第49話 否
一週間ほどして早苗から連絡があり、智也が逮捕されたことを聞いた。勾留中らしいが、おそらく起訴されるだろうとのことで、もしかしたら略式起訴になるかもしれないと言っていた。
サカ☆カササギ[勾留中だから殴り込みにくることもないし、ようやく安心できたよ]
EMA522[よかった。DVで訴えられてるのに暴力沙汰を起こしたほどだし、何してくるかわからなくて不安だったよね]
サカ☆カササギ[本当だよ。信じられないやつだ。絵麻さんのほうもいよいよ今日だね。がんばってね]
EMA522[ありがとう。義姉の退院パーティなのに、動揺させていいものかとも思うけど]
サカ☆カササギ[それはこっちが気にすることじゃないっしょ。大丈夫だよ]
それはそのとおりだ。
生田がとどうなったのかを聞きたくてうずうずしていたが、早苗からは何も言ってこないし、わざわざ聞くのも気が引ける。それに話すならメールではなく会って話したい。
そう思い、今日が済んだらパーッとやりたくもあったので、飲みに誘ってみようと提案のメールを打ちかけた。
しかしそのときノックの音がして、レオが紅茶を運んできた。
「失礼いたします」
レオはテーブルに紅茶を置きながら言った。
「健一さんは?」
「おそらく奥様とご一緒に来られるのではないかと存じます」
「大丈夫かしら?」
「しっかりされていらっしゃる方です」
レオの見立ては初耳だった。桐谷や生田もそうだが、絵麻の知らぬところで関係者とそれぞれ仲を深めているらしい。それともこれが男性の気持ちはわかるというやつなのだろうか。
「ねえ」
立ち去ろうとしたレオを呼び止めた。
「はい」
レオは機敏な動作で振り返る。
「清澄は、私のことを愛していると思う?」
聞くと、レオはわずかに肩を震わせたように見えた。普段は冷静沈着で動揺のかけらも見せないのに、珍しい。
「存じ上げません」
「レオはどう思うかでいいから」
彼はいつものごとく射るような目をこちらに向けている。見慣れたものだが、今は探るような色を帯びて見える。
彼はかすかに息を吐いてから口を開いた。
「私の見た限りではありますが、
絵麻はおかしくなった。自分も間違いなくそうであると思っていたものの、人の口から聞くとおかしい。
そうだよね。そのとおり。と改めて噛み締めた。
清澄はあのとき絵麻に欲望を滾らせていた。レオとのことはすぐに誤解を解いたものの、もうやる気は失せたとばかりに素っ気なくなり、コーヒーを飲み干す間もなく出ていった。姉の不在を埋める暇つぶしにもならないとでもいうように。
そんな相手でも、男を知らない初心な女ならば味わってみてもいい。清澄の目に浮かんでいたものは、そういった意味での欲望だった。相手が妻だからではない。しかし嘔吐をした女など願い下げだと興味を失ったのだ。そんな態度からは、愛どころか好意すらも感じられない。
「飲んだら行くわ」
未だ待機していたレオに声をかけた。
「かしこまりました」
言って再び去りかけた姿を見て、絵麻はある考えが閃いた。
「あ、待って」
「はい」
レオは再び軽快に振り返る。
「昼食会が終わったら、明日の朝まで休暇にするわ」
「……それはどういった意図でありますか?」
しばし間を空けてから返ってきたのは、これまた珍しくも戸惑いを含んだ声だった。
「それと、どこでもいいから近くの居酒屋に……そうね、6時くらいでいいかしら? 2名で予約入れといて」
「柏木さんとのお約束ですか?」
「入れといて」
有無を言わさずに命じ、そしてレオに歩み寄った。
「かしこまりました」
レオはいつものように頭を下げ、また待機の姿勢に戻った。
「レオ」
「はい」
「私のこと好き?」
絵麻は聞いた。口調は先ほどまでと変わらず主人のそれのまま。内心も同じだ。答えをわかったうえで確認している。
「はい」
レオも同様に執事のそれで答えた。つまり普段通り動揺もせず、紅茶でも命じられたかのように。
「それはいつから?」
「18年と67日前からです」
ザッと計算してまだ幼児の頃だ。一目惚れだろうかと、ふと思う。
「その間に他の誰かを好きになったりしてないの?」
「はい」
「じゃあ、清澄と私が愛し合っていないと知って、私を自分のものにしたいって思う?」
「そういった感情ではありません」
すぐさま答えが返ってきた。
「じゃあ、どういう感情なの?」
「執事としてお慕いしております」
「嘘よ。その18年前はこどもでしょ? 執事じゃないわ」
それまで間髪入れずに答えていたレオだが、少し言い淀んだ。
「……はい」
「説明してよ」
「……理由をお伺いしたいのですが」
無表情の奥に、狼狽している様子がちらと見えた。
「18年も一方的に想われていて気持ち悪いから、説明しなかったら解雇するって言うのは理由になる?」
絵麻が言うと、今度ははっきりと内心が表に出た。レオは愕然と目を見開き、顔は見てわかるほどに蒼白となった。
