第52話 解雇の理由
自宅に到着し、駐車スペースに車を停めたあと、後続してやってきたレオに自室へ来るように命じた。
休暇を与えたのに追いかけてくるほどなのだから、命令しても聞くだろうと遠慮はしなかった。
そして10分程して、レオはトレーにカップを一つ乗せて現れた。それをソファの前にあるテーブルに置き、いつものように待機の姿勢をとった。
「なんでカップ一つなの?」
絵麻は聞いた。ソファに座ったまま、じっとレオを見る。
「運転でお疲れだと存じました」
レオが答えたのは数の理由ではなく、持ってきた理由だった。
「あんた、今休暇中でしょ?」
「はい」
「だったら、そんなことしなくていいし、するなら自分の分も持ってきなさいよ」
聞くも、レオは返答しないばかりか視線も外した。
「とりあえずここに座りなさい」
絵麻は自分の隣を指す。
「はい」
レオは用事を聞き届けるいつものテンションで静かに腰を下ろした。
「なんでずっと付け回してたのよ?」
「それは──」
「事故の危険から守るため? さすがの影谷もそんなことしないわよ」
「それは、あの日以前のことです。それ以降は私が影ながらお守りしておりました。それにご自身で運転される場合は、あのようにする以外にありませんでした」
「だとしても、他の人間に頼めばいいじゃない。せっかく休みなんだから」
「申請したものではありませんし、休暇だとしてもこれは私の役目です」
「なんでよ? なんで四六時中私の執事でいようとするのよ」
「業務ですので」
「だから、なんでなのよ?」
そう聞くと、レオはなぜか答えに詰まった。それまではいつも通り淡々と返答していたのに、言い淀んだばかりか、下唇を噛み、目を逸らしている。ならばと絵麻は畳み掛けた。
「なんで東大法学部を出てまで執事なんてやってるのよ?」
これは以前も聞いた問いだった。そのときに耳にした答えに絶句して、それ以上聞きただすことはできなかった。しかし今回は違う。納得のいく答えを聞かせてもらうつもりだった。
「解雇するわ」
本気ではない。しかしレオには本気に聞こえるように言い捨てた。
レオはかすかに肩を震わせ、半日前のときのように青ざめた。
「……それは、私が18年と67日間お慕いしている理由をご説明差し上げないからでしょうか」
視線だけでなく顔すらも背け、苦しげに眉根を寄せている。
「そうよ。なんで言わないのよ。簡単じゃない」
「申し上げた場合にも」レオは絞り出すような声で言った。「……解雇されると存じたからです」苦渋という感じだ。
「へえ。それは是非聞きたいわ」
レオは視線を絵麻に戻した。その目には悲哀が帯びている。
「どちらにせよ解雇することには変わりないんだから教えてよ。もうあんたに執事でいて欲しくないの」
絵麻は言い放ち、またもや笑みがこぼれてしまった。
レオが突然刺されでもしたかのように衝撃を受けた顔で、そのまま放心してしまったからだ。それがおかしくて、思わず口元が緩んでしまった。
「そうね、東大に戻るか、司法試験を受けるかして、何かまともな職に就きなさいよ」
レオの瞳が揺れた。先の話をしたからだろうか。解雇は免れないと感じたようだ。
少し可哀想になってきた絵麻は、もういいかと思い、両手でレオの頬に触れ、近づいた。
これは人生で三度目のキスで、自らの意思でしたのは初めてのことで、こんなにも触れたいと気持ちが高ぶったことはなかった。
レオにだけだ。レオだからだ。
しかしもう、そんなことをいちいち考えなくてもいいだろう。初めてとか何度目とかもどうでもいい。特別なことではなく、当たり前のことにしたい。
レオなら喜んで受け入れてくれるはずだ。絵麻の気持ちも、絵麻が触れることも。
「絵麻様、お戯れはおやめください」
しかし無理に身体を離され、意外にも怒気の孕んだ声で言われた。
「なにが戯れよ。嫌なの?」
「困ります」
顔を背けて口にした返答に、絵麻はカッとなる。
「困れば?」
不満をぶつけたものの、よく見るとレオは顔を真っ赤にして、身体は熱く、手も震えている。
その反応を見て、やはり嬉しくないはずはないと思い、なぜ困っているのだろうかと考えた。
もしかしたら、と思い当たる。
「さっきお父様から電話があったの。置いてきた離婚届にサインをさせて、そのまま提出してきてくれたみたい」
レオはハッと顔を上げた。
「だから私はいま進藤ではなく、西条絵麻よ」
それを気にしていたに違いない。それ以外にレオが拒否する理由があるだろうか?
