第48話 夫婦ならば当然の

 桐谷を病院へ連れて行くと、「診察が終わったらそのまま帰宅するので、お二人は待たずに柏木さんのご実家へ戻ってください」と言われた。

 桐谷の頬は車に乗っている間もどんどんと腫れ上がり、見るも痛々しい姿になってきたからだろうか。


「覚悟をしていらした場合でも、目の当たりにしないで済むのなら、そちらを選択するのではないでしょうか」

 しかし、帰路の車内でレオに聞くとそんな返答だった。

 何のことかとしばし考える。

「……つまり、生田さんと早苗さんが上手くいくってこと?」

 まさかとは思うが、自分の観察眼よりはレオのほうが勝っている気がしないでもない。

「私に女性の気持ちはわかりかねます」

「じゃあ男性の気持ちはわかるっていうの?」

 聞くも、レオは肩をすくめただけだった。そして話題を変えられた。

「清澄様より連絡が入っております」

「えっ?」

「絵麻様のほうは繋がらなかったとおっしゃって、私のほうへご連絡がきました」

 絵麻はスマホの存在をすっかり忘れていた。言われて取り出してみると、清澄から3件ほど着信が来ていたようだった。


「一応、何をされていらっしゃるかは濁しておきましたが」

「私になんの用があるというの」

「私にはわかりかねます」

「男性の気持ちはわかるんじゃないの?」

 今度は肩をすくめなかったが、何も答えない。

 それを見て、本当はわかっているのに口に出せないのだと勘付いた。

「遠慮せずに言いなさい」

 言うも、レオは迷っているかのように数秒ほど反応を返さなかった。そして、おもむろに答えた。

「……真部様の奥様が、昨日さくじつより入院されたとのことですので」

 回りくどい物言いだが、つまりは清香のことだ。

「入院って、どうして?」

「切迫流産の危険があるからだそうです」

 重々しい単語に驚く。

「それって危ないの?」

「……自宅療養でも構わないと診断されたそうですが、大事を取って入院されたそうです、安静にされていれば危険は回避できるものと存じます」

 心配をしたものの大丈夫のようだ。レオの返答を聞いて安堵した。

「それを伝えようとしたのかしら」

「それは……」

「聞いたからもういいわね」

「いえ」

「なによ」

「ご帰宅を願っているご様子でした」

「なんで? 清香さんに付きっきりなんじゃないの?」

「ご主人ではない限り、付き添うことは叶わないと存じます」

 その返答でようやく気がついた。

 レオの見立てが事実なら清香はそこまで心配する状態ではない。つまり、知らせようとしたのではなく、清澄は暇なのだ。

 脱力し、ため息をついてレオに聞いた。

「それであいつは何だって?」

「絵麻様がいらっしゃったら、すぐにお連れするようにと」

 もう一度ため息が出てしまう。それもさらに大きいものが。面倒どころではない。せっかく早苗に会えたのに、なぜ見たくもない夫の元へ帰らねばならないのだろう。

「嫌だわ」

「はい」

 しかし、レオは早苗の実家へ戻っているのではないようだった。

「どこに向かっているのよ」

「絵麻様は、ご帰宅の旨を柏木さんにご連絡ください」

「なんで勝手に帰ってるのよ」

「ご予定は延期せざるを得ないと存じますが、その日までは気取られる行動はお慎みいただいたほうが懸命かと存じます」

「どういう──」

 そういうことか。絵麻は遅れて気がついた。そして内心で大きく舌打ちした。

「絵麻様、そのような真似もお慎みください」

 どうやら実際にしていたようで、レオにたしなめられた。



「絵麻、どこに行ってたんだよ」

 自邸の玄関を開けると、両手を広げた清澄の出迎えが待っていた。

 気持ち悪すぎて身体を強張らせると、清澄も本気ではなかったようで、すぐに手をおろした。

「なに? 影谷とデートだったの?」

「そうです」

 絵麻が答えると、清澄は「まさか」と笑いながらリビングへ向かって歩き出した。

「清香さんはいかがですか?」

「ああ、心配だよな。さっきも病院へ行ってきたところだよ。元気は元気だけど、起き上がらないほうがいいらしい」

「流産の危険があるのですか?」

「まあ、大丈夫だろう」清澄はソファに座り、ついてきたレオに片手を上げた。「コーヒーを」

「かしこまりました」

 レオは一礼して去っていった。

「毎日遅くまで仕事をしていたせいだな。これを機に休ませたほうがいい」

「会社は大丈夫なんですか?」

 絵麻は清澄とは離れた位置に座ったため、声を少し張らなければならない。

「いや、まあ、リモートでも構わないし、妊娠がわかってすぐに引き継ぎを始めたからなんとかなると思う」