絵麻は表情を崩してやれた喜びと、その変わりようがおかしくて、少し気が済んだ。
「もういいわ。下がりなさい」
「……承知しました」
承服できない様がありありと見て取れる表情と声で言って、レオは去っていった。
さてと、と絵麻は伸びをして、紅茶を味わった。
レオの淹れる紅茶は影谷とそっくりだったが、最近はさらに美味しくなった気もする。飲むと以前よりも元気になるのだ。それは鬱屈していた日常が変化を始めた時期と被っているからかもしれないが、飲むと頭がクリアになり、一日の活力が湧いてくる。
もう一杯飲もうかしら、と後ろ髪を引かれながらも、あんな状態にしたレオを再び呼びつけるのは可哀想だと感じて、着替えをすることにした。
今日は義姉の退院祝いを兼ねた昼食会が行われる予定だ。午前のうちから義実家へ向かわねばならない。
着替えを済ませたあと、最後に書類の確認をすることにした。
──今日が終わりではなく始まりになったとしても、必ずやり遂げる。
書類を確認し終え、そう何度目かの決意をした絵麻は、バッグにそれを丁寧にしまい込んで立ち上がった。
「このたびは、退院おめでとうございます」
絵麻は出迎えてくれた義両親に祝いの言葉を述べた。
「ありがとう。倒れたときはどうなることかと思ったけど、母子ともに問題なくてよかったわ。どうぞ入って」
招き入れられ、ダイニングへと向かう。
既に何人か到着しているようだった。清澄も真部夫妻もいて、相変わらず姉弟仲良く談笑している。絵麻は歩み寄り、清香に言葉をかけた。
「退院おめでとうございます」
「あら絵麻さん、ありがとう」
いつものごとく、つんとした顔と声で返される。義姉から愛想など一つも受けたことがない。
5つ上の義姉は美しくも聡明で、幼い頃は少なくない憧れを抱いていた。少しでも気を引きたいと思い、話題を探したり、好きな料理を振る舞わせたり無駄な努力をしていたほどだ。しかし、今に至るまで好意の一端すら絵麻に向くことはなかった。清澄と同様に。
義姉はその弟のほうへすぐに向き直ったので、絵麻も言葉少なにその場を離れ、健一の隣に座した。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
それだけで、目配せを交わした二人はそれぞれ反対隣の重役と会話を始めた。
「本日はありがとうございます。どうぞみなさまお楽しみください」
義父の言葉で食事会が始まり、いつのものように上辺だけの会話で盛り上がり、お追従を交えた賑やかさで場は華やいだ。
そして食事が済んだ頃に、コーヒーと紅茶がそれぞれのオーダーによって配られた。
「いま何ヶ月でいらっしゃるのですか?」
重役の一人が清香に声をかけた。結婚式を終えたあとに会社にも伝えられたらしい。
「もうすぐ6ヶ月になりますわ」
「それでは、今回の入院は相当ご不安になられたでしょう」
「いえいえ、大げさなことでしたわ。一週間も入院していなかったんですもの」
「ですが、もうお仕事はお休みされたほうがよろしいのではないでしょうか」
「まさか! 仕事をしていないと落ち着かないですわ」
「清香」清澄が割って入る。「いい加減身体の方を大事にしてくれ」
おほほ、と義母。「弟に言われいたら世話がないわね」
「
絵麻は茶番に飽き飽きとし、おもむろに立ち上がった。
「皆様に聞いていただきたいことがあります」
「おいおい」絵麻の父が笑って言う。「立ち上がらなくても話せるだろう」
「お父様お母様、それと進藤のお義父様、お義母様、大変申し訳ありません」
「どうしたの?」
絵麻の母が驚いた顔で聞いた。
「離婚しようと思います」
静かに言うと、場はしんと静まり返った。
20秒ほどして、最初に口を開いたのは清澄だった。
「こんなおめでたい場でそんなジョークは笑えないな」
周りを見渡しながら、さもおかしげに笑いながら言った。
「申し訳ございません」
絵麻は清澄の方へ向き、ゆっくりと頭を下げた。
「ですが、冗談ではありません。この場で申し上げるのも理由があってのことです。この離婚は、私と清澄さんだけの問題ではないからなのです」
「無論そうだろう。絵麻さん」義父が咳払いをして言った。「会社はどうなる? あなたの提案はあなたが思っている以上に多方面に影響があることなんだよ」
そして父が続く。
「そうだよ絵麻、何を言っているんだ。清澄くんの言う通り、こんなときにそんなふざけたジョークはやめてもらいたい」
「お父様、このタイミングだからなのです」絵麻は父を見て言った。「お腹の子が生まれる前でなければならないのですから」
「どういうことなの? 絵麻さん、説明してちょうだい」
義母が困惑の顔で言った。
「説明はすぐに終わります。こちらをご覧ください」
絵麻はそう言って、バッグから書類を取り出した。
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