第47話 三人それぞれの

「離婚だけでなく、慰謝料請求に告訴ってどういうことなんだって聞いたんだよ!」

 近づくと、聞き覚えのある怒号がした。

「事実を表沙汰にしただけだよ」

 次に聞こえたのは早苗のわななく声だ。


 まさかと思って、玄関ドアを開けると、そこには智也と早苗の姿があった。

「会社に内容証明送りつけるなんて、ふざけやがって! 由香里の実家にも……信じらんねぇ!」

 智也は大声でまくし立てた。二人は玄関前のポーチで、少し距離を置いて向き合っている。

「信じられないのはこっちだよ! その人をアパートに泊まらせてたんでしょ?」

「それの何が悪い? お前なんて家事もせずに、寝るためだけに無駄金使ってただろ?」

「その原因をつくったのは智也じゃない!」

「ああ?」智也の顔がみるみる真っ赤になる。「旦那に意見するなんてどういうつもりだ?」

「暴力振るう旦那に言われたくない」

「なんだって……」

 今度は青ざめたように真っ白になり、身体が震え始めた。

「スマホを監視したり、お金は最低限しか渡さなかったり、私がやりたいこと全部だめだって言って、智也は好き勝手して。妻の努めだのなんだのって命令してきたのは、全部モラハラっていうのよ!」

 全身で訴えるかのように、早苗は叫んだ。

 そのとき、駐車場に黒のセダンが入ってきた。二人は気づいていない様子で、ちらとも目をくれずに睨み合っている。

「入院させるほど殴りつけるなんて、私はなんなの? 妻じゃなくてサンドバッグじゃん」

「お前がそんなふうに反抗的な態度を取るから、仕方なく身体に聞かせてやったんだ」

 智也は言った。その冷静で淡々とした声は、激昂していたときよりもゾッとさせる。

「仕方なくで殺されてたらたまったもんじゃないよ」

「俺はやりたくでやったわけじゃない」

「やりたくないならやらなきゃいいじゃない」

「躾のためだ。お前がいつまで経ってもろくでもないから、お前のせいだ」

「それをDVって言うのよ!」

 早苗は再び叫んだ。

「DVだとぉ?」智也の顔は赤くなり、早苗のほうへ一歩踏み出した。「じゃあ、これもDVなのかぁ?」

 激昂した声とともに、手を振りかざした。

 絵麻が靴を履き終えて、近づこうとしていたときだ。しかしまだ2メートル以上はあった。

 早苗は身体を震わせただけで、動けないようだった。

 黒のセダンから降りてきたレオの姿が見え、目が合った。

 なんとかして。早苗さんを守ってあげて。

 心でレオに訴えた。

 そのとき、目の前に影が差し、何が起きたのか見えなくなった。石鹸のような何の着飾りもない香りがふと鼻につき、それがレオだと気づいたが、その瞬間に誰かが殴られたような鈍い音と、早苗の悲痛な声が聞こえた。

 なんでこっちを守っているのよ?