「それなら安心ですね」

「会社というより本人がやる気なんだよ。心配で困っていたんだが、この一件で清香も身体を気遣うようになるだろう」

「清澄さんと離れがたいのでしょうか」

「そうそう、なんとも愛おしい……」

 言った直後に清澄は、「あ」という顔をして、続けて言った。「仕事熱心もいいけど、我が子を大事にするべき時期なのに」

 絵麻の頭には次々と嫌味やあてこすりが浮かんできたが、レオがトレーにカップを2つ乗せて戻ってきたので自重した。

 じろりとこちらを睨んだように見えたからだ。


「おまたせいたしました」

 レオがコーヒーと紅茶をテーブルに並べた。

「あ、そうだ。洗車しておいてくれないか?」

 清澄がレオのほうを見もせずに言った。

「本日はお休みをいただいておりますので」

「え?」

 今度は驚いたようにレオを見た。

「休みなのになんでここにいるんだ」

 レオは視線を返すも何も答えず、数秒ほどしたのちに逸らした。

「それでは失礼いたします」

 そう言って一礼すると、ドアのほうへ向かっていった。

「おい、なぜ絵麻といた? 本当にデートだったのか?」

 清澄は声をかけたが、レオは聞こえていないかのように去っていった。

「主人に声をかけられて無視するか?」

 レオの態度に憤懣ふんまんやるかたないといった様子で言い、絵麻に顔を向けた。

「影谷でなければわからない店に買い物へ出ていただけですから」

 遅れて絵麻が説明すると、今度はハッとして、次ににやりとした顔になった。

「……そういうことか」

「入り組んだ場所にあるので、影谷でないと説明が面倒だったものですから」

 絵麻は言い添えたが、清澄はわかってるよとでも言うように頷き、そして言った。

「影谷は小等部のころから絵麻のことを好きだったから、さぞかし嬉しいだろう。しかし浮気は困るよ絵麻」

「何をおっしゃっているんですか」

「影谷は毎日べったりと絵麻に張り付いているらしいじゃないか。まさかと思っていたけど本当だったとはね」

「執事なのですから、同行するのは当然です」

「休日なんて要らないからって毎日仕事をしてるんだろ? その影谷が休みをもらってやったことが絵麻との買い物だなんて、そんなのいつもと同じじゃないか。つまり、休暇じゃないんだろ? 惚れた女性の夫の頼みは聞きたくないってことだ。いくら絵麻の執事でも、進藤家に雇われているんだから、主人の命令に背くことはできない。休暇だのなんだの言ったのは拒否するための言い訳だ」

「いい加減にしてください。事実、休みなく働いてくれているので今日くらいはと与えたのです。ですが休日でも私の用事は聞くと言ってくれて……」

 自分で言いながら、清澄の言う通りだと感じて言い淀んでしまった。

 レオが休日なのは事実だ。だから清澄の命令を受けないのは理にかなっている。しかしそれを言うなら、絵麻の命令だけはどんなことでも聞き入れるというのはおかしい。本人がそう言っているからだが、だったら清澄のも受ければいいという話になる。


「そうか、絵麻は気づいていなかったんだ」

「なんのことでしょうか」

「まさか初心だとは思わなかったな」

 清澄はこちらを見た。その目には、これまで一度も見たことがないような高ぶりを宿している。

 絵麻は衣服をすべて剥ぎ取られたような気持ちになり、怖気が走った。

 

「僕達は夫婦なんだ」

 清澄はそう言って立ち上がり、絵麻の隣に座り直した。

「あまりの美貌とその気の強さだから、これまで何人も手玉に取ってきたと思い込んでいた」

 悪かったよと続けて、絵麻の肩に腕を回してきた。

 その瞬間、絵麻は吐き気に襲われた。触れられただけでなく、眼前とも言える距離にまで近づいてきたからだ。

 

 これまで清澄は絵麻に触れようとしたことはなかった。よそよそしく他人行儀というのは、端から見るだけでなく事実で、夫婦ならばするであろうこともしなければ、手を合わせたことすら数えるほどだったからだ。

 近親相姦だと知って冷静に受け止められたのもそれが理由で、まるでどころか他人事だと感じていられたからだ。

 それが何やら突然、夫婦として当然すべき行為をしようとでも言うようにすり寄ってきた。

 

 絵麻は本当にせり上がるものを感じて、口元を抑えて立ち上がった。

「まさか、もうそんな関係だったの?」

 洗面所のほうへ向かい始めると、背中から困惑の声を浴びた。

 吐き気を催しただけで、夫以外の子を妊娠していると考えるとは。

 まさに自己紹介乙というやつだと、辟易した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る