確かに絵麻もそれが気がかりだった。どんなに愛のない仮面夫婦でも夫婦は夫婦だ。離婚が済むまでは、他の男に触れてはならない。いくら夫が不義をしていても、絵麻のほうはそれを守りたかった。同じ真似など絶対にしたくなかった。
しかしレオはそれが理由ではなかったようだ。身体は熱っぽく顔も赤いままだが、未だに絵麻を押さえつけている。
「申し訳ありません……」
そう言って立ち上がろうとした。
「何がよ」
絵麻はレオの腕をとり、元の場所に座るように促した。おとなしくされるがままだったが、目を合わせようとしない。
「お戯れにしても、私にその役目は担えません」
そう言って、うつむいた。
なぜ頑なに拒否するのだろう。愛してくれているはずなのに、理由がわからない。
「私のこと好きなんでしょ?」
「はい」
「だけど、キスはしたくないってこと?」
聞くと、レオは考えこむように静止した。
「……執事ですので」
口重くようやく開いたと思ったらそんなことを言われ、絵麻は脱力しそうになった。
「だから解雇するって言ったのよ」
絵麻はレオの表情を崩してやりたかった。いつも冷静沈着で、目にだけ情熱を宿らせている。
それを表情にも態度にも出して欲しかった。
言葉では確認した。確認するまでもないことだが、あんなのでは満足できない。まるで年齢でも答えたかのようなテンションで言われても、満たされるはずがない。
なぜそこまでと驚くほどの愛を抱いているはずなのに。それを表に出すのは、執事として誰も真似ができないほど熱心に、絵麻の世話をするというだけだ。
絵麻はもっと近づこうとして、レオの膝の上に乗った。そして抱きかかえるように首に腕を回し、顔を近づけた。
「こんなに人を好きになったのは初めてなの。相手が執事だなんて、私は構わないけど両親が許してくれないわ」
「それが……解雇の理由ですか?」
レオは震えた声で聞いた。身体もかすかに震えている。
「そうよ。それ以外にないわ」
「気持ち悪いからではないのですか?」
彼は視線を逸らせようとするも、絵麻は阻止するように両手で顔を挟んだ。
「それも理由よ。気持ち悪いくらいに愛されてて嬉しいから、執事でいて欲しくないわけ。そばにいてくれるのはいいけど、それじゃ結婚なんてできないわ」
そう。最初は不気味に思っていたレオからの愛が、今やなくてはならないものになっている。
彼からの愛が、彼自身が必要なのだ。レオがいなければ楽しくもないし、いなくなると寂しくなる。四六時中そばにいても、姿が見えないだけで日が陰った気持ちになる。
そしていつしか、ただそばにいてくるだけでは物足りなくなっていた。
触れて欲しい。抱きしめて欲しい。そばにいるだけではなく、もっと近づいて欲しい。
その願いが、日を増すごとに大きくなっている。
レオは何も答えず、何やら考え込むように視線をさまよわせている。絵麻の言葉を処理しきれないという感じだ。
そんなレオが愛おしくなり、気持ちが高ぶってきて目の端にキスをした。ワックスなんてしたこともないだろう、そのさらさらの髪を撫で、顔をうずめた。飾りっ気のない石鹸の香りがした。
「私は、絵麻様がいらっしゃらなかったら生きていないと思います」レオはようやく答えた。「……絵麻様のお近くにいることができるなら生きていてもいいと思えているだけです」
それは聞いたことがないくらいにか細く、打ち震える声だった。
「そんなに好きなの?」
「好きとか、愛とか、そんな次元ではありません。ですから、こんなことをしていただくわけにはいかないのです」
バカなことを言っている。
呆れた絵麻は抱きかかえるのをやめて、レオの顔を覗き込んだ。
「私の話聞いてた?」
目を合わせると、絶望したかのように青ざめている。
「……はい」
嘘をつけ。聞いていたら青ざめたり拒否したりなどしないだろう。生死を懸けるかのごとく愛していると言って、その相手から好きだと告げられて、なぜ絶望する必要があるというのか。
戯れがどうのと言っていたから、気まぐれに相手をされていると考えているのだろうか。それとも、好きという程度ではだめということか。
いや、そうではない。信じていないのだ。
だったら信じてもらうまで言葉を重ねればいい。
「私にはレオが必要なの」
絵麻が言うと、レオはかすかに肩を震わせた。
「レオじゃなきゃだめなのよ」
次の言葉では、瞳がちらと動きそうになった。また逸らそうとしたのかもしれない。しかし、今度はまっすぐにこちらを見つめたまま、逸らさなかった。
「はい」
レオは答えた。
「私は、レオのことを愛しているのよ」
「……はい」
震える声で言って、レオは顔を伏せた。
「レオは?」
「はい。この身に替えてもお守りします」
顔を上げて言ったレオの目には涙が溢れていて、気づいた直後に端からこぼれ落ちた。眉根を寄せ、流れ落ちるのを堪らえようとしている。
こんなレオを見たのも初めてだ。泣くなんて想像したこともなかった。
まさかのことで、絵麻もつられて涙がこみ上げてきた。
愛なんてわからない。誰も愛したことなんてないのだから。
幸せもどんなものなのかわからない。求めたことすらないのだから。
しかし、レオから愛されることが喜びとなり、それだけでは物足りず、触れたいと感じ始めたその先に、未知の感情が見え始めた。
もしかしたら、それが愛というものではないだろうか。
愛する人と想いが通じ合った先に、幸せがあるのかもしれない。そう、思ったのだ。
レオの反応を見てさらに心を打たれた絵麻は、自分の目も潤んでくるのを感じながら、レオを再び抱きしめようと手を回した。
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