに」
「何か考えてる?」
早苗は大学を卒業したあとすぐに結婚をして専業主婦になったため、まともな職に就いたことがない。目下それが悩みで、未だに実家に居続けている主因だった。
「……全然考えてない」
「あ、これと同じものを」
そのとき次の皿が届き、絵麻は軽やかに二本目のシャンパンを頼んだ。
早苗は新たに届いた料理を見て、フォークを手に取る。
「東京でカフェを開かない?」
いきなり何を言われたのかと驚き、フォークに刺したエビを取り落とした。
「仕事先がまだ見つかってないなら、引っ越し先もまだでしょう?」
「う、うん」
エビがつるつると滑って刺し直せない。
「私もあの邸は出ていきたいの。結婚したときに建てたものだし。仕事もしたいけど、継ぐはずだった父たちの会社は辞職したから探さなけらばならないの」
「うん」
エビどころではない話になり、諦めることにした。
「だったら、早苗さんと東京に出て、カフェを開けばいいって考えたわけ。今回はその物件探しを含んでいるのよ」
「えっ?」
旅行の本意がまさかのことで仰天した。
「心気新たによ。接近禁止命令が出ていると言っても、同じ土地にいたらどこかで会う可能性はあるでしょ?」
「……うん」
確かに絵麻の言う通りであるし、早苗も県外に出たいと考えていた。
「それに、早苗さんのコーヒーとケーキはお金を取るレベルだもの。その技能を活かせばいい」
「そんな、大げさだよ……」
考えたこともなかった。コーヒーもケーキ作りも単なる趣味でしかない。お金を取るとか、それを仕事にするとか、想像すらしたことがない。
絵麻は話しながらも、華麗に料理を口に運んでいる。
「私は会社を継ぐように教育を受けてきたから、それしか能はないの。資金はあるし、じゃあ何をしようかって考えて、思いついたのがそれなのよ。というか他に考えられないほどいいアイデアだと思うわ。私は早苗さんのような真似はできないけど、経営ならできる自信はある。つまり、二人の能力合わせればぴったりなんじゃないかって思ったのよ」
そう説明されると確かにいいアイデアだと思う。他人事ならばだが。
しかし自分は作るだけで、資金も経営も一任するなんて絵麻にばかり負担を強いることになる。
「でも、私にはお金なんてないから」
「何言ってるのよ。投資よ投資。技術がある人に活躍の場を提供するってことなのよ。それに考えてみてよ。二人で一緒に働くなんて最高じゃない?」
「うん、それは最高だと思う」
「でしょ?」
絵麻は、その美貌をさらに引き立てんばかりの極上の笑みを浮かべた。
絵麻と二人でカフェを開く。聞くだけなら夢のような話だ。
しかし自信がない。自分にそんなことが可能なのだろうか。考えてみようにも、まったく想像できない。
「北島さんのコーヒーとケーキは多くの人を笑顔にする力があると存じます」
影谷が言った。彼は絵麻の執事で、彼女のいるところに必ず帯同している。普段は寡黙だが、たまに口を開くと驚くことを言うのだ。
今も、ためらう早苗の背中を押すような言葉をかけてくれた。
「ありがとうございます」
そんなふうに感じていてもらえているなんて思わなかった。絵麻も、モンパルナスで飲んだコーヒーよりも美味しいと言ってくれたし、俊介もそうだ。彼は出張のたびに必ず現地のカフェへ訪れるらしく、これまでに評価の高いところを色々と巡ったそうだが、早苗に敵うものはないと言ってくれている。
自信はないものの、信頼する人たちの言葉は信じないわけにはいかない。
想像はできなくても、努力することはできる。
「だから、観光は今日で終わり。明日は一日物件巡りをして、時間があればマンションも見て、一泊して明後日帰るのよ」
メインディッシュの皿が届き、絵麻は丁寧に切り分けながら言った。
「そうだったんだ。びっくりしたよ」
「驚かせてごめんね。現地で話したほうが早いと思ったのよ。思いついたのも一昨日だし」
一昨日とは誘われた日だ。絵麻は離婚してから別人のように活動的になっている。
「北島さん、いかがですか?」
影谷がシャンパンのボトルを手に持って言った。
「ありがとうございます」
少なくなっていたので、飲み干してからグラスを向けた。
「ホテルにバーはあるんでしょ?」
絵麻が影谷に聞く。
「はい最上階にラウンジがございます」
「そう。じゃあ、食事が終わってもゆっくりと先の展望を話せるわね。予約しておいて」
「かしこまりました」
「何時まで営業しているのかしら」
「あの!」
早苗は二人のやりとりに口を挟んだ。
絵麻は影谷に向けていた顔を早苗に向けた。
「あの、いきなりのことで考えたいから、食事が終わったら休みたいなあって。だから二人で楽しんできて」
「えっ? 迷ってるの?」
「えっと……」
迷ってはいるが、決心がつかないだけで、ほぼ気持ちは固まっている。ただ、行きたい場所があるのだ。しかしそれを素直に打ち明けるのは気恥ずかしく、咄嗟に誤魔化しただけだった。
「お一人でお考えになる時間は必要です。寝耳に水のことをお伝えして、明日物件探しなど、息をつく暇もないではありませんか。北島さんのお気持ちをお察ししておあげください」
影谷が言った。多少語気が強く、そんな口を利くのかと驚いた。
「ふん、言われなくてもわかってるわよ。あんたと二人でお酒なんて、いつもと同じじゃない」
「場所が違います」
「あー、そうね。種類も違うものね」
最近の二人は仲が良い。毎晩お酒を飲んでいるなんて本当なのだろうか? 執事と主人というより恋人のようだ。
食事を終えて、早苗は部屋へ戻った。
カクテルドレスから普段着に着替える。まさかこんな姿で会いに行けない。どれほど気合いが入っているのかと勘違いされたら嫌だし、単純に恥ずかしい。
幸いにも手持ちの衣服の中でもまともな服を持ってきていた。絵麻に誘われたのだから下手な格好はできないと考えていたからだ。
彼には既に連絡を入れてあった。
智也にスマホを送りつけたあと、自分で新しいのを契約して、それ以来毎日のように連絡をとっている。いや、絵麻から「メールをしてみれば」と言われたあとからのことだから、それよりもずっと前からだ。
毎朝「おはよう」から始まり、休憩時間も、帰ってからもダラダラとLINEをしたり電話をしている。本当に何気ないことばかりで、連絡する必要もないようなことだ。でも送ってしまうし、彼も気づくとすぐに返信してくれる。既読の文字だけで返信がないということはないくらいに。
その彼は離婚が決まる前に東京へ帰ってしまった。以来顔を合わせていない。
会うのは三カ月ぶりで、北島になってからは初めてのことだった。
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