 絵麻はカッとして、レオの身体をどかせようとするも、びくともしなかった。


「誰だよお前!」

「桐谷です」

「はぁ?」

「俊介! 大丈夫か?」

 桐谷と智也のやり取りのあとに生田の声がして、絵麻はレオの肩越しに覗き見た。

 桐谷は早苗を庇うように前に立ち、智也に胸ぐらを掴まれている。口の端に赤い雫が見えた。

「なぜ奥さんを殴るんですか?」

「なんだって? ……やめろ、雅紀!」

 生田が智也を後ろから羽交い締めにしたようだ。

「先輩、冷静になってください」

 しかし、まだ片手は桐谷の襟元を握っている。

「殴り返さねえ意気地なしめ! 放せって」

 智也は生田を振りほどこうとした。

「いくら殴られても殴り返しません」

 桐谷は、智也に目を据えて言った。

「ほう」

 智也はそう言うと、勢いよく生田を振りほどき、「ホントはビビってるくせに」と言って、もう一度桐谷に殴りかかった。

 しかし辿り着く前にバランスを崩したように前のめりになり、膝と片手を地面についた。

 何が起きたのだろうかとよく見ると、生田が足をかけたようだ。


「警察を呼びますよ」

 ゾッとする冷徹な声が、生田の口から聞こえた。

「なんだよ雅紀……」智也は生田を見上げる。

 そして立ち上がり、今度は生田の胸ぐらを掴んだ。

「お前のその端正な顔面もめちゃくちゃにしてやろうか?」

「やれるものならどうぞ」

 生田は引くどころか自らもやるぞとばかりに、智也ににじり寄り、ガンを突き合わせた。

 そして胸ぐらを掴んでいる智也の手を掴んだ。

「なに早苗の味方ぶってるんだ? お前もこっち側だろ?」

 しかし智也のその言葉で、生田はぴたりと手を止めた。

「まさか早苗に惚れたなんて言わねーよな?」

 智也は掴んでいた手を生田のごと振り払った。生田はされるがままで、抵抗の様子を見せない。

「……いや、ありえねえ。雅紀がマジになるはずがねえ。早苗なんて家事能力しかない女、俺がもらってやらなきゃ一生お一人様だ。結婚してもらえただけで泣くほど感謝してもらわなきゃならないってのに」

 智也は早苗に顔を向けた。早苗は桐谷のそばにいて顔をのぞき込んでいる。

「感謝して尽くすのが当然なのに、なに離婚だの告訴だの寝ぼけたこと言ってんだ」

 智也は早苗の近くへ歩み寄った。

「お前みたいなできそこないを主婦にさせてやったんだぞ?」

 早苗は振り返り、智也を睨みつけた。

「私は働きたかった」

「働かせてやったじゃねーか」

「智也が勝手に決めた職場でね。いつも私の意見なんて聞かずに何でも勝手に決めてくる。そんなのが夫婦だなんて言えるの? もう智也の妻でいるのは嫌なの!」

「何言ってんだ! 俺と別れたら、おまえなんか誰からも見向きされないぞ」

「それでいいよ。結婚したからって幸せになるわけじゃないんだから」

「なに?」

「そういうのを時代錯誤っていうんだよ。自分の価値観を押し付けないで!」

 早苗は一歩智也に近づいた。手を出せば届くほどの距離でも怯む様子はない。

「私は一人でも十分幸せなの。智也さえいなければね!」

 その啖呵で場は静まり返った。智也も言い返せない様子で、言葉に詰まっている。

 

「お送りします」

 レオの声がして、ぱっと視界が開けた。智也のところへ駆け寄り、その腕をつかんだようだ。

「なんでお前がいるんだよ」

 智也は慌てた様子でその手を振り払い、距離を取った。

「警察を呼ばれたくなければ、ご自宅へお帰りください」

 レオは早苗と桐谷のほうへ立ちふさがるように立っている。

「はあ? おまえと二人で仲良くドライブするかよ」

 そう言って、駐車場のほうへ向かった。しかし途中で立ち止まり、早苗のほうへ振り返る。

「おい早苗、ただで済むと思うなよ」

 しかし早苗はもう智也のほうを見ておらず、再び桐谷に話しかけていた。

「止まらないですね」

「大丈夫ですから」

 

 レオが智也に歩み寄る。

「じきに接近禁止命令が出ると思いますが、待てないというようであれば、私がつきっきりでお世話させていただきます」

「あ? なんだって?」

「行きましょう」

 智也が車の鍵を開けたタイミングで助手席のドアを開け、機敏にレオは乗り込んだ。

「乗るなよ」

「発進してください」

 ドアが閉まり、二人の男のやりとりは掻き消えた。


「とにかく血を止めないと」

 早苗の声に視線をそちらに戻すと、桐谷は頬を押さえていて、早苗が心配げに前から覗き込んでいる。

「いやぁ、お恥ずかしい」

 桐谷の顔は真っ赤だ。

「わざわざ殴られるなんて、そんなことしちゃだめですよ」

「誰かが殴られるのを見るよりは、自分が殴られたほうがマシです」

 桐谷の返答に早苗は目を丸くした。そして微笑を浮かべ、桐谷の腕をとった。

「中へ入りましょう」

「……はい」

 早苗に玄関のほうへ誘導されていく桐谷は、凍った身体を無理に動かしているようなぎこちなさで、さらに顔を赤くしていた。


 絵麻は二人の様子を目で追ったあと、生田を見た。

 彼も二人を見ていたようで、穏やかとも言える微笑を浮かべていた。

 そして絵麻の視線に気がついたのか、ふとこちらを向いた。

「謝罪するまえにバラされてしまいましたね」

 言いながら、こちらへ歩いてくる。

「本気で謝罪するつもりだったんですか?」

「ええ。今回のことで、いかに自分の価値観が歪んでいるのかを気付かされました」

 絵麻の前で歩みを止めた。

「僕は自分から女性を誘ったことはこれまでに一度もなかったんです」

「来る者は拒まずってやつですか?」

「そう。そして去る者は追わない」

 数回の対面だけでは、彼の性格を把握しきれていないものの、イメージ通りではある。

「早苗さんが初めてだったんです。ですから、これまで付き合ってきた女性とはまるで違っていて……」

 生田は言い淀んだ。

 確かに、早苗は生田のことを、画面の向こうにいる別世界の人のようだと表現していたほどだし、自ら誘うタイプでもないと思う。

 智也に頼まれなければ、二人は出会うことがなかったのかもしれない。

 出会うはずがなかった相手だから新鮮で、今までにない感情を覚えたということなのだろうか。


 しかし生田はそれ以上何も言わず、ただ諦念とも言える力のない笑みを浮かべただけだった。


「すみません。だめでした」

 そのとき、レオが駆け寄ってきた。

「なにが?」

 聞いた直後に、智也の車に乗り込んでいたことを思い出す。すっかり忘れていた。

「送り届けられませんでした」

「もう大丈夫でしょ。こっちは男が三人もいるんだし」

「ですが、我々が去ったあとは心配です」

 レオの言葉のあとに、ふっと笑った声がして振り向くと、生田はいつもの笑顔に戻っていた。飄々とした人好きの、朗らかなそれである。

「大丈夫ですよ。先輩はかなり小心者ですから」

 生田は歩き出し、「行きましょう」と促した。

 絵麻もレオとともに彼のあとに続き、三人は玄関へと向かった。



 中に入った途端に、リビングのほうから何やら楽しげな声が聞こえていた。

「よくそれであんな真似ができましたね」

「そんな言い方はないですよ。必死だったんですから」

「だって、これただの綿ですよ?」

「いてて! 消毒液がしみるんですよ」

「うそ! これ、しみない消毒液ですよ?」

「え?」


 入ると、早苗が桐谷の手当をしているようだった。二人はソファに並んで座り、早苗の膝の上には救急箱のようなものが広げられている。

「大丈夫ですか?」

 絵麻は別のソファに腰を下ろしながら聞いた。

 桐谷の頬はますます腫れてきているようだ。

「ええ。こんなの全然……いたっ」

 早苗は吹き出した。

「本当にしみてるのかな?」

 そう言っておかしげにクスクスと笑った。桐谷は痛みに顔をしかめていたが、早苗の笑っている姿を見たら蕩けたようにポーっとなった。目の中にハートマークでも見えてきそうだ。


「桐谷さん」

 リビングの入口に立ったままのレオが言った。生田もその横にいる。

「はい」

「病院へお連れいたします」

「えっ」

「私がお送りいたします。絵麻様も、私から離れないでいただきたいので、ご同行を願います」

 言うだけ言って再び玄関のほうへ消えていった。

 絵麻は立ち上がり、疑問と抗議のために後を追う。

「なによ、いきなり」

「もし再び柏木さんのご主人がいらっしゃっても、生田さんは柏木さんをお守りするだけだと存じますので、三人だけを残しては参れません」

「そうじゃなくて、病院なんて今行かなくていいでしょ?」

 しかし、桐谷は素直にも現れた。

「ありがとうございます。行きましょう」

「はい」

 レオと桐谷は二人で玄関を出ていった。

 まるで打ち合わせていたかのような二人を見て、絵麻はぴんと来た。

 今日桐谷たちが訪れたのは、生田の謝罪のためもある。二人きりにさせるべくの配慮なのかもしれない。

 認めたくはないが、レオはやはり意外と気が利く男なのかもしれない。